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【きらり/藤井風】歌詞考察:いまを生きるヒントを散りばめた最高到達点


【はじめに:トレンドを押さえた『きらり』】

USではかれこれ5年以上、「80’sリバイバル」がトレンドとなっている。最近でいえば、Dynamaite以降のBTSなどがまさにそれだ。また、この流れを最も牽引しているアーティストと言えば、The Weekendだろう。Justin TimberlakeのCan’t Stop The FeelingとかMaroon 5のSugarなどが、一連の潮流の中でメガヒットとなったのも記憶に新しい。

彼らを結ぶ共通項は言わずもがな、マイケル・ジャクソンである。


マイケルほど毀誉褒貶が激しいというか、死後の掌返しが凄まじかったアーティストはいないだろう。いま現在の方が音楽史への影響力を持っている点でも、彼はすでにバッハやベートーベンなどと同じ「くくり」にしてもいいかもしれないが、それはまた別のお話。

その偉大な功績のひとつが、「非黒人にもできるブラックミュージック」を作ったこと。『Black or White』という楽曲名に表れているように、彼は「黒人/白人」の境界線を越えた。もちろんマイルスやジミヘン、スライ・ストーンにプリンスなど、クロスオーヴァーを実現したアーティストは枚挙にいとまがないが、マイケルほど人種や国籍問わず、世界中の子どもたちをワナビーにさせた人間は存在しない。もちろん藤井風も、間違いなくその一人だ。

『きらり』は、前述したトレンドにつながるアップテンポナンバー。ここまでダンサブルかつ、軽快で、MVのような雲一点ない根アカチューンは初めてではないだろうか。車のCMに使われるのも納得の疾走感、万人がノレる「4つ打ち」で勝負をかけた感じが伝わってくる。

(※追記:9/4のFree liveでマイケルのHeal The Worldを演奏。
『きらり』はキーが高く、スタジアムで全員熱唱するタイプの楽曲というより、やはりコロナ禍という必然性の中で生まれたものだなと再確認。むしろ新曲の『燃えよ』は、アンセムタイプの楽曲だと感じました)

【一見根アカだが実はそうではない】

しかしながら、僕が注目したいのは音ではなく言葉である。なぜなら、『きらり』こそ現時点で風くんの歌詞の最高傑作だと考えているから。根アカソングと紹介したが、実は歌われていることはシリアスだ。

あとで歌詞の意味を知って、「そういう歌だったの!?」と驚くことはないだろうか。例えば僕の場合、Radioheadの『The Bends』がそうだった。このアルバム、基本的に暖かい音色の曲の歌詞が超ネガティブで、むしろ冷たい音色の方が前向きだったりするので、サウンドから受ける印象と歌詞にギャップがある。

同じように『きらり』も過酷な現実社会への「カウンター」として、あの根アカな音像が構築されているのだと想像する。現実逃避というよりかは、音を奏でる高揚感(カタルシス)によって、現実の壁を乗り越えていくような目的意識なのではないだろうか。

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歌詞も同様だ。本作は今までになく押韻が多いだけでなく、「きらり」「さらり」「ほろり」「ゆらり」といったオノマトペも多用される。もちろんグルーヴ感を作るためという理由もあるだろうが、それ以上にこの「音」の連打がテーマと通底しているからだと考察する。

前置きが長くなってしまったが、今回は『きらり』の歌詞を考察し、この楽曲で風くんが伝えたかったことを「コロナ禍と気候変動」、「愛による執着からの解放」、「無意味という意味」という3つの切り口から解剖したい。

【①気候変動とコロナ】

まずは最初の1行を読んでみよう。

荒れ狂う季節の中を二人は一人きり さらり

いきなり「荒れ狂う季節」という不穏な言葉。一旦、MVのあの爽やかで心地良さそうな天候を頭からリセットして頂きたい。そしてここ数年の日本の夏を思い返して欲しい。そう、あんな夏なんてもうあり得ないのだ。

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「荒れ狂う季節」は、明確に地球温暖化や気候変動を意味している。酷暑、大雨、スーパー台風、大寒波、そしてその結果としての災害。それらが冒頭に凝縮されている。

