「自分でやったほうが早い」が合理的な選択となる場合?

佐藤ひろおです。会社を休んで三国志の研究をしています。

ぼくは、歴史書の翻訳プロジェクトというのをやってます。専門家に依頼して、翻訳が完成したら、御礼をお支払するものです。クラファンでお金を募り(趣旨に賛同いただける不特定多数の方から出資をいただき)、それを原資に運営しています。
始めて2年弱です。やっていて思うんですけど、歴史書(古代中国)を翻訳するというのは、きわめて特殊なスキルです。職人技、つぶしの聞かない個別的な技能です。ですから、この技能の持ち主を探すのは大変です。ただでさえ技能の持ち主が少数であるうえに、今回のプロジェクトにご協力をいただくのは、もっと難しいです。円滑に進まない場合は、すべて私の不徳のいたすところなのですが、立候補をいただき、学歴・勤務先をお伺いした上で依頼したものの、品質があまりにひどく、私がほぼ全部を直したこともあります。ただし、その方も専門家を自任していらっしゃるので、すべての訂正箇所について、「万が一よろしければ…こういう可能性を考えて頂くことは…できませんでしょうか」という温度感になります。とても大変です。「自分でゼロからやったほうが10倍、速かった」と、長文にわたる指摘のメッセージを作っていて思いました。せまい世界なので、そのひとが1人で学び、1人で発信していることはありえず、学校の先輩・後輩、一緒に仕事をしているひと、などがひしめいています。もともとだれかに冷たく対処することはあってはならないのですが、それ以上に慎重に対処する必要があると思い、とても大変でした。
当人が自覚なく、他人の翻訳をぬすんでいることも多々ありました。同じ文を読んでいるのだから、翻訳の結果が同じになることはあります。正しく読み、最大公約数的な訳語を当てているならば、剽窃云々を論じるのはナンセンスです。しかし、誤読をしており、訳語に独特の言い回しを当てており、またその言い回しが日本語として不適切で、これらの誤読と特徴的な訳語が、先行する他人の翻訳と一致している場合、「大いに参考にした」のではないか(婉曲表現)、という見通しが立ちます。ただし、剽窃を証明することは困難です。たまたま同じ誤読をして、たまたま言葉の使い方が同じだったんだと言われたら、それはその通りです。裁判をする気はないのですが、どこかには先行する翻訳を作成なさった方もいらっしゃる上に、お支払する御礼の原資が皆さまからお預かりしたお金なので、余計に難しいです。

この反省を生かして、立候補をいただいたときは、(学歴・学位が私よりも全然上の方でも)、僭越ながら、1ページだけ翻訳をして頂いて、その上でお願いするか否かを決めるようになりました。
いまぼくは大学院に出ていますが、上記のトラブルが起きたときはまだ出席していなかったので、内部にもさまざまな方がいらっしゃることを、きちんと理解していなかったと思います。当事者の方にも、ご迷惑をかけました。私のすすめかたに問題があって、本当に申し訳なく思っています。

依頼を受けていただいたのに音信不通になる方も多いです。もともと社会的に孤立した(=換金性の低い)スキルであり、こればかりやっていても生活が立ち行かないので、退場・フェードアウトして当然、ぐらいの期待感です。所定の御礼をすぐにお支払いしていますし、文系学問で翻訳に報酬が発生することは稀少なので、御礼があることじたいが珍しがられました(それも社会一般として問題に感じますが)。値段(の低さ)が争点になったことはありませんが、「バイトをしたほうが数倍もうかる」のは事実なので、そのあたり、契約書なんて結んでおりませんし、フェードアウトをして頂いても、去る者は追わず、以上のことはできません。

現状、現実問題として、主催者である私が、いちばん多くの翻訳をしており、私が御礼を受け取っているというかたちです。主催者としてお預かりしたお金を、ぼくが私有財産とする、という意味です。銀行口座の上では数字は動きませんが、帳簿上では意味がぜんぜん違います。
そもそも会社では「自分でやったほうが早い」というのは、運営者や上司としては最低の選択です。より多くの社員がスキルアップする仕組みをつくる、作業内容を定義し、切り分け、再現性を高くする。速度をあげ、アウトプットの総量を増やす、のが正解とされます。異論ないです。
しかし、今回のような活動の場合、実質的に「自分でやったほうが早い」に陥っています。元来、できるひとが少ない、スキルアップするための教育体制や利益が(社会的に)設計されていない、職人技なので作業を切り分けることができない……などの要因のせいかも知れません。

翻訳する歴史書は、130巻から構成されているのですが、40巻分が終了しており(進捗は31%)、かつ29巻分を私自身が完成させてしまっています。万が一、残りを1人でやるとしても、「やってやれないことはない」規模感です。当初の想定とは、まったく違うのですが。
もともと、「うまく依頼できなかったら、主催者(ぼくが)が全部やる」という覚悟がありました。裏を返して、「1円も出資金が集まらなくても、ぼくがすべての報酬を負担する」と思ったから、始めたんです。大人にとって総額300万円は、許容できる規模の金額です。ただし、これは最悪の事態の想定にすぎず、実際にそうなるとは思っていません。
これだけは絶対に本当なのですが、「ぼくが歴史書を翻訳をするから、みんなぼくにお金を払ってください」というプロジェクトではありません。むしろ、そうならないようにするために、いろいろ考えた上で始めたことです。ぼくが翻訳したければ、(皆さんから見れば)ウェブ上で勝手にどうぞ、というのが落としどころです。これまでぼくは、このプロジェクトと無関係に、ウェブ上で翻訳を載せてきましたし、同様の活動をしていらっしゃる方は、何人かいらっしゃいます。
お金を集めた主催者、うまく依頼や成果物の回収ができない主催者として、皆さんとの約束を破らないために、ぼくが自分でも、だましだまし翻訳を進捗させている、というかたちです。

ビジネスならば、作業量の上限を区切ることなく、作業プロセスを無限に増幅させ、利益を最大化して、世界でシェア1位をめざす!!のが至上命題になります(たとえ小さな町工場でも同じです)。
しかし、今回の歴史書の場合は、上限が130巻と決まっているから、無限の反復性・再生産性にこだわる必要がないのです。むしろ、へんに体制を拡大して四苦八苦するよりも、ぼくが1巻でも翻訳をつくって公開したほうが、運営者としての責務を果たしているという見方すらできます。上に書いた、品質を満足しない翻訳を受け取ったとき、去年の正月休みは全部ふきとび、かつムダになりました。その間に、2~3巻分はできたはずです。

などなど。あえて読みにくく、つらつらと書いていますが、こんなことに悩みながら勉強以外のこともしています、という日記でございました。

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