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『ブレックファスト・クラブ』(1985)は一般教養として観る傑作映画だ

 映画の中には、定型となるようなパターンがいくつかあります。例えば「ロッキー」は、「勝負に勝って試合に負ける」であったり、「世間では負け犬でも、俺/私からこれだけは奪えない」という尊厳をかけて主人公が世界と闘うプロットを作りました。

「世界に一つのプレイブック」や「リトル・ミス・サンシャイン」、「桐島部活辞めるってよ」、「サニー 永遠の仲間たち」、「ラ・ラ・ランド」「ウォーターボーイズ」、そして「カメラを止めるな!」などなど…心がアツくなる全ての映画には、ロッキーのイズムが見てとれます。


 他にも、「ライオンキング」と「アクアマン」と「バーフバリ」は、基本おんなじ話です笑。王様の息子が国を追放され、下界を放浪した後に成長して帰ってくる。そして肉親と戦った末に王の座に座る。ベタ中のベタですが、どれもちゃんと面白くなっています。


 今回取り上げるのは、そのパターンの1つを作った青春映画の記念碑的作品、1985年のアメリカ映画「ブレックファスト・クラブ」です。なぜこの映画かというと、この映画を監督したジョン・ヒューズ(すでに亡くなっています)に対するリスペクトが、ここ数年止まらないからです。


 ジョン・ヒューズ監督は80年代のティーンエイジャー向け青春映画を何本も作った人で、日本ではそこまで名前が知られていないと言って差し支えないと思います。
まぁ少女漫画を実写化した、イケメン俳優&アイドル主演の10代向けラブコメ作品の監督をいちいち気にしませんよね?
 ですがハリウッドで活躍し始めたクリエイター達、ちょうど40代ぐらいで製作に影響力を持てるようになった人達が、学生の頃に熱中したジョン・ヒューズ作品への愛を叫び始めたのです。僕が記憶する限り、2012年の「ピッチ・パーフェクト」が最初ではないかと思います。これは本当に大傑作で、特にこの時期海外ドラマの「glee」にハマってた僕はドンピシャで、速攻サントラを書いました。「ピッチ・パーフェクト」は劇中で「ブレックファスト・クラブ」が引用され、しかもそれが物語上の鍵になります。


 「(500)日のサマー」でも「卒業」が引用され、なぜサマーがトムと別れるかは、この「卒業」の引用を理解しないと分かりづらいと思います。(『卒業』のエンディングをハッピーエンドと解釈するトムと、そうでないサマーが対比されている)



 このようにアメリカ映画では、「これ一般常識でしょ?」って感じで過去の映画が引用されます。「ピッチ・パーフェクト」だけならまだしも、「スパイダーマン:ホームカミング」では同じくジョン・ヒューズ監督の「フェリスはある朝突然に」がオマージュされました。MCUのような大作にさえ、ジョン・ヒューズリスペクトが波及しているのです。


 さらには去年、あのスピルバーグが「レディ・プレイヤー・ワン」でもジョン・ヒューズネタをいくつか仕込みました。あれは小ネタでしたが、同じく去年のこれまた傑作の「ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル」はジュマンジのリメイクというより、実質的には「ブレックファスト・クラブ」のリメイクでした。


 そして今年も堤幸彦監督の「十二人の死にたい子どもたち」という映画は、推理サスペンスの皮をかぶっていますが、やっぱり「ブレックファスト・クラブ」がやりたかったんだなぁという作品でした。

さらにさらに、トランスフォーマーシリーズのスピンオフ「バンブルビー」でも、やっぱり「ブレックファスト・クラブ」が出てきます。


 つまり「ブレックファスト・クラブ」は、向こうじゃ知ってて当然な上に、作り手が好きだから何回もこすられるのです。ただ、幸いなことに本作はamazonプライム会員なら視聴することができます。上映時間も97分と、サクッと観れる方だと思います。なので、まだ観ていない人は是非観てください。ここから先はネタバレ有りで文章を書いていきます。

<あらすじ>
 接点のない異なるタイプの高校生、すなわち「スポーツマン(エミリオ・エステベス)」「秀才(アンソニー・マイケル・ホール)」「不良(ジャド・ネルソン)」の3人の男子生徒と「お嬢さま(モリー・リングウォルド)」「のろま(アリー・シーディ)」の2人の女子生徒は懲罰登校を命じられ、休日に図書室で「自分とは何か」をテーマにした作文をヴァーノン先生(ポール・グリーソン)から課される。それまで付き合いのなかった5人は次第に自分の心をさらけ出し、家族や学校への鬱屈した気持ちを語ったり、ともにマリファナを吸ったりして、心を通い合わせていく

