愛と想いの熱量と食い物
舞城王太郎が根底にもっているのは死への恐怖で、それは死ぬのは痛いからイヤだとかそういうことではなくて、「死が最終的な終わりならこの世のすべては無価値じゃない?」という根源的な問いがもたらす恐怖だ。
デビュー作の『煙か土か食い物』だって、その文体や暴力やトリックに注目がいくけど、彼が書きたかったのは「死への恐怖」なのだ。中二の頃に遭遇した祖母のセリフがずっと頭にあって、大事に大事に誰にも見せないようにずっと隠してきたけど、それが大人になって最後の最後に外に出てきてしまう。泣きながら。「生きてるのなんて無駄や。無意味や」と。
それに対して女性が的確な回答で主人公を慰めてくれる。ずっと眠ることができなかった彼も、最後は赤ん坊のようにすやすやと眠ることができる。
恐怖に打ち勝つには他人の愛が必要なんだ、なんて書いてしまうと一般的過ぎて流れていってしまうけれど、2001年のデビュー作から17年後の作品『僕が乗るべき遠くの列車』でも同じテーマについて最初から最後までずっと主人公が悩んでいる。『煙~』よりも中心にあって、なんなら出だしからして死の話だ。
誰にも相談できなかった悩みを、中1の夏休みに同級生の女の子にはじめて語ることができる。そして救われる。彼を救ってくれるのはいつも異性の愛だ。そういう意味では舞城はいつも愛について語っている。救われて、そして今度は自分が世界を愛して救う番だと決意する。たぶんだけど、舞城がいまだに創作を続けている理由のひとつは、この救われたという思いに対する恩返しなのだろう。
ちなみに、といってこの流れに乗じて話すことではないのかもしれないけれど、私も三十歳ぐらいまでに死ぬと思っていた。十五歳のころから。たぶん長生きはしないし、人生は短いと思っていた。だから人と長期的な関係を結ぶつもりはなかったし、つまり付き合う人をころころと変えていた。仕事もころころと変えたし、貯金もなかった。
この世が無価値だと思ってしまえば、人はそのとおりに生きる。大事に生きない。自分だけで解決策を見つけるのは容易ではないから、他人が、他人の、言ってしまえば愛が、なにかを考えるきっかけになるのだ。
そういう意味では、死なずにこの歳まで生きてきたということは、この世界に対して何かしらの価値を感じているということになるのだろう。なにかのカタチで恩返しがしたいとは思っている。
エントロピーの理論じゃないけれど、ほおっておけば無になる。有にするには、自分の想いの熱量が必要なんだ。
ぜんぜん話が変わるんだけど、小野小町の作といわれてる下記の歌が好きなので最後に載せておきます。これは食い物のパターンやね。