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会社員時代の口ぐせ「気が済んだ」/いくつもの「可能自己」

佐藤ひろおです。会社を休んで三国志の研究をしています。

会社員に勤しんでいるとき、ぼくのプライベートでの口癖があって、
「気が済んだ」でした。
自分がやりたかったかも知れない、自分がやったかも知れないことでも、誰かがやってしまえば、「気が済んだ」と言って、その欲望から目を背ける。べつに、そのひとは、ぼくの代理として、何かをしたわけじゃないです。ぼくが、勝手にそう思っているだけです。
※ バカじゃないので、本人には伝えません。ネットにも書きません。

気が済んだ「可能自己」の例

たとえば大学の同回生で、出世コースに乗っているひとがいる。
学歴は、自分と同等。これは、自分がやっていたかも知れない。いわば、「可能自己」。しかし、かれが存分にやっているから、気が済んだ。ぼくがやらなくても、よかろうと。

「可能自己」というのは、さっき、ぼくがでっちあげた造語です。可能世界、可能現実、っていう哲学のことばあります。それをもじったもの。

大学の同回生で、いつも一緒にいて、同じ授業ばかりを受け、よく分からない恋愛相談をしていた友達が、ストレートで進学し、大学に教員のポストを得たらしい。それもまた、気が済んだなと思いました。

「明日がある、明日があるさ…」じゃねーよ!と思いますけどね。

これは、相手を「うらやむ」場合だけじゃなくて、ネガティブなことにも当てはまります。そこが、ちょっと大事です。

ツイッターで知りあった、年齢・性別が同じ、神奈川県の友人。
切磋琢磨して一緒に勉強し、遠くからうちに泊まりに来たこともあった。友人を家に泊めるって、生涯で数例しかないから、かなり親しかったんでしょう。かれは、シロウトでありながら、学者の新刊などをブログで紹介し、学者たちからも名を知られていた。
が、無類の酒好きで、酒量がどんどん増え、ツイッターでの配信は、「これを飲んでます」ばかり。勉強をやめてしまった。かれを見て、思うわけです。気が済んだと。「可能自己」として、ぼくにも開けていた。が、かれがその道を占めたのだから、ぼくは別のところに行こうと。

ぼくの父親は、アル中(みたいなもの)なので、生活環境?の遺伝的に?ぼくも、アル中になるという道は、大きく開けています。仕事でストレスを受ける、毎日意識を失うまで酒を飲む、二日酔いをひきずって仕事に行く…というひとだったので。

……。

「気が済んだ」というのは、何もできない、何もなさない、弱虫の精神的勝利法に見えます。あんまり、カッコ良くないです。
親しいひとには話してましたが、ネットに書くのは初めてかも。

最初から、望みもしなかったルート(たとえば、ミュージシャンになるとか)は、「可能自己」に含まれていませんから、気が済んだ、という心のフィルターを通すまでもありません。
もしかしたら、やっていた/やりたかったかも知れない選択肢について、自分とスペックが近しい(と勝手に思っている)ひとたちの振る舞いをみて、済んだことにしてしまうという。

研究に専念するようになって、「気が済んだ」とは、あまり言わなくなったなと思います。
羨む相手を見たならば、どうやったら同レベルに並べるか、自分なりの仕方で乗り越えられるか、を考える。イヤだなと思う相手には、近づかない。さっさと遠ざかる。そっちのほうが、「キーガスンダー達観法」よりも、精神的には健全だと思います。よかったよかった。

好きでもない仕事のストレスと、その代価としてのわずかなお金に汲々とし、アルコールに頼って生きるというのは、自分とスペックの近き父親のケースで「気が済んだ」のかもです。心の暗黒面ですね。供養せねば!

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