【この歌詞が凄い!】#1 Sweet Child O' Mine /Guns N' Roses
【はじめに:軽薄・下世話で何が悪い】
「この歌詞が凄い」と聞いて、どんな歌を思い浮かべるだろうか。松本隆、井上陽水、松任谷由実、中島みゆき、宇多田ヒカル...といった面々?当たり前だが、そこに作家性や世界観があったり、映像が頭に浮かぶような情景描写があったり、造語やパンチラインとなる強いワードがあるほど、その詞の評価は高まる。
つまり、純文学風なほど評価されるのは否定出来ないだろう。反対に軟派なもの、下世話なもの、バカっぽいものは過小評価される傾向にある。そして、そんなイメージのついたアーティストは、その時点で歌詞にあまり着目されないことが多い。私が取り上げたいのは、まさにそんな歌詞の「凄さ」だ。第1回は、あえて洋楽。それも軽薄で下世話で文学性など皆無なイメージのガンズについて。
【本当にこれはロマンチックな歌詞なのか】
ギターリフやギターソロのランキングではかならず上位に入る「Sweet Child O' Mine」だが、海外サイトによるとその歌詞は
となっているが、果たして本当にそうだろうか。私は「決して救われない深い絶望の歌」だと解釈する。
タイトルの「俺の可愛いチャイルド」とは、その恋人と「まだ可愛かった俺の幼少期」のダブルミーニング。歌詞は、恋人を見つめていると、不意に自身の少年時代を回想してしまうという構造で、アクセルの「思考」が現在と過去を行ったり来たりする非常に内省的なものだ。
恋人と子どもの頃のアクセルの共通点は、「無垢な存在」だということ。現在のアクセルは既に汚い大人になってしまったわけで、この曲はガンズ版『汚れつちまつた悲しみに』なのだ。
あえて私が思う‟アクセル調言葉遣い”で意訳しているが、このくだりは非常に文学的ではないだろうか。雲一つない快晴の空と恋人の笑顔から、一転して土砂降り。雷が轟き、膝を抱えて雨宿りをしながら怯えている少年の姿がありありと目に浮かぶ。完璧な世界が一瞬で崩壊する、不穏なフラッシュバックをアクセルは見てしまう。それは未来の暗示に思える。
【人間は矛盾した生き物】
中間部のスラッシュのギターソロの後、Cメロが入る。
そこでアクセルはひたすら「俺たちどこへ行こう?」と繰り返す。
このCメロとギターが絡みあいながら曲は終わりまで進んでいく。中学1年生でも分かる簡単な文章を連呼しているだけに思うかもしれないが、「凄み」はここにあるのだ。ここでの「俺たち」も、「アクセル&恋人エリン」、「現在&少年時代のアクセル」のダブルミーニングと考えられる。
純粋無垢で世界の美しさを浴び、恐さから守られてきた少年時代。その無限の可能性が閉じたことを受け入れ、欲望のままに堕落していく...そんな「ギャップ」に最も説得力がある人間こそ、アクセル・ローズだと思うのだ。
有名な話だが、「Sweet Child O'Mine」が収録されたデビューアルバム『Appetite for Destruction』の最終曲『Rocket Queen』の喘ぎ声は、ドラムのスティーヴン・アドラーの当時の彼女とアクセルがセックスした時の実際の音声だ。「ロックスターっぽい」、「80年代らしい」と言ってしまえばそうなのかもしれないが、彼女はその後数年間、罪悪感で後遺症に悩まされたという。
アクセルの天敵とも言うべき、90年代の寵児カート・コバーンの自嘲・自己嫌悪表現は確かに時代を作った。だが、あえて批判的な見方をすれば、その自己嫌悪自体はあくまでファッションに過ぎない。「自分を嫌いなオレ・私かっこいい」とでも言うべきか、本当の絶望ではなかったし、そのことに対する後悔・怒りが結果的に彼を自殺に追い込んだように思えてならない。
しかし時間が経ち、歴史は複雑なニュアンスを単純化した。実人生と作品世界は同一化され、カートはロックスターとして祭り上げられた。(自殺の動機自体、それを目論んでいた節もありそうだが)
