「リビング・ウィル」



 白いウエディングドレスが真赤に染まっていくのがわかった。腕からあふれ流れだす血が、透明な繊維に吸い込まれていく。側にいた女の子が声をあげた。それは言葉にならない悲鳴だった。嗚咽しながら何度も何度も繰り返し叫んでいた。カオリは、床に座りこんだまま、動かなかった。彼女の長い黒髪が顔にかかり、その表情を隠していた。赤く染まった両手は、ひざの上にきちんと並んで置かれていた。薄暗く狭い通路の中で、淡いオレンジ色の照明だけが、彼女の姿を浮かび上がらせていた。

 僕はカオリの前に静かに座った。ドレスのやわらかな裾が僕のひざに微かに触れ、かさりと小さな音をたてる。彼女がゆっくりと顔を上げて僕を見た。でもそこに彼女はいなかった。ただぼんやりと僕ではなくて、僕の後ろにある何かを見つめていた。僕ではない何かを探し求めていた。そこにカオリはいなかった。

 それでも僕は彼女を両手で抱きしめていた。カオリの輪郭は怖いほど冷たくて、カオリの唇は硬く硬く閉じられたままで、何も発しようとはしなかった。誰かの叫び声がする。金属音が響く。誰かが螺旋階段を駆け上がってくる。あたたかい何かがぬるりと僕の輪郭に触れる。彼女の体液だった。彼女の体液が彼女の腕から流れ出し、僕の体をつたい、流れ、落ちていく。彼女の白い腕は何十にも引き裂かれ、脂肪の房が飛び出し、黒く変色して膨らんでいる。彼女の目には、痛みも、悲しみも、後悔も見えなかった。ただぼんやりと、目の前にある何かを、僕には見えない何かを見つづけていた。

(いつまでこんなことをつづければいいの?)

 小さくて弱々しくて、今にも消え入りそうな声だった。目には涙があふれていた。
 やがてそれは頬をつたい、静かに流れて落ちていった。


***


 パーティーは満月の夜にだけおこなわれていた。彼女は手作りのウエディングドレスで出席し、僕らは金髪と坊主で、黒のサングラスをかけて白衣で出席した。メン・イン・ホワイトだぜっとトモミは両手を高くかかげて笑う。彼女の友だちはピンク色のナースだった。(こんにちは)(はじめまして)僕らはすぐに友達になった。

 獣のぬいぐるみの男達がドビュッシーを演奏している。照明は蝋燭の光だけだった。ステージで男がスーツを脱いで全裸になって尿道に指を入れてくださいと一人で泣いている。友だちのナースが喜んでステージに上がった。そして人さし指を根元まで入れたり出したりを繰り返して(ぶよぶよしてて、ちくわみたいです)と司会のお姉さんに嬉しそうに答えていた。トモミはそれを聞いて手を叩いて笑った。お姉さんが何かを言ったがマイクが割れて聞き取れなかった。彼女が耳元で(かるあみるく)と言った。僕はそれを取りに行った。僕の前には先客が二人いて、一人が大声で怒鳴りながらグラスをカウンターの奥のビールサーバーにたたきつけていた。破片が僕の左手に当たったが血は出なかった。制服姿の女の子もステージに上がった。彼女も全裸になった。それからみんなでビデオみたいなことをやり始めた。段取りが悪くて行為と行為の繋ぎ目に気持ちの悪い間があった。女の子の肌は黄色くて、乾いていて、目の焦点が合っていなかった。洋服売り場のマネキンみたいね、とナースが言う。僕もうなずいた。隣では彼女がカルアミルクを飲み続けていた。グラスを両手で丁寧に持ち、目線は揺れる蝋燭の炎を見ていた。光がグラスにうつって乱反射し、ゆらいで、底に沈んでいた。僕はそれに少し見とれた。(ままごとみたい)彼女はつぶやいた。そしてソファーから体を離して、ウエディングドレスをひらひらさせて、螺旋階段をのぼっていった。


***


 黒いビニール製のソファーは冷たかった。クーラーのスイッチが入っていないせいか、肺の空気が重く、淀んでいる。額にもうっすらと汗が浮かんでいる。廊下の明りは小さな非常灯だけで、その先は真っ暗で、何も見えなかった。音もなかった。ただとても静かな空間に僕だけがいて、僕はぼんやりと一人で冷たいソファーに座っていた。壁に取り付けられた非常用の赤いランプだけが、不安定な光を放っていた。

