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映画館という娯楽をおぼえた/まるで自然療法

佐藤ひろおです。会社を休んで早稲田の大学院生をしています。
三国志の研究を学んでいます。

会社を休職する以前、映画館で映画を見ることは、ほぼなかった。学生時代に出かける口実?として行くことはあり、それぞれの作品は面白かったが、1人でも来ようとは思えなかった。
休職した後に、映画館という娯楽を覚えた。

なにがよいか。
時間の使い方がゼイタクなんです。

映像作品を見る「だけのため」に、上映時間の少し前に、指定された場所に行かねばならない。端的にいって面倒くさい。適当な時間に行って、次回上映が2時間先なんてこともある。
ネットでチケットが買えるとはいえ、現地でスマホからコードの読み込ませが必要なので、端的にいって面倒くさい。
上映時間が始まっても、10分か15分ぐらい、当面は興味のない新作映画の宣伝を強制的に見せられる。端的にいって面倒くさい。宣伝が終わったころに入館すれば良かろうという説もあるが、宣伝が何分間あるか分からないし、遅れて入室するのは気まずいし慌ただしい。

ネット配信で動画を見れば、これらの手間と時間はゼロだ。合理的に考えたら、映画館なんか行く理由がない。
視聴体験についても、ネット配信は自由度が高い。任意で再生速度を変えられる。つまらなかったら、10秒飛ばしたり、中断するのも自由だ。それに、値段が安い。

「映画館は、大画面と大音量がよい」という声があるのは知ってる。コンテンツの消費体験の行為そのものに価値がある!という言い分だ。話題の最新作をいち早く見られる!という利点もある。自分が映画館を配給する側だったら、そこを推すだろうな……とは思う。
これらは「映画好き」の意見であって、ぼくには当てはまらない。数ヵ月遅れで、自宅の「そこそこ」の画面で、「そこそこ」の音量で見たところで、コンテンツの消費体験の満足度は、変わらないと思ってます。

じゃあ、なんでぼくは休職後、映画館に行くことを覚えたのか。
・数時間を拘束される
・ほかのこと(スマホいじりを含む)ができない
・強制的に、1.0倍速で見せられる

「被害者の会」が結成され、「解放運動」が決起しそうなほど、制限が多い状況に、ぎゃくに価値を感じます。
長時間ほかのことを封じられ、相対的に「ゆっくり」見せられる。画面が大きいから、映像の細部を見る。頭が空っぽになるので、細かい内容まで吟味するし、作品についてあれこれ考える余裕がある。

ぶち壊すことを言えば、映画がつまらなくても、別にいいんですよ。コンテンツの消費体験がメインではないので。
こういう「はぐらかし」って、マーケティングの常套句ですよね。

20世紀なら、社会からドロップアウトしたひとは、都会の喧噪を離れ、山小屋で小鳥のさえずりを聞いて自分を見つめ直した(知らんけど)。万事が加速した21世紀においては、映画館で数々のムダに身を置くことが、自然療法のような価値があると思います。映画の作り手は、「そんなつもりで映画を撮ってないよ」って怒ると思いますけどね。

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