「失くしたものじゃなくて、あるものを数える」#呑みながら書きました

お酒が強くないのに日本酒が好きなので、先週は酔っ払ってそのまま寝ちゃって、本妻には本祭にはついに参加できませんでした。

ただ楽しめばよかったのかもしれない。すぐに真剣になって、真面目に考えてしまうのは、あまりよくない。考えすぎるのも悪い癖だ。

noteを投稿して、次の瞬間には「恥ずかしい!やっちまった!」としょっちゅう思ってます。どんなふうに書いても、自分じゃないみたいで、読み返したら「これ俺じゃないよな」と思うことって、ないですか? 過去の自分の投稿って恥ずかしいからほとんど読み返すことはないし、誰か別の人が書いたみたいで、いまの自分からは遠いことのように思ってしまう。

呑んでるからテーマはとくに決めてないけれど、いつも考えている「書くこと」と「noteで書くこと」の話。

自分一人で書いてると、どんどん真剣になって、余裕がなくなって、袋王子じゃなくて袋小路に入って、出られなくなる。(こういう普段使わない単語を使うとうち間違えが発生するのだ)

正直言って、書かなくても生きられるんだと思う。生きられるけれど、じゃあこうやって、戻ってきてまた書いているのは、なぜかといえば、好きなんだろうなと思う。ここだったり、ここにいる人達だったり、この白いレイアウトだったり。

「深刻になるのと真剣にやることは違う」という言葉は、たまに頭に浮かぶ。真剣にやることと、深刻になることは違うのだ。子供の頃からすぐに深刻になるのは悪い癖だ。家族の中でも俺だけがよくすいこ、すみっこで泣いていた。家族全員が自己主張が激しくて、俺はなにも言えなくて、感情がたまったらただなく歯科って、、、いまいいところなのに、このグーグル変換は最近調子が悪い気がする。エイトックが好きだったから、また戻ろうかな。

感情がたまったら、泣くしかなかった。言葉にできずに。だからすらすらしゃべれる人はうらやましいし、そうなりたかったのだろう。話せないなら、じゃあ書き言葉ならうまくいくのか、ってそんなにうまくいかない。下書きの断片だけはたくさんある。

そういえば、noteはじめてすぐのころ、メモ帳に「熱に浮かされて書く時代も終わるだろう」って書いてて。3月頭にはじめて、3月終わりぐらいにはすでにそう達観してた。いつも終わりを考えるのは悪いクセだ。悪いかどうかはわからんけれども。なにか楽しいことがあっても、終わったあとのことを想像してしまう。たとえるなら、ディズニーランドに行った瞬間に、閉園後の電車のスケジュールを考える、みたいな。

いつか来る、終わりが寂しいのだ。時間は止まらないから、いつか終わりがあることが寂しい。だから先回りするのかもしれない。そういえば、幼稚園を卒園するときに、友達と離れ離れになるってわかって、泣いてたな。友達はみんな泣いてないのに、俺だけ泣いてて、なに泣いてるの?って親に聞かれて「さみしい」って言ってた。


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マリナさん、毎度のことですが、呑み書きの企画、ありがとう。今回は告知が遅かった気がして、いろいろあったから無いのかなーと思ってました。noteも変わっていくし、マリナさんも気がついたら西海岸にいるけれども、公正、公平な存在でいらっしゃることで、接着剤みたいな潤滑油みたいな感じで、みんなを結びつけていらっしゃると思います。ふと、マリナさんがいなかったら、ここはもう少し殺伐とした感じだったかもしれません。イメージとしては、フランス革命の旗を持っている女神みたいな感じでしょうか。あれ、あの絵って、フランス革命であってるのかな、まあ、そいういう革命の戦闘にいる女神。



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