かわいいは偽り

「かわいい論」を読んだ。どうやら最近、(と言っても既に相当の時間は経ってしまってはいるが、)かわいいという言葉は世界的に使われていてcutismとかいう運動すら始まっていたらしい。この本の書き出しを読んで、私は世間一般の流行りというか美しいとされている物事に大きく後れを取ってしまっているのでは無いかと不安になった。これまで、可愛いという言葉に対して理解もせず、自分から発する事はおろか、他人の話す可愛いにも乗らずにやり過ごしてきた。女子と男子では、生涯わかり会えることのない概念であると一蹴し、硬派に生きていこうと思っていた。しかし、周りの気持ち悪いしょうもない奴らは次々と迎合し、そもそも私だけが間違っているのでは無いかと悲しくなっていた。決定的だったのは、学校で自分以外が女子のチームでグループワークをした時に、これまで停滞していた作業が、可愛さを相互に見出し合うことによって加速的に進み、私だけがおいてかれてしまった時だ。可愛さを根本的に理解出来ていないそれどころか嫌悪さえしていた私は、何か大きな間違えをしているのではないか?そう考え、「かわいい論」を読んだのであった。
 結論からいえば、私は特に何も変わらずこれからもかわいいを避けて行こうと思う。詳しくはこの本を読めばいいと思うが、かわいいが日本のものとして世界に広まっている理由をこの本の中では、海外でのかわいいに該当する言葉の意味には含まれていない要素を日本のかわいいは含んでいるからだという。それがどうやら、純粋さという観点らしい。正直本を読むまではちゃんと考えもしなかったんだが、かわいいとされている物は、基本的に弱さをかっこいいとされている物は強さが評価されているみたいなことを、自分は考えていた。実際はそんな事なく、日本におけるかわいいはむしろ、純粋であり自分が失ってしまったものに対して感じる可愛いという要素も含んでいるらしい。そういう意味では、かわいいも悪くないなと思った。しかし、それ以外のノイズが多すぎる。キモかわいいや、媚びていること、愛想など、結局外面に起因する物が多く、本質的な可愛さのような物が評価されるというよりもむしろ、これを可愛がれる私。というような観測者の評価を上げるファッションとしても使われているようにおもえてならない。結局のところ、エモいと同じように、思考停止をもたらすそれ以外の選択肢を狭める言葉だと感じてしまう。
 可愛いと比べて美しいという言葉は、反面常に本質へと抉るように存在していて、常にその先端は鋭く尖っている。良さが曖昧な可愛さよりも、鋭利な美しさにこそ追い求める価値があるように思える。そして、可愛いと美しいが同時に成立する領域にこそ、日本的な「純粋」ということになるのではないだろうか。
 正直自分はかわいい初学者であり、ずっと見当違いなことをいってるような気もする。いつか大嫌いな猫でも観察して、人間どもが可愛いと思っているそれの正体を見極めたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?