私はあからさまな絶望ソングよりも、表向きパーティーチューンの中にそっと忍ばせたささやかな絶望の方が心を掴まれる。
アクセルは本当に女性を傷つけまくったクソ野郎で、それでもルックスが良いからモテ続け、分かりやすく酒にもドラッグにも溺れていた。もちろんそれは非常に憎たらしいし、そこには全く感情移入できない。
でも内心「俺って本当にこのままでいいのかな」と思っていて、にもかかわらず大きな行動には踏み出せないという点には、カートよりも共感出来てしまうのだ。そしてそれは、そこに「人間」を感じるからだろう。人間とは矛盾する生き物。人に厳しく自分に甘い。努力しなければいけないのに怠ける。相手のことが好きなのに傷つけるものだ。
【アドリブが生んだ奇跡】
where do we go now?は、そんな人間の本質が凝縮されたラインだと思う。驚くべきことに、この歌詞はアドリブだという。Cメロはプロデューサーの提案で付け加えられた部分で歌詞がなく、アクセルはその場で急遽思いついた言葉をでたらめに歌った。レコーディングの状況自体をwhere do we go?(これどうなるの?)と言っているだけなのだという。
この話で思い起こすのが、映画『卒業』のラストシーンだ。アメリカンニューシネマを代表する傑作青春映画で、結婚式場から花嫁を奪い去る場面はあまりにも有名。2人は意気揚々とバスに乗り込むが、次第に表情から笑みが消えて、すごく居心地が悪そうになる。勢いで社会に反抗したはいいが、その先の「現実」はどうなるのだろう。そんな2人の展望のない未来を暗示して映画は終わる。
まさにwhere do we go(これから僕達どうなるのだろう)なラスト。映画史に残る場面だが、実は監督マイク・ニコルズが現場で厳しい人だったらしく、「あーこれでやっと終わる」という安堵や疲労を、観客が「複雑で重層的なニュアンスの表情」として勝手に受け取ってしまったらしい。
【終わりに:作者は全能ではない】
以前に何かに書いたと思うが、私は「考察」ブームが嫌いだ。今、まさに歌詞を考察してるじゃんと思われるかもしれないが、ここで批判する「考察」とは、ストーリーや人物設定、台詞から小道具に至るまで、全てをクリエイターがコントロールしている前提で作品を鑑賞する見方を指す。
そんなわけがない。現場ではあらゆる偶然が起こり、その都度妥協や計画変更が生まれ、その積み重ねが作品になる。だからこそ面白いのだ。
だが、大衆は分かりやすい天才を求める。その世界観を唯一の神が設計したと考えたくなるのだ。私自身、藤井風をそのスタンスで褒めているので自省も込めて。
例えば荒井由実と宇多田ヒカルのデビュー作の『ひこうき雲』、『First Love』は名盤であることに異論はないが、どちらもサウンドプロダクションの全てを彼女たちがコントロールしているように感じられない。というか、むしろ「コントロール出来ていない」印象だ。
『ひこうき雲』は、細野晴臣、鈴木茂、林立夫といった面々が、自分たちが普段やりたいけど出来ないマニアックな演奏を、このアルバムを利用して発散しているように感じる。(特に楽曲として弱いものほど)
『First Love』は今の宇多田ヒカルなら絶対にしないアレンジメントで、良く言えば当時最先端だが、悪く言えば時代を感じる。だから彼女が今回ベストアルバムの曲を録り直した理由もそこにあると思う。ジョージ・ルーカスが『スター・ウォーズ』のCGを何度も差し替えたように。
作者は全能ではない。だが、一度「天才」というパブリックイメージが確立すると、それを崩すこともまた難しい。むしろアーティストは少しナメられていたり半笑いで語られている方が、伸び伸びと自分の表現に邁進出来るのかもしれない。次回も、そんな人の「凄い」歌詞を取り上げたい。
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