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なぜ日本企業に「強み」があると思うのか/世代論の使い方

佐藤ひろおです。早稲田の大学院生(三国志の研究)と、週4勤務の正社員(メーカー系の経理職)を兼ねています。

本を読んでいます。消費税込みで1000円を下回る新書。日本経済や日本企業について振り返ってみたいとき、コンパクトでオススメです。
岩尾俊兵『日本企業はなぜ「強み」を捨てるのか』光文社新書

この本で言っているのは、
20世紀、日本企業は「強み」があった。しかし、社内の特殊なノウハウとして閉じ込めてしまったせいで、世界にアピールができなかった。むしろ日本企業の「強み」を学んだアメリカ企業が、それを使い回し拡大可能な一般的なノウハウに昇華させ、成功してきた。
現在の日本企業は、「自分たちに強みはない。アメリカはすごい」と自虐しながら、アメリカからノウハウの切れっ端を”逆輸入”する。ただし導入の仕方が生半可なので、本来の自分たちの「強み」すら捨てているよ。
という、日本企業に対する励ましの書です。

メッセージは全部書いてしまった(と思う)ので、その具体的な中身が知りたいひとは、上の本を読んで下さい、ということになります。

読み始めたとき、「昔はよかったな」という回顧の本か、加齢臭のするおじいさんのエッセイか、と思ったんですよ。論文を参照するから学術風味が付いているけど、偏屈なエッセイなんだなと。安い本とはいえ、ひどいハズレを引いてしまったな、と思った。
しかし、著者は1989年生まれでした。昭和末年、もしくは平成初年に生まれています。この本のおもしろさは「著者の若さ」が8割以上を占めます。慶応の准教授らしいので、この発言はめちゃくちゃ失礼なんですけど、もし同じ内容を70歳の人が書いていたら、駅のゴミ箱に投げていました。

本の内容から離れて、世代論の使い方について考えてみようと思います。

世代論の正しい使い方

ゼット世代がー、とか氷河期世代がー、とか世代論ってありますよね。おそらくマーケティング用語(だれに何を売りつけるか)が源流のはずですが、より広い範囲で、生きざまや価値観まで論じるときに使われます。

おもしろい話があって、近代初頭のヨーロッパで、「天動説は正しくない、地動説が正しい」と唱えられたとき、どのように学説の主流が置き換わっていったか。古い学説の持ち主を、新しい学説の持ち主が論破してまわり、降参させていった……のではない。公正妥当な学術的論争により、学説が切り替わったのではない。
古い学説の支持者が、高齢によって引退したから、主流が変わったそうです。学説・価値観が、不思議なほど突然変わる。内的・内発的な(学説の内容による)議論の形跡がないのに、いきなり切り替わることを、「パラダイム・シフト」といいます。※本来の用法はこっちだったはず

日本経済が「強み」を持つなんて、いまのアラフォーが着想することができただろうか。答えはNOだと思います。

いまは輸送業で「2024年問題」が騒がれていますが、
アラフォーが社会人として最初に直面したのは、「2007年問題」だったはずです。もう全員が忘れていると思いますけど、2007年、団塊の世代の先頭が定年退職となり、日本経済から団塊の世代のノウハウが失われるぞ、という危機の論調が煽られていました。

ちなみに「2025年問題」は団塊の世代が後期高齢者(75歳以上)になることによる社会保険料の高騰を指すようです。人数が多いと、ただ年齢を重ねるだけで「問題」になっちゃうので大変ですね。個々人には何も原因がないのに、「問題」を起こし続ける世代……大変そうです。

裏を返せば、2020年代前半のアラフォーが「新社会人」だったときは、団塊の世代から薫陶を受け(られ)たことを示しています。
2007年に、1947年(団塊の歳年長)が60歳を迎え始めたということは、裏を返せば(至極当然ですが)、ぼくらアラフォーが「年端も行かない小僧」だったとき、団塊の世代が手本だった。かれらと直接職場で話していた。※生き証人のような心持ちだ
団塊の世代が「最終面接」の取締役だった。役職定年をしていたとしても、「団塊の世代の後輩」が、団塊の世代の目が光っているもとで会社運営をしていた。社会人のスタート地点が、20世紀風味になります。

2007年問題は「再雇用」制度などの整備により、「2012年問題」に繰り越されました。団塊の世代が65歳になって、労働市場から完全に引退めされてしまうぞ、、という危機です。※問題を煽ってばかりいるな

そのあと、統計的な数値が示すようにいろいろな挫折を経験し、日本経済の見通しとともに自分の見通しも「下方修正につぐ下方修正」を繰り返していったのが、いまのアラフォーだと思います。
失われた○年=自分の社会人としての年数

かりに日本経済・日本企業を研究しようと思い、研究をせずとも論じようと思ったときに、アラフォーのなかから、日本企業の「強み」に着目してみよう、という視座・スタート地点が出てこないのではないか。昭和の働き方・価値観の「お祓い」「除霊」をするだけで、ほぼ力尽きてしまったのではないか。※個人の感想です

「平成生まれの研究者は、社会の厳しさ・日本のダメさ加減を分かっていない。生半可な本を書くんじゃない」
という腐ったオヤジの説教をしたいのではないです。
そうじゃなくて、
アラフォーは新社会人のときインストールされた価値観が陳腐化し、日本経済とともに低迷を味わってきた。コロナ禍で弾みをつけて昭和の空気を一掃することで、もう力を使い果たした。つぎに「換気の終わった部屋に新たに入ってきたひと」から、日本企業の「強み」を論じてみようという視点が出てきたことに、新鮮な驚きがあった。これが言いたい。

概してひとは、苦労や挫折感が閾値を超えると「もうその話はいいです」と感じ、避けるようになるだろう。
ぼくは、どのように働いたらがんばれるのか分からず、世捨て人になることに希望を見出しています。※個人による
狭い壁のなかでジタバタしてきて、「うまくいかないな」と思ったとき、その方面から撤退するのは、生き物として健全な選択だと思います。これはこれでいいのです。怨みはありません。

「FIRE」だって、「日本人アラフォーの会社労働からの逃走」が形を変えて、横文字のパッケージで登場したものだったと思います。
数百万円にせよ数千万円にせよ、投資のもとでがある人たちが、極端に無能ということはないだろう。でも、がんばる方向性、幸せになるがんばり方が分からないから、「もういいっす」となったように思います。

世代論は、マーケティングの道具というケチな使い方に留めては惜しい。世代間の対立に燃料を注ぐ(団塊の世代のせいで、現在の現役世代は社会保険料の負担が高すぎて生活が苦しい云々)のも、あまり生産的ではなくて。
なぜなら、生まれる年なんて自分で選べないのだから

生まれ年が違う。ただそれだけのことで、年長者がほぼ諦めていたようなことを信じられ、スルッと実現されていく可能性がある。というところに、希望があるような気がする。これが世代論の正しい用法ではないか。それが言いたかったのでした。

日本企業の悲観論、「あきらめ」にうんざりしているならば、読むと気分が変わるかも知れない本でした。
なぜ日本企業に「強み」があると思うのか。それは著者が生まれたのが少し遅いからだ。これがタイトルの答えです。

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