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キングダムがおもしろい理由/会社員がつまらない理由

佐藤ひろおです。早稲田の大学院生(三国志の研究)と、週4勤務の正社員(メーカー系の経理職)を兼ねています。

中国史のマンガ・映画で『キングダム』があります。日本人が書いていて、日本で映画化されています。中国史を題材にした作品なのに、中国ではあまり人気がありません(個人的な聞き取り調査)。
なぜか。
作者が日本人だ、映画が日本風だ、という作品の国柄もあるでしょうが、もっと根本的なところで、「昭和の古き良き日本のサラリーマンの理想の人生」を中国史に当てはめた作品だからでしょう。
たとえばハリウッド映画で、ニンジャ・サムライ・スシ・テンプラがアメコミの主人公として活躍したところで、それが日本でヒットするか。いいえ。アメリカ人によるアメリカ人(アメリカ市場)に向けた作品であって、たまたま題材が日本由来だったとしても、表面的な味付けに過ぎません。

中国史に題材を取ったように見える『キングダム』は、日本人の奥底に眠る昭和の物語です。高卒で大企業に入社した新人営業マンが、大きな商談をどんどん成約させて出世する話。
さまざまな上司のもとで鍛えられ、転勤と出張をくり返して(東西南北を転戦し)、成果を積み上げていく。配属先がつねに最前線なので、苦労は多いけれどリターンも大きい。
気合いと根性、少々の工夫。即席の仲間(配属先がたまたま同じだけの人たち)との団結と別れ。運命のような人事異動と、後腐れのなさ。引退し退職する上司・老将への(無責任なほど派手な)賛辞。

地縁によって選択の余地なく入社した企業(秦国)が、国際的に羽ばたく一流企業であったのは幸運だった。終身雇用でお仕えするに値する企業だった。ライバル企業を吸収合併し、加速度的に組織が拡大する直前に入社したのもラッキーだ。おのずと管理職のポストが増えるから、当人はエスカレーターに乗って出世できる。
バブル世代生まれの作者がちょうど同年代の会社員「島耕作」の出世物語を描いた『課長島耕作』と同じ構造です。24時間働いています。

当人に専門性・知識がなく、事前に上層部との人脈もないけれど、とにかく気合いと根性で乗り切っていく。ただし、社長と非公式なつながりがあり(共通の趣味があるようなイメージ)、周囲には内緒で社長とフランクに話すことができる。この点は『釣りバカ日誌』の世界ですね。

自分なりの(小さな)正義で吠え散らかし、上司たちを困らせる。絶対に筋を通そうとするのは、倍返し『半沢直樹』っぽくもある。権力や権威のあったひとをひれ伏させたり、失脚させるとスカッとする。

『キングダム』の主人公の名前は「李信」という。
叩き上げで出世し、取締役のイスが見えたところで大失態を冒して失脚するまでがセットだが(そこまで描かれないかも知れないし、もはや史実から分岐したかも知れない)、国運の上昇、組織の拡大に乗って、どんどん活躍の場を見つけ、かつ成功をくり返していくのは、ジャパニーズ・サラリーマン・ドリームです。

会社員がつまらない理由

『キングダム』は、紀元前240年ごろの戦場を描いています。いまから2250年ぐらい前ですけど、「戦車と飛行機がない」という点で、20世紀はじめごろまで、世界中で同じような戦争をしていました。
馬は早くて強いですけど、使いどころは限定され続けます。

戦車と飛行機がない戦争は、とくに「人の配置」がすべて。
どこを戦場に選ぶか。敵の居場所や移動先をどのように把握するか。どのように位置どり、どのように軍隊を配置するか。これで勝敗がほぼ決まるといってよい。人力(歩兵)による、移動と輸送が勝敗を決する。戦場のどこに移動を命じられ、どのような役割を与えられるかによって、兵士が発揮できるパフォーマンスはほぼ決まります。配属がすべてです。

マンガの花形「個の武」は添え物。平和なとき権力者の前で競技するとき(オリンピック的な祭典)や、市街地でのテロ活動(広場や宿屋で斬りかかる、演説や儀式・パレードで狙撃する)には使えるかも知れない。

『キングダム』の主人公は、つねに激戦地で手柄を立てていきますが、当たり前ですけど、すべての兵士が激戦地にいるわけじゃない。
ほとんどの兵士は「大したことをしていない」のではないか。
・情報収集できず、戦闘がない地域に移動
・上官の判断ミスで、戦闘がない地域に移動
・移動に失敗(道に迷う、遅延、補給切れ)
・オトリや牽制、万一の備えのために移動
これじゃあ『キングダム』のように活躍して、どんどん出世することはできないでしょう。

いざ戦場に立ち会ったとしても、補給係や事務係などの後方の仕事につけば戦わない。いざ武器を持っていても、
・陣地の両翼の端におり、戦わなかった
・大軍の中央部にいて、敵が来なかった
・軍鼓を鳴らし、声を揚げるだけの役割だ
・敵軍が思ったより少なかった
「配属ガチャ」「移動ガチャ」がすべてであり。兵士の目線から、「やりがい」「手応え」「意義」などを求めてはいけないんですね。

軍あるいは国としての全体最適のために、あえていくつかの部隊を捨てる(死地に追い込む)という判断すらある。戦闘がなく、獅子奮迅の活躍をするチャンスがないことを喜ぶべきなのではないか、という気がする。

国境付近に戦場に軍隊を展開しているのに、
・指揮官同士の不和で、軍隊が機能しない
・外交により折り合いがついて戦闘しない
・後方の宮廷闘争により、戦争が台無し
・軍の動員主体(国)が別部隊に滅ぼされてた
ということはよく起こる。むしろ、これらテクニックにより戦争を最小限にすることがよいと説いた思想家もおりました。ぼくの先生による訳が最近出ました。授業のなかで読み込み、ぼくも意見を言っていました。

激戦地をくぐり抜けて(敵兵を倒し)手柄を立てまくったところで、「登用制度」がないのが普通だ。すでに身分の格付けが終わっており、出世の余地がないのが当たり前だ。人類社会のスタンダードに近い。
程度問題だが、『キングダム』の世界は、21世紀の日本の大企業よりも流動性が高い(登用の可能性が開かれている)部分もある。

『キングダム』の主人公のように、どんどん手柄を上げて激戦地に連続して身を置き、国運に乗って、柔軟な登用制度のもとで出世していくのは、昭和のサラリーマン的で気持ちがいいのかも知れないが、
連載が長引くほどに息苦しくなる(とぼくは思う)し、『キングダム』の主人公だって晩年に失敗して、歴史から名前がほぼ消えるじゃん、という結末が見透かせてしまう。むしろ、非現実的だからこそ、マンガとして鑑賞する意味があるのではないか、という気分にすらなる。

配置・配属のガチャは、運命を賭けて意味を見出すには恐ろしくランダムで頼りがいがない。「つまらない」のが当たり前なんですね。置かれた状況(出世の余地)によって、配置・配属先の振る舞いを「最適化」するのも、悪くない生き方ではないか。※あえての分かりにくい書き方

どれだけの「不義理」を配分するか。会社員という役割への全力投球をいかに避けるか、というアイディアは昨日書きました。

『キングダム』の主人公と同じサクセス・ストーリーを求める必要はありませんが、自分の「おもしろさ」を求めるならば、別のことをしたらいいのでしょうね。配置された部隊の兵数もしくは組織の構成員、人員配置表の数を示す数字「1名」であることに喜びを見出せなくなっているならば、別の道を模索するのがよいのでしょう。

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