<何が革新的だったか>


 前述したように「ブレックファスト・クラブ」は以降の青春映画に決定的な影響を与えました。その新しさは、「スクールカースト」を描いたことにあります。僕たちは「スクールカースト」という概念が言語化された世界に既に生きていますが、この映画が作られたのは実に30年以上前のこと。
 自分と違うカテゴリーの人間を「いじめ」で排除するわけじゃない。けど、なんとなく同じようなタイプの友達とだけ固まって、それ以外の同級生とは距離ができる、よそよそしくなる。だけども、やはり明確に階層のランク付けはあって、そこに優越感や劣等感を持って学校生活を送っている。
 たぶん先進国では全世界共通の、しかも誰もが通る普遍的な問題だし、30年たっても未だに克服出来ない問題でもある。だから、いつまでもオマージュされるし青春映画のバイブルになったのだと思います。

<なぜ誰も作文を書かないのか>


 見返すと「ブレックファスト・クラブ」は話が転がっていくのが結構遅くて、序盤は割と退屈だと思う人が多いと思います。もしかすると、5人がいつまでたっても課題の作文を書かずに眠ったり、雑談をしたり、こっそり図書室を抜け出すことにイライラする人もいるだろうと思います。
 その人は、立派な大人です。ただ、これは褒め言葉ではありません。だってアリソン曰く、大人たちは「心が死んでいる」から。


 作文を書かないのではなく、書けないのです。だって「自分とは何か?」なんて、分からないもん笑。僕は未だに「自分はまだ何者でもない」と思っていますが、自意識をマックスにこじらせている高校時代に「自分はこんな人間なんだ」と言えるでしょうか?
 言えないし、言いたくないという気持ちにならないでしょうか?「自分は特別だ」と、そう思いたいけども、結局自分は平凡だという現実をどこかで受け入れ始めている。その狭間で一喜一憂する、それこそが思春期ではないでしょうか。


 「ブレックファスト・クラブ」でも、それぞれが自意識を持っています。俺はイケてる、私は美人で人気者、僕は勉強なら負けない、みんなガキみたいでバカみたいだ、自分は早く大人になりたい…一方でコンプレックスもあります。童貞だ、処女だ、友達がいない、親の言いなりで自分の意志がない、本当は自分に注目して欲しい…「自分とは何か?」を突き詰めれば、何者でもないという結論が出てしまう。その結論を出さないように悪あがきしたい気持ちを、彼らは閉じ込められることで奪われています。

 余談ですがWeezerのBeverly Hillsという曲は、本作のブライアンみたいなオタクで奥手でイケてない男子高校生の自意識を、そのまま歌詞にしたような歌です。めっちゃ染みます笑。

<図書館を出ることで物語が始まる>


 この映画の前半部分は、登場人物5人の会話を通じてそのキャラクターを丁寧に説明していくのですが、そのセットアップが鈍重なのは否めず、場所も変わらないので少々退屈です。映画が面白くなり始めるのは、彼らが図書館を抜け出してからです。

 5人は教師のバーノンの目をかいくぐり、ジョンが持つマリファナを手に入れて一発キメます。そして爆音で曲をかけて、みんなでノリノリでダンスします。(またこの曲と踊りの感じがモロに80`sな感じもたまらなくいい)割と堅物で優等生に見えた、スポーツ馬鹿のアンドリューが一番
はっちゃけて縦横無尽に駆け回ります。


 「押し込められる」ことに対しての反抗が、この映画の大きなテーマです。それは「君はガリ勉」とか「君は不良」みたいなレッテルの押し付けもですが、アンドリューが独白するように「親からのプレッシャー」というものもあります。ジョンのように親から虐待されている子もいれば、クレアみたいに両親が不和な子もいる。5人は程度の差こそあれ、「自分は親のようになりたくない」という反抗心を持っています。

 僕はこのシーンで、尾崎豊さんの「卒業」という曲のことが浮かびました。 初めて聴いた時は「こじらせてるな」とか「中2病だな」とか「こういう自分に酔ってて周りの規律乱すような奴苦手だな」とか思いました。お前が卒業式に出ないことは自由だけど、勝手に学校の窓ガラス壊すんじゃねーよ。それで迷惑すんのは用務員さんであり、先生だからと。


 しかし今聴き直すと捉え方が全然変わりました。特に次の一節は今の時代を言いえています。

人は誰も縛られた かよわき子羊ならば
先生あなたは かよわき大人の代弁者なのか
俺達の怒り どこへ向かうべきなのか
これからは 何が俺を縛りつけるだろう
あと何度自分自身 卒業すれば
本当の自分に たどりつけるだろう

 優等生と不良を選別する「先生」は大人社会のシステムの一部であって、だから学校というのは世界の縮図でしかないのです。それ以上に問題なのはシステムが決める「良い人」でい続けたとして、何の幸せも保証されていないという絶望的な現実です。