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さらに次の「二人は一人きり」というのは、もっと分かりやすい。コロナ禍によるソーシャル・ディスタンスを想起させる。スマホやSNSの発達で、物理的でなくとも会うことは容易な時代だが、だからこそそれぞれの部屋で、「一人きり」であることを痛感する人も多いのではないだろうか。

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つまり、最初の1行だけで、気候変動とコロナ禍というこの上ない「今」をテーマにした歌ですよという宣言をしている。実際、歌詞全体も「今を生きろ」というエールになっている。
そして2行目が面白い。

明け行く夕日の中を今夜も昼下がり さらり

夕日なのに明け行く?夜なのに昼下がり?一体どういうことだろう。この1行から僕が直感的に感じた言葉を羅列する。

「あべこべ」「ちぐはぐ」「神経衰弱」「認知の歪み」「現実逃避」

などなど、とにかく精神的負荷を暗示させる。実際、冒頭2行のこの凄まじくネガティブな立ち上がりとリンクするように、Aメロのサウンドも非常に抑制的である。

【②.繰り返されるテーマ:愛と執着】

しかし、ここから少しづつ風くんの心は攻勢へと打って出る。そこでキーワードになるのが、過去3回の記事にも共通する「愛」である。

キリスト教や老荘思想などの影響を受けた風くんの哲学の根源にあるのが、

愛によって全ての執着から解放される

という考え方である。これを踏まえて読み解いていくと、『きらり』も非常に分かりやすくなる。
歌詞の一部を引用しよう。


新しい日々は探さずとも常に ここに
あれもこれも魅力的でも私は君がいい
何もかも 捨ててくよ

「新しい日々」「あれもこれも魅力的」→執着(×)
「ここ」「君」→愛(◎)
「何もかも捨てる」=「執着からの解放」 と、見ることができるだろう。

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さらに、その詞の大きな特徴は、「私」も「君」も自身のオルターエゴであり、「脳内での対話」として読み解くことが出来るというものだ。実際、『きらり』も過去や未来の自分ではなく、いま現在の自分をいちばん愛せ!という自己肯定ソングと見ることも可能ではある。

【いま現在の自分を一番愛せ!】

ただし、個人的には今回の「君」は「わたし」のオルターエゴではなく、現実に存在する「他者」として解釈すべきだと思う。なぜなら、これはコロナ禍のいまをどう生きるかについて歌ったものであり、気候変動のその先をどう生きていくかについて歌っているからだ。その証拠に、サビでもう一度その2つは強調される。

荒れ狂う季節(=気候変動)の中も群衆(=コロナ禍)の中も
君とならば さらり さらり

文明社会において、私たちは他者の存在無くして絶対に生きてはいけない。だから風くんはいまを生きるために愛が不可欠だと言いたいのだ。(このあたりはVaundyの『不可幸力』とも通じるね)


風くんの曲はすべて「愛」について歌ったものであるが、いわゆる「恋愛ソング」は実は1曲もない(と、僕は思っている)。
そういう意味では、今回の『きらり』は正真正銘初めてのラブソングと言って差し支えないかもしれない。
さて、ドラマ『大豆田とわ子と3人の元夫』も、「今の自分を一番愛そう」という着地をした点で、『きらり』と全く同じテーマの作品だった。

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【脱線:大豆田とわ子論(※ネタバレ有)】

3度の結婚の失敗、新しい男との出会い、友人との死別、建築家としての自分のキャリア、子育て…松たか子演じる主人公のとわ子は、「幸せでありたい」と望むが、そこには常に「現実との折り合い」が存在する。セリフの中でも「平行世界」という言葉が出てくるが、「もしあの時ああしていれば今の自分はまったく別の人生を歩んでいたのではないか」という考えを、誰しもが抱いたことがあるだろう。

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「幼馴染の友人と漫画家になっていた世界」、「両親が離婚しなかった世界」、「最初の夫との幸せな世界」、「経営者ではなく建築家(アーティスト)として好きな仕事に向き合うことを許された世界」…それを想像する度に、現実の自分の中途半端な状況が辛くなってしまう。

