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「機械翻訳の誤りに気づけるレベル」の語学力が役に立つ

佐藤ひろおです。会社を休んで早稲田の大学院生をしています。
三国志の研究を学んでいます。

イギリスからの留学生と関わりがありました。もう帰国してしまったのですが、へんなメール交換をしてます。
留学生は、日本語があまり得意ではない。ぼくは、英語がほとんどできない。そういうわけで、英語+日本語を並記したメールを送りあう。留学生は、自分で日本語を書いているか、あるいは英語を翻訳サイトに打ち込んで、日本語を出力させているのだろう。ぼくは、日本語を翻訳サイトに打ち込んで、英語を出力させる。

奇妙なことに、ネイティブが入力した自国語と、翻訳サイトが返した翻訳文との「あいだ」に、正しい理解がやどり、難しい会話でも成立する。

ぼくがメールを送るとき、まず、翻訳サービスが理解できるような日本語を書くことを心掛ける。翻訳サイトに書き上げた日本語を入力し、機械から返された英語を見ながら、「翻訳サイトが、ぼくの日本語を理解しているか」をチェック。返された英語を直接は修正せず(なぜならぼくは英語ができないから)、翻訳サイトが正しく意味を理解できる日本語になっているかを、英語のアウトプットを見ながら調節する。

留学生が送ってくる日本語は、かなり意味が通らない。日本語だけでは意味が分からないとき、原文の英語を見て理解する。英語だけでは理解できないとき、へんな日本語が参考になる。日本語を手掛かりとして、「英語の話者、および翻訳サイトが、英語と日本語の言い回しや構文の違いをどのように誤解して、このようなヘンな日本語を完成させたか」を脳内で再現する。すると、意味が分かる。

現代は、「そこそこの精度の翻訳ソフトがある」という、世界史上で最初の時代です。
種子島に鉄砲が伝来し、出島で交易していた時代、そして幕末は、まったく翻訳ソフトがなかった。語学は特殊技能だった。かたや遠くない未来、翻訳ソフトがパーフェクトになれば、外国語を学ぶ必要はない。いまはその中間にあって、翻訳ソフトがそこそこの精度。「翻訳ソフトが、正しく自分の話を理解してくれたか」を判定できるという中途半端なレベルの語学力が、実用性をもつ。未曾有で一過性の時代。

イティブ特有のニュアンスや使い分け、場面ごとの礼義のコードは分からなくても、「外国人の書いた文」という前提を共有した上なら、気軽に外国人と学術的な話でも情報交換ができるなんて、いい時代です。ぼくの外国語のスキルは、ちょうどよさそう。ラッキー。
ただし、話せないし聞き取れない。これを世間では、「語学が全然できないひと」と言うんだが、いいんです筆談でも。

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