 カチャッと、救急外来のドアが静かに開く。
 同じ歳ぐらいの若い看護婦さんが出てきて、その後ろに、彼女の姿が見えた。開けっ放しのドアの向こうから眩しい光があふれてきて、僕は一瞬だけ、目を閉じた。
「じゃあ、明日、っていうか今日の朝、午後でもいいから、もう一回来てね」
 看護婦さんは優しそうにそう言ったあと、小さな袋を彼女に手渡した。それはとても丁寧な動作だった。彼女はうつむいたまま(はい)とうなずき、両手を差し出してそれを受け取った。袋は音もなく、彼女の両手のなかに落ちた。

 何かの羽音が聞こえる。天井の隅に、大きな蛾の成虫が浮かんでいた。バタバタと低い音をたてて、前に進もうと羽を必死に動かしている。でも前方にあるのは硬いコンクリートの梁で、それ以上は進むことができずに、その場に留まっていた。
「じゃあね」と看護婦さんの声が廊下に響いた。そして診察室に戻っていき、静かにドアを閉めた。
 また、辺りは暗い夜の病院に戻った。蛾の低い音だけが、かすかに耳に残った。


 僕はソファーに座ったまま、彼女の顔を見て優しく微笑む。彼女は僕の方に歩いてきて、ちょっとだけ困った顔で、左腕を見せてくれた。包帯が何重にも巻かれていて、厚く膨らんでいた。でもそれ以上に、間近で見た彼女の姿に、僕は驚く。ドレスのスカートは血に染まっていて、お腹や肩にも赤いしぶきが点々と付いていて、指で血糊を拭いた跡がドレスの全体に幾筋ものびていて、今まさに人を殺しました、という感じだった。病院に来るまでずっと慌てていたから、傷のことしか見えていなかった。

「すごい姿だね」
 僕はそう言って、少しだけ笑った。彼女も僕につられたのか、少しだけ微笑んだ。
「ゆきおも、すごいよ。ついさっき人を殺しましたって感じ」

 彼女はまた小さく笑った。僕の白衣も真っ赤に染まっていた。彼女を抱きしめたときに付いたのだ。二人とも、真っ白に真っ赤だったから、おかしなくらいによく目立っていた。

「これじゃあ、乗車拒否されても仕方ないよね」
 タクシーの運転手さんの、慌てた姿を思い出して僕は笑った。笑いながら、彼女の手を握った。人の、生きている人の温かさがあった。僕は急に真剣な顔になって、彼女を見つめた。「死ななくて、本当に、よかった」と言葉がもれた。

 彼女はしばらく僕の顔をぼんやりと眺めながら、(そう?)といった表情で、「生理の血のほうが多いよ」と抑揚のない声で答えた。

 僕が彼女を手招きすると、彼女は首を横に振り、薬の入った袋だけを手渡した。そして、ちょっと体をひねったあと、バレリーナのように、ゆっくりとその場でまわりはじめた。 真赤なウエディングドレスの裾が気持ち良さそうに広がった。

 何回かまわった後、彼女は僕の方を向いて止まった。両手でドレスの裾をそっと持ち上げる。何かに満たされた、純粋にきれいな笑顔をしていた。

 ドアが開いて、お医者さんと何人かの看護婦さんが一緒に出てきた。救急外来の明かりが消える。廊下は暗闇に包まれた。(明日、ちゃんとまた来てね)お医者さんが僕らを見て微笑み、優しく言う。彼女は両手を前に添えて、丁寧におじぎを返した。看護婦さんの一人が僕に軽く会釈をした。僕はソファーに座ったまま、少し頭を下げた。

 彼らはそのまま廊下の向こうへ歩いていき、暗闇にまぎれて見えなくなった。しばらく響いていた靴の音も、いつのまにか聞こえなくなった。非常灯のぼんやりとした明かりの中で、彼女の影だけが揺れた。

「今のすごいきれいだった。もう一回、まわってみせて」

 静かな音で拍手をしながら、嬉しそうな表情でお願いした。でも彼女は、すっと隣に来て、ソファーに腰を下ろした。(もうおしまい)耳元でそうささやいて、僕の肩に頭をのせた。そして、目を閉じた。


***
***


 あの頃に撮っていた写真は一枚も残っていない。毎日見つづけることに耐えられなくなった誰かが、すべて焼いてしまったのだ。彼女と会わなくなってからも、彼は何度もその写真を見た。だから思い出せる彼女の笑顔は、もう写真の中の笑顔でしかない。永遠に変わらない、影のない、純粋な笑顔。