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そんなとわ子を解放したのは、他でもない他者だった。まず、気づきを与えたのがオダギリジョー演じる小鳥遊で、彼は「時間」というのは人間が作り上げた幻想でしかないという。過去も未来も存在せず、ただこの瞬間しか存在しないのだと。確かにそうだ。僕たちは「歳をとる=成長する」という既成概念に寄りかかっているが、ただ緩やかに「酸化」していっているだけに過ぎない。

しかも小鳥遊はいわゆるヤングケアラーで、「自分の人生」とか「他者の人生」という境界線をあまり持たない人間として描かれる。何不自由なく生きてきた人間からすれば、親族の介護によって青春を奪われ、社長の駒となって汚れ仕事をしていて、「自分の人生」を選ぶことが出来ないように見える。にも関わらず、彼はとても前向きに幸せを目指しているのだ。

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次にとわ子にヒントを与えるのは、母の恋人だった國村(風吹ジュン)だ。彼女は、「人間は矛盾して当然だ」と説く。最終的に1つしか選べないわけだが、それは「現実への妥協」ではなく、愛なのだと言うのである。これを聞いた娘の唄は、医者になるためにもう一度勉強したいと言い出す。

大豆田とわ子-1

最後に3人の元夫たちがとわ子を励ます。

「大豆田とわ子は最高だってこと」

自分と他者を完全に切り離すことは出来ない。服装、言葉づかい、映画や音楽の趣味、それにあらゆる思考や行動は自らの自由意志によって決定されている、というのは実は全然間違いだ。
実際には家族や友人、恋人などの影響をモロに受けている。つまり僕やあなたの中にも他者が存在している。
とわ子も同様で、3人の元夫との結婚生活によって彼女の中にも彼らがいるし、彼らの中にも彼女がいる。だから元夫たちの人生もとわ子にとってのパラレルワールドなのだ。過去を後悔したり、未来に思いを馳せる必要はない。他者の人生を切り離すのではなく、自分の人生の一部だと思えば「今」は光輝くーそういうドラマだったと、僕は解釈している。

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【詞の凄いところ】


大幅に脱線してしまったが、今回の『きらり』の詞の白眉となる部分は、個人的にここだと思う。

何か分かったようで
何も分かってなくて
だけどそれが分かって本当に良かった

簡単に言えば「ああ俺/私ってマジで何も知らなかったんだなー」という実感である。これは恋愛や夫婦生活の醍醐味ではないだろうか。
「大豆田とわ子論」から続くが、誰かと一緒になるというのは自分の心の中にその人を住まわせることと同義である。だからこそ、自分の知らない世界の扉を相手が開いてくれるし背中を押してくれる。そして発見がある。それが続いていくからこそ「今を生きる」ことも出来るのだ。

次にやはり全体を彩るオノマトペである。僕は現代短歌の木下龍也さんのこんな1首を思い出した。

「かなしい」と君の口から「しい」のかぜそれがいちばんうつくしい風

言わずもがな「しい」という音で押韻していくことでリズミカルな歌になっているわけだが、それ以上に注目すべきなのは「悲しい」を解体し、意味を排除したことで、音という美しさを発見している点だ。
おそらく相手に別れ話を切り出されている最中にも関わらず、筆者はどんなネガティブなニュアンスさえもポジティブなものに変換してしまっている。それがまた一層切ないのだが、「音が意味を超える瞬間」をみずみずしく切り取った名歌だと思う。

【③.無意味という意味】


『きらり』のオノマトペも、一見すると意味を持たない言葉の羅列だ。目の前に横たわる光景だったり、他者が他者を糾弾する際に使われる「正論」のようなものだったり、それらが必然的に強い意味を持ってしまうのとは正反対である。だからこそ、「きらり」とか「はらり」とか「ほろり」は末尾に付いているのではないだろうか。
これらは「音が意味を超える」を体現しているし、それこそが音楽の本質だったりする。すべてはおまじないのようなもので、『優しさ』の象徴でもある。そう、何度も何度も同じ結論をぐるぐる回ってしまい恐縮だが、『きらり』とは愛そのものなのである。

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