「事実は切り取り方次第」の自覚を

藤井 取材手法というか、被害者遺族について意見を交換してみたいのですが、これも前出の坂上香織さんのお書きになったものから引用させていただきます。
坂上さんはテレビ取材で多くの被害者遺族に接してきたと前書きをされて、「取材者が無意識のうちに対象者の声を誘導してしまう危険性や、取材者の意図を越えて「被害者」の感情がほとばしってしまう現実にも取材したときのことを次のように振り返られています。

***[夫婦は、事故からまだ数ヶ月しか経過していないにもかかわらず、常に冷静だった。二度と同じ過ちが起こらぬように医療制度を整備してほしい、というのが一貫した主張であり、単に責任者を殺してほしいというものではなかった。私自身、番組の取材を申し込んだのも、そのような冷静な態度と人間的な姿勢にひかれたからだった。もちろん、意図的な殺人ではない。しかし、医療制度の怠慢で娘の命が奪われてしまったわけである。理不尽な死を体験したという点において、そして親としての悲しみや憤りは、殺人事件で子どもを失った親と変わりないのではないかと思う。にもかかわらず、撮影を始めてからも、夫婦は責任者に対して、事故以前の対応に対しては心から感謝していると、敬意をもった姿勢で受け答えをしていた。しかし、ある瞬間から妻の表情が険しくなっていった。顔を赤らめ、涙を流しながら、訴え始めたのである。責任者には、娘と同じ苦しみを味わってほしい。死で償ってもらいたい、と。予想を超える展開に私は動揺したが、カメラマンにスイッチを切るように目配せをし、そのまま彼女の話を聞きつづけることにした。いくら冷静にみえても、取材相手は子どもを失ったばかりの親である。様々な感情を抱き、混乱し、混沌とした語りをするのは当たり前だ。そのことに想像が及ばなかった自分を反省するとともに、「死で償ってもらいたい」という箇所は番組中では使わないことに決めた]***

そしてこれが尺の短いニュース番組だったり、視聴者の目をひくわかりやすい涙と怒りに溢れた「被害者」を求めていたり、被害者は皆死刑を求めるというイメージを作られてしまったらという被害者報道はもちろんのこと、メディアに関わるものの自覚を問うことを書かれていて、僕も突きつけられる思いがする指摘でした。
森さんもこういう取材場面に立ち合うことがあると思いますが「語り」のどこを使うかということは、どこが真実でここが真実ではないということではありませんよね。もしかしたら坂上さんを信頼して心の檻のようなものをあふれさせたのかもしれないし、どこも真実だと思うのです。しかし一方で「冷静で医療制度を整備してほしい」という「語り」が撮りたくて行ったわけで、最初から被害者の語りをどういうかたちのピースにするのかプランがあったわけですね。それが狂ったから使えなくなる。
インタビューはおうおうにして脱線したり、期待していたものが聞けなかったり、それまで考えていたイメージとは真逆になることもしばしばです。ぼくもこういった経験は何度もしたことがあります。どの「語り」を使うかによって型にはまって被害者像が社会に伝わっていくことになるわけですから。
なかにはどこの部分を編集してオンエアするのかをあらかじめ確認させてほしいという遺族も多くなってきましたが、それはどう自分たちのイメージが流布されていくのかをチェックしたいのです。感情的に怒っているところを伝えてほしくない、と。

森 最近は新聞も、コメントのときはゲラをチェックさせてくれますよね。自分の言葉なのだから当然です。とくに「   」の中は、でもテレビは、まさしく
「   」なのに、これをさせない。顔までとって写すのに、被写体にオンエア前にチェックさせることをしない。放送局の外部の者に素材を見せてはならないという不文律があるからです。ならばなぜ不文律ができたのか。
テレビの取材って、一時間インタビューして使うのはワンフレーズのみってよくあるでしょう。というかそれをが普通です。使いたい箇所は最初からほぼ決まっているから、だから取材慣れなどしていない一般の方であれば特に、「自分が言いたいのはここだけじゃない」と思うわけです。部分だけになると文脈が変わってしまうこともある。事前に見せたら揉めることは必至です。ところがテレビの場合、賞味期限が極端に短い。とくに報道系は、今日とった素材の寿命は、今夜のニュースかせいぜい明日までです。だからOA前に揉めたくない。放送できなくなってしまう。
つまり手前の都合です。でもそれがいつのまにか、放送前に外部の者に見せてはいけないという不文律になってしまった。放送後に訂正させてほしいと思ってももう遅い。インタビューを受けたことを後悔したという人は、とてもたくさんいると思います。

藤井 百人百様で、遺族は事件直後の方だから「語り」はこう、10年以上経過した方だからこう、というようなことは決めつけられません。インタビューすべてを流すことができたらちがうのだろうけれど、事実は取材者の「切り取り方」でしかない一面がありますよね。事実とはそういう性格を帯びることにぼくらは自覚的でなきゃならないし、視座も思想もいれる。

森 現状の死刑廃止国においても、廃止派は六割で存置派は四割という割合が一般的であることが示しように、死刑ってなぜか人の心を二分してしまう。それはきっと個人の中においても同じなのでしょう。麻原判決のときは、「死刑には反対だけどあいつだけは特別だ」と言う人は多かった。考えれば考えるほど決められなくなったという姿勢は、ある意味でとても誠実だと思います。僕はもう揺るがないけれど。

藤井 ラジオ放送で死刑の模様を記録した者が流されたり、フセインの処刑が流されたり、あれを見て社会の多くの人たちはどう思ったのでしょう?フセインはくびられる直前で終わったけど、日本の刑死する映像を流したら、日本ってどうなるんだろうか。アメリカも最近、州によってだいぶ温度差があるけど、被害者部屋と加害者家族部屋があって、『デッドマン・ウォーキング』みたいに、最後の最後まで、静脈注射をするところまでたとえば見せたら、被害者の感情はどうなるか。それはほんとうにわからない。それが社会の犯罪防止につながるかどうか、これは本当にわからないところだと思います。

森 ある意味であたり前のことをいいます。廃止を求める人がいるから存置を主張する人がいる。この逆でもいいけれど、この二つは常に補完し合い、依拠し合っている。どちらかだけじゃ存在できない。片方が片方を否定しきった瞬間に、自らも存在理由を失ってしまう。だからとても悩ましい。
そうしたジャンルであるとの意識は持ったほうがいい。単純な対立ではない。思想や信条など、すべてが重なり合いながら見え隠れします。

森達也・藤井誠二「死刑のある国ニッポン」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?