 感情のひとつひとつをたしかめて、大事にして、生きていけるはずがない。あるときは上手に見過ごす。あるときは他人といっしょになって笑ったり、怒ったり、愚痴をいったり、そうやって生きていく。それらは急にできたり、誰かに教わって学ぶことではない。日々ちょっとずつ、彼も気がつかないうちに、すべては変化し、最後にはもう同じものはどこにも存在しない。

 彼女の言葉、そのひとつひとつが彼をえぐる。耐えられないくらいの重さを残す。彼は耳を塞ぐ。彼女は目を閉じる。何日も沈黙がつづく。何日も。そして最後には、僕とカオリは別々に進んで見えなくなる。別々に歩いて、もう二度と交わらなくなる。


***
***


 ジョナサンからしばらく歩けばトモミの大学があった。行ってみる? と僕は彼女を誘った。彼女は何も答えなかった。店の外へ出ると、むっとする熱い空気が僕らを覆った。まだ辺りは真っ暗で、アブラゼミの鳴き声がかすかに聞こえてくる。遠くの木々で鳴いているらしかった。夜中の国道一号線を、僕と彼女は何も言わずに歩きつづけた。

 大学は小さな山の上にあった。南門の近くに破れたフェンスがあって、学生はよくそこから忍びこんでいた。背の高い僕がくぐれる大きさだったから、彼女はドレスの裾を引っ掛けることもなく、そっと抜けた。

 そのまま僕らは誰もいないメインストリートを歩きつづけた。昼間は学生がたくさん行き交う通りも、今は二人だけだった。月の光が赤いレンガの道を照らしていた。両側には木が幾重にも並び、深い森のようにずっと奥まで広がっている。ときおり視界が開けて、校舎が見え、その壁に僕らの靴音が静かに響く。

 通りの最後は野外音楽堂だった。ステージの前には噴水を備えた丸い池があったけれど、水は流れていなかった。池を取り囲むようにして、木のベンチがいくつも並んでいる。僕らはその一つに腰をおろした。ベンチの向こう側は木々が生い茂っていて、完全な闇だった。中央にあるステージの白い壁が、ぽつんと光っていた。暖かい風がかすかに抜ける。夜空には星が見えた。

「このまま、世界が終われば」彼女が静かに口をひらいた。「幸せになれるかもしれないね」

 僕は黙ったまま、水のない噴水を見ていた。心臓が速く鳴った。

「どんな状況でも精一杯生きなさいって、さっきお医者さんが言ってくれた。こんなにすごい状況でも? って言いかえすのは簡単だし、そんな下品なことは言いたくないから、言わなかった。だから、笑って、はいって答えた」

 僕は彼女を見た。彼女はただじっと前を見ている。表情は読みとれなかった。長い睫毛に月の光が反射していて、それがとても綺麗に色づいていた。

「きっと、本当は、みんなの命は等しくないし、死んだほうがいい人、死んだほうが幸せになれる人って、たくさん存在するんだって、みんな知ってて……、でも黙ってる」

 彼女の声は小さくて、でもひとつひとつの言葉はとてもはっきりとしていて、それらが僕の胸を刺した。僕は彼女から視線をそらす。森の向こう、さらに向こうの校舎を見た。校舎から漏れる蛍光灯の光が目にうつった。彼女がふいに僕を見た。表情はいつもの彼女だった。優しい笑顔で僕に聞いた。

「いつまで、こうやって、お茶を濁して、生きていかなきゃいけないのかな」

 深く青い夜の底で、月の光だけが彼女を照らしていて、そして彼女は優しく笑っていて、そういうすべてがとても綺麗で、僕は何も言えなかった。彼女はじっと僕を見ていた。とても透明な目だった。

 しばらくしてから、僕は静かに口をひらいた。「おれも、毎日、いろんなことがくだらないと思って、生きてたけど、でも、まだ上手くわからないけど、……毎日のささいな事が、楽しくなって、いろんな、人の営みの全てが、微笑ましくなって、愛していけるようになるんじゃないかな」

