思い出語り
最初に死にたいと思ったのは小学五年生の頃だった。私はその頃いじめを受けていて、保健室と教室を行ったり来たりする生活を送っていた。そんな私を担任は快く思わなかったらしく、私は保健室に近づくことを禁じられた。
何処にも居場所がないのに、唯一の拠り所にしていた場所に近づくことを禁じられた私は、もう死ぬしかない、死にたいと思うに至った。それはとても自然なことで、もうそれ以外の選択肢はないのだと思い、私は手首にカッターをあて、そしてそれを引いた。
小学五年生の私はもちろんそれで死に至ることはなかった。しかしそれからというもの、私はリストカットに依存していったのだ。毎日のように自分の腕にカッターを押し当て、そして引く。その作業をすることで、自分が浄化されていくような、そんな気になった。
小学六年生になっても、中学生になってもその依存は収まらなかった。毎日死にたいと思いながら、毎日リストカットを続けていた。傷は必死に隠していた。誰かに見つかれば咎められるのを私は恐れていたのだ。
実際に、それを見つかった時私は咎められ、そして泣かれて、しばらくはリストカットをしなかった。それも一時のことだけだった。
中学三年生になった頃、私は初めて精神科にかかった。病名はなにも言われなかったが、薬が処方された。私はその薬を最初こそ真面目に飲んでいたが、いつしかその薬をため込むようになった。
そしてある日、私はその薬を一気に飲んだ。初めてのオーバードーズで私は、救急車で運ばれて胃洗浄をされた。死にたかったのだ。ただそれだけだ。しばらく休んだのち、すぐに病院から出た。
二度目のオーバードーズは学校でした。フラフラしている私を変に思った教師に見つかった。覚えているのは、泣きながら私にビンタをした英語の先生と、校長室でなんだかたくさんの先生が集まって話し合いをしている風景。
薬で朦朧としていた私は、あまり記憶に残っていない。
それからしばらく入院して、退院したのは本命の高校の受験日の二日前。滑り止めの高校の受験日の前日だった。受験はどちらも合格だった。
高校に入ってからも、死にたい願望は消えず、学校にもなじめず、私は高校を一年で退学した。
それからしばらくの期間は落ち着いていた。死にたいはいつの間にか息をひそめ、私は何とか生きることが出来た。それが出来なくなったのは、25歳になった頃だった。
友人だと思っていた男の子に無理やり犯されそうになった。私も、不用心だったと思う。友人だからと、独り暮らしの家にのこのこと遊びに行ったのだ。抵抗して、抵抗して、抵抗して、そうして私はなんとか犯されずに済んだ。
その時のことはあまり思い出したくない。だから、これくらいにしておこう。
そのあとくらいから、仕事のストレスも加わり、私は病んでいった。それからのこともあまり語りたくはない。思い出語りだというのに、思い出したくないという矛盾だ。
色々とあり、私は病んで、そして死にたかった。私はよく死にたくなる。なんとか生き延びるけれど、死にたくなる。それは良くないことだと分かっているけれど、自分の力ではどうにもできない。
今の私は、死にたいとは思っていない。
病んでいるけれど前向きだ。今のところは。
いつかはこの死にたいがどこかに消えてなくなるときがくるのだろうか。辛くても、生きる道を選ぶことが出来るのだろうか。私はちゃんと頑張れるだろうか。
そんなことを考えても仕方がない。私は生きるしかない。生きて、何かを見つけたい。
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