癒しと否定

中沢新一
「癒し」というのは、「否定」の問題でいうと、どのあたりに入りますかね。まあ「癒し」もいろいろなパターンがありますが。

河合隼雄
「癒し」については本格的にはぼくもわかりにくいんですけど、いま「否定」という話でしている実感ではなかなか言いにくいんじゃないでしょうかね。むしろ「癒し」というのは肯定感情につながるでしょう。

中沢 親鸞の話ですが、日本の仏教が親鸞までいくと、結局、日本人が、それこそ縄文時代から持っている自然感覚とか、人間についての思いとか、そういう場所に着地していくんですね。否定を通して、そこの場所へ帰っていくようなところがあります。

「癒し」ということでいってはいけないかもしれないけども、たとえば吉本ばななのこんどの小説『虹』を見ても、人間の古い生き方、人間たちが自然を直感したり、知ってたりする生き方に、また着地していこうという動きがあるように感じます。

僕は「親子だなあ」と思います。吉本隆明の思想で、「大衆」ということが言われていましたが、最終的には親鸞とか「アフリカ的」というモチーフに深まっていっているでしょう。

まず近代の否定を突き抜けて、そこからアフリカ的大地というのか、親鸞的な大肯定の大地へ向かう。それは「大衆」とも言うだろうし、そういうところへ着地することを思想の任務にしています。

面白いことに、吉本ばななも同じサイクルを描いていて、彼女の場合は「文学」で、しかもそれが「癒し」と評価される。たしかにそういう場面があると思うんですね。だから僕にとっては「癒し」というのも、先生がおっしゃったように「肯定」の問題に関わる。

河合 そうです。

中沢 ただ「癒し」といわれているもののなかにもいろいろな質がありますから、この「肯定」は、近代思想的なものを否定して、それから未知のものに着地していく大きいサイクルを描こうとしている。吉本親子の抱えている「否定」と「肯定」の大きいサイクルを感じます。

河合 そうなんです。言うてみたら自己肯定の質なり、レベルなりがいろいろあるということになるんでしょうかね。

中沢 ですから「癒し」という言葉も、僕は「否定」と結びつけて理解して欲しいと思うんです。単に居心地のいい場所、気持ちのいい場所に自分が入っていくということであれば、「ライオンはお父さんですよ」という解釈とあんまり変わらないところに行ってしまう。だけど、本当に「癒し」というものがもしあるとしたら、そこに「否定」が入り込んでこなくちゃいけない。

河合 何となく漠然と否定超みたいなものを持っているけれど、強い「否定」を体験する人は、かえって日本では少ないかもしれません。漠然と否定的で、どこか何か探している。そうすると漠然とした「肯定」でも「癒し」を感じるという、下手したら本当にレベルの浅いものになってしまう。たとえば気持ちのええ音楽が流れてきたり、温泉へ行ったり、林の上から木漏れ日が降りてきたり、「そんなものやないぞ」と僕は言いたいですね。深く傷ついた人、つまり深い「否定」を体験した人は、そんなことでは絶対に癒されませんよ。何だか飼いならされた「癒し」が、現在は流行っている感じもしますね。

河合 隼雄・中沢 新一「仏教が好き! 」

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