 彼女が少しだけ小さくうなずいた。「そう思えるまで」と彼女は僕を見て微笑みながら言った。「ずっと耐えなきゃいけないね」

「そうだね」と僕は彼女を見た。「そう思えるまで」僕も少しだけ微笑んだ。「いっしょにうまくお茶を濁せたらいいね」

「なにそれ」と彼女は笑った。僕もいっしょになって笑った。


***


 夜空を見上げると暗さが薄らいでいた。時計を見ると四時半だった。

「もうすぐ陽がのぼるね」僕はそう言いながら、あることを思い出し、嬉しくなった。「そうだ。すごいところに連れてってあげる」

「どこ?」彼女は不思議そうな顔で僕を見た。「横浜で、一番、高いところ」「どこ?」僕は森の向こうを指差して言った。「あの上」

 彼女は僕の指の先を、ゆっくりと目で追った。

 建築学部の校舎は二階の非常扉が壊れていて、そこから中に入ることができる。僕はそれをトモミから教わっていた。校舎に侵入し、エレベーターを使って十五階まで昇り、更に階段をつかって屋上に出る。屋上への扉も壊されていて、いつも開いていた。「海抜だったら、ランドマークタワーよりも、こっちの方が高い」トモミはそう言って笑っていた。目のまえに広がる横浜の景色を両手でつかみながら。

 窓から差し込む月の光が、廊下を白く照らしている。その中を二人で歩く。僕が先頭で、彼女は少しだけ僕の後ろで。物音一つしない、静かな廊下だった。突き当たりにあるエレベーターのボタンを押すと、機械音が激しく校舎中に響いた。信じられないくらいに大きな音で、かなり慌てたけれど、エレベーターはおかまいなしに二階に到着し、扉を開けた。中の光りが眩しかった。

 いいよって言うまで、前を見ちゃだめだよ?

 彼女はちょっとだけ困ったふうに笑って、下を向いた。僕が屋上の扉を開ける。目の前に、夜空が広がっている。東の空がほんの少しだけ青かったけれど、周囲はまだ暗かった。

 彼女の右手をそっと引っ張って、ゆっくりと屋上を歩いていく。彼女は下を向いたまま、ついてくる。景色がよく見える場所まで20mぐらい。そこまで、一歩一歩進んでいく。

 立ち止まって、彼女の側で、静かに言った。

「もう、いいよ」

 彼女がそっと顔を上げた。僕もいっしょに前を向いた。


***


 目の前にあるすべてから光りがあふれていた。高層ビルの赤いランプが、いくつも点滅している。一つだけ高いのはランドマークタワーだ。観覧車も小さく見える。海の向こう、強い光がカメラのフラッシュみたいに瞬いている。あれは、ベイブリッジ。高速道路を行き交う車。夜空には街を覆うようにして、海の向こうまでたくさんの星が輝いていた。目の前を遮るものなんて、何もなかった。

(ここが、横浜で、一番高いところ)僕は小声で言った。

(ランドマークタワーよりも?)と彼女は小さく言った。僕は(うん)とだけこたえた。彼女は両手いっぱいに広がる夜景を見つめたまま動かなかった。
 
「よくね、トモミとここに登った。飲んで、朝帰りのときとか。その頃は、トモミは大学の寮に住んでて、ここまですぐに来れたから。でね、歌とか歌ったの」
「どんな?」
「赤いーーースイィートピーイィーー」僕はものすごい大声で叫んだ。叫んでから、彼女に聞いた。「ちゃんと歌ってみていい?」 彼女は笑いながら、うなずいた。


 明けていく横浜の街に向かって大声で歌った。音程は思いっきりはずれていたけど、気にしなかった。二番の歌詞も分からなかったけれど、とにかく歌った。歌い終わると、彼女は笑いながら言った。「そんな低い声の聖子ちゃん、初めて聞いた」

「カオリもなんか歌って」「歌わない」「歌ってたじゃん」「あれは鼻歌」「歌ってよ」「歌わない」「じゃあ、おれが、じゃんけんで三回連続で勝ったら、歌って」「連続で? ……いいよ」「じゃんけん、メチャクチャ強いの、知らないでしょ?」「知らない」「じゃあ、いくよ、最初はグーね」「いいよ」「最初はグー、じゃんけんっ」そして僕はいきなり負けてしまって、また二人で笑った。

 笑いながら、僕が本当に悔しそうな顔をしていると、彼女は屋上の外へ向いた。白い朝靄につつまれ始めた街を見つめながら、ちょっとだけ息を吸った。そして、歌いはじめた。



 気がついたら僕は泣いていた。今まで誰かの歌を聴いて、泣いたことなんて一度もなかった。誰かの言葉を聴いて、泣いたことなんて一度もなかった。彼女はもしかしたら本当にいなくなるのかもしれない、と僕は思った。「お願いだから死なないで」そう言うのが精一杯だった。僕は腕を伸ばして彼女を抱いた。泣きながら。カオリは何も言わずにただじっと前を見ていた。




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