世界史を学ぶときの「固有名詞」の功罪

佐藤です。
歴史を記述するとき、「史料に語らせろ」という指導があります。書き手が、あれこれ説明や理屈を加えるのではなく、むかしから伝わっている記録を、テンポよく、長すぎず短すぎず、ポンポンと、日本庭園の飛び石のように並べておくだけで、あら不思議!過去のことを説明できてしまうではありませんか!

でも、一般的に、歴史の本で、史料の引用があると、それがたとえ現代語訳されていても、読み飛ばしちゃうんですよね。この史料を引用し、受けた上で、書き手は何を言うのかな、何を引き出そうとしているのかな、何を読み取れというのかな。それだけ拾えば、十分やろと。
学び始めのひとにとって、書き手の言い分さえ読めば、わりと十分です。史料を羅列したたまけだと、「だからなに?」となり、おしまいです。

「固有名詞に語らせろ」「史実に語らせろ」という流儀もあります。
個別のできごと、人名や地名を並べていくだけで、歴史の姿がおのずと浮かび上がってきただろう、と。
学校で習う世界史の授業は、わりとこんな感じで、何年に、どこのだれが、どこのだれと、どこで戦ってー、の連続になります。というか、それのみ。「で??」って、なります。語呂合わせを思いつくゲームに、昇華されます。

これも、ひとつ優れた記述態度、客観的であるともされ、悪くはない。また、効率よく情報を生徒にインストールできるという効果もあります。
しかし、この世界史の教科書が、どれだけの「世界史難民」を生んできたことか。難民は不幸だし、国家や体制を転覆させる勢力になることは、世界史の教科書をかくひとが、いちばん分かってるはずなのに、滑稽ですらあります。

「史料に語らせろ」「史実に語らせろ」「固有名詞、個別のできごとに語らせろ」
というのは、歴史を好き勝手に書いて、自説の道具のようにもてあそんでいるひとへの警告、揺り戻しとしてはアリなんですけど、最初からこれをされると、困ります。罪深いっす。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?