21年7月中旬に文系研究者として考えたこと/訳注と出典

知識の量が大事だ

個別具体的な事項を暗記せずともググればOK。出典探しも検索機能を使えば代用可。これは事実。デジタルのテキストで存在しない、字形が揺れる、誤入力があるなど、検索の不完全さを指摘する声もあり、それも事実でしょうが、時間と技術が解決しそう。
それでもなお、学問の優劣を決めるのは、知識の量だと思います。

知識を増やすためにする(増やすこと自体を目的とした)暗記に価値があり、有効活用できるのは子供時代だけ。
大人は、関心を持って調べ、論文や訳注にアウトプットすることで、おのずと脳内ネットワークというかたちで知識量が増えるし、そのように増やすべきものかと。
博識の先生=アウトプットが多い。これは複数の例から確実。

訳注作成と研究の業績

翻訳と訳注には、研究の基礎体力をつける、業績の土台を作るという機能があるみたいですが、「ためにする」翻訳と訳注では惜しい。
自分の翻訳を見て論文を練ったり、論文に必要な範囲を(同じ形式で)翻訳し訳注を付けるようになってて、ようやく「手段」としての翻訳や訳注になるのだなと。今ココ。

先生の先生の本を読む

先行研究を網羅的に整理せよとか、情報や史料は必ず遡って当たり直せとか、そんなのは2万回も聞いて分かっているつもりでしたが、先生の本を読んでもよく分からなかったことが、先生の先生の本を読んだら、サッと視界が開けた。←いまここ

研究報告の準備

つぎの木曜に研究報告。「はじめに」で、問題関心の所在、先行研究との関係性、なぜこの研究が必要なのか、あたりを書き終わったら急速に安心&弛緩。以降の本題は、情報量は多いですけど、だいたい頭にあります。言いたいことが先にあったから「はじめに」を書いたわけで、以降は単調な出力作業のみ。

論文の二節以降、「はじめに」より後ろは、いわゆる専門的で高度&袋小路に入りますですが、書くのはラク。史料の読みが正しいか、立論がロジカルか。これらは機械的に判定が可能なので、機械的に自己チェックして書くだけ。ダメならダメで未練の持ちようがない。やっぱり「はじめに」が一番むずい。

史料や先行研究を読んできて、「そうじゃないんだよな」「もっと言えることあるのでは?」という、もやもや的なものが先にあり。二節以降でそれを個別的に語るのは、ただの技術的な問題。悔しいのが、「はじめに」の伝え方をミスったせいで、自分的には大発見なのに、ほかの研究者に伝わらないこと。

商談や社内決裁では「内容よりも伝え方が9割」だと経験的に知っていて、馬鹿らしい思いをしてきました笑。
学術論文でも、日頃の勉強でカードは用意しているのに、並べ方ひとつで6割ぐらいは変わると思うんです。成否を握るのが「はじめに」。本文を書き終えた後に、書き直せという助言にも納得です。

訳注をつける・出典を探す

訳注って原理的に恣意的。訳者の裁量によるところが大きく、マニュアル化(言語化)が困難。いろいろな先生が、学生の作ってきた訳注に過不足を感じているようですが、何がダメなのか、うまく説明できないようです。仕方がないから、「慣れるより慣れろ」になる。
「慣れる」ためには、その先生が過去に出版してきた訳注を読み、傾向をつかむことは必須にせよ、もうちょい言語化したい。

学生は、圧倒的に経験値が足りない。その状態でつける訳注は、不足しがち。最初は、何が分からないか、何に説明が必要か分からない。漠然と漢字を眺め、先行する訳注の日本語をぼんやり読んでくるから、訳注を付ける必要性に気づけない。
だから大学院において、最初の指導は、「先生が削る判断をする。繁雑を厭わず多く付けろ」になる。なりがち。

いちどは先生に怒られ、「詳しく注を付けろ」と言われ、学生なりに取り組んでも、的はずれになる。すべての字を巨大な字典で引き、頁を全部コピーすればいいのか?いや、それでも「足りない」こともある。
先生が多く注を付けろと言ったのに、段落ごと、ごっそり「要らない」となるのも普通。これが会社なら「指示の出し方が悪い」となる場面。理不尽というか、パワハラじゃないのか??となる。
※学問の伝授にはパワー関係が不可欠なので難しいところでもある

訳注に求められるのは、「学界のコンセンサスなら、贅言は不要。コンセンサスを一歩でも踏み出すなら、根拠とともに説得的な文を簡潔に付す」こと。これが当該資料を、2021年時点で「よりよく読む」ための訳注。コンセンサスが分かってないと過不足の判定は無理。という大問題に直結。そらできんわ。

訳注で「出典」を示すのが超むずい。ぼくは独自に「親族関係」で捉えてる。言葉なことがらにおいて、明確な祖先(直系尊属)と見なすことができるなら、「出典」と認定。つまり、資料を書いた人が確実に念頭にあったと推定できるなら、それは出典。祖先にあたる記述(文脈や語彙)を抜きには理解できない場合、祖先と判定しやすい。※確定の証拠にはならない

成立時代が遅い(生まれが遅い)ものを「出典」と示すのはナンセンスだが、資料名をよく調べず、ただ文が共通しているからと、安易に出典ですと表記し、先生に怒られる例は意外と散見される。
類書(前近代中国の百科事典)、輯本、注や疏における引用により、孫引き、曾孫引きが起きて時系列が見えにくくなるので、各部分の成立年代は細心の注意を要す。

訳注の「出典」判定で悩ましいのが「兄弟」関係。共通の親(出典)を持ち、別々に作られた結果、顔がそっくり(表現が似通う)ことがある。成立年代が接近し、厳密に観察しても、どちらが兄か弟か分からない場合も多い。その場合は、「…に…とある」とお茶を濁すしかない。

訳注の「出典」で困るのが、漢代の劉氏(日本ならば中世の藤原氏、江戸時代の松平氏)みたいに、一族が大々的に繁栄している場合。たとえば『論語』に見える語が、ひろく流布し定着した結果、『論語』由来でなくて一般の語彙になることも。また世代を重ねて血が薄まり、片言隻句が誤用され、誤用が定着する場合もある。劉備さんみたいに。

共通する表現があっても、途中で枝分かれし上の世代に属する別の家(族父)か、姓が同じで世代も近かろう(族兄・族弟)ぐらいしか特定ができない。
文章表現は、故事や逸話、古の人物像と同じく、「一族を輩出する村やプール」から散発的に出てきたり、外から来て同族を主張して居座ったり。総合的に流れを見極めなければならない。知識を増やして、慣れるより慣れろとしか、言えなくなっちゃうのも、分かるんです。むずい。

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