例えば官僚のトップがトカゲのしっぽ切りみたいに、国会で「差し控え」続けたり、終身雇用なんてとうに崩壊してるのに企業は人をこき使うし、環境破壊のあおりを受けて毎年のように災害で人が亡くなったり。
 社会のシステムそのものが間違っているのに、そのことを指摘すれば「不良」だし、でもじゃあ一生優等生でいてストレスを抑え込むように生きなければならないのか。

尾崎さんがこの曲を書いた時にはすでに20歳、つまり大人だったわけですが、これはこじらせの歌ではなく心底ピュアな人がつづった「汚い大人になることへの恐怖」の歌だったわけです。
 「ブレック・ファストクラブ」も同じです。「大人になると心が死ぬ」というセリフは、大人への不信感だけでなく、自分もいつかそういう大人になるという逃れられない運命への絶望なのではないでしょうか。

<この映画の神様は用務員のカール>

 セコくてズルくて自己中で弱い、そんな大人を象徴するのが教師のバーノンです。コイツはどうしようもないダメ教師ですが、一応彼なりに悩んでいるシーンがあります。そこでバーノンが相談するのが用務員のカールです。

バーノンは彼に「今の子どもは何を考えてるか分からない」と言いますが、カールは「今も昔も変わらないよ」と言います。そう、これは世代の問題ではなく恐らく今後もずっと続いていく問題だからです。カールは5人を影から見守ると同時に、全てを達観したキャラクターで、ジョン・ヒューズの分身のような存在です。教師という管理体制でもなく、かといって生徒側でもない中立な存在、その彼が話しかけるのがブライアンなのもポイントです。

<改善の余地はいくつもある だからこそのバイブル>

 すごく内省的で圧迫感のある本作ですが、どうしても80年代的なお気楽&ご都合主義的要素がもったいなくもあります。特にラストでジョン&クレア、アリソン&アンドリューがくっ付く展開は、あまりにも唐突です。

アリソンなんてあんなヤベーやつだったのに、化粧で個性をはぎ取られて、「古臭い価値観の中での可愛さ」を手に入れたとたん、アンドリューが好意を持つというのは、今の時代なら反感しか買いませんよ。結局顔じゃん!っていうか、そのままの彼女の方がチャーミングだろ!とかね。


 そしてブライアンだけが余る笑。でも、それはきっとジョン・ヒューズが一番ブライアンに感情移入しているからだと思います。その証拠に映画の冒頭と最後にはブライアンの書いた作文のモノローグがあります。「自分とは何か」というバーノン先生の押し付けに対する「反抗」を言葉にし、「僕はみんなのことを無視しない」と涙ながらに訴えたブライアンこそが、実は本作で一番重要なものをゲットしたと僕は思っています。
 だから他の4人はご都合主義のなハッピーエンドでも、ブライアンだけは映画を観た人が感情移入できるリアルな結末になんでしょう。

 「ブレックファスト・クラブ」はしかし、登場人物全員が白人で人種問題とスクールカーストの関連性を描いていません。あるいは健常者と身体障害者、あるいはセクシャルマイノリティの問題…こうした「余地」の部分を拡大解釈し、ティーンの絶大な支持を受けたのがドラマ「glee」です。

 それから「ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル」や「レディ・プレイヤー・ワン」を観れば、恋愛面においてピエロだったオタクポジションが、ついにヒロインをモノにするというパターンも見られるようになったかなと思います。(ま、それは全然リアルと思わんけど笑)

<終わりに:世界は一つじゃない>

 日本にもスクールカーストはあります。それが言及しやすい雰囲気が生まれたのは、たぶん「アメトーーク」の「中学の時イケてないグループに属していた芸人」以降だと思います。

ただ日本はアメリカよりもっと同調圧力が強くて、学校の磁場が強いのではないかと思います。だから世界の全てが学校みたいになって、閉鎖的で居心地の悪い思いをする人達が不登校になったり、毎年のようにいじめで自殺する人が生まれてしまうんだと思います。
 「ブレックファスト・クラブ」が素晴らしいのは、前述したように言いつけられた決まりを破り、図書館を抜け出して、社会的なモラルすら飛び越えてマリファナを吸うことで、ほんの少し主人公たちが解放されるところにあります。世界は目に見えているものだけではありません。いまの人間関係に辟易としていたり、社会とのつながりにストレスを感じている人にこそ見て欲しい傑作です。

 そして今作含めジョン・ヒューズ監督の作品がなぜアメリカでリベラルアーツ化したかについては、山崎まどかさんと長谷川町蔵さんの対談形式のコラムをまとめた『ヤング・アダルトUSA』という本の第1章に詳しく書いてあり、これもオススメです。


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