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やりたいことで経済的に自立できる(ようになってきた)

佐藤ひろおです。早稲田の大学院生(三国志の研究)と、週4勤務の正社員(メーカー系の経理職)を兼ねています。

二十年来、不思議に思っていたことがありました。
日本語のインターネット圏には、「よくもまあ、これほどの時間と集中力、能力を注ぎ込んだもんだな」というサイトや作品があります。近年は新規参入は減りましたが、マニアックな調べ物をした考察サイト(ブログ)。商業作品よりもおもしろい動画や、センスのいい音楽など。

「才能の無駄づかい」と言われます。
はじめは褒め言葉だったかも知れませんが、「才能の無駄づかい」のコンテンツを見るたびに、ぼくは悲しい気持ちになっていました。

なにが悲しいか。

日本の国内総生産(GDP)は低迷しています。
Googleで「日本 GDP 成長率」と検索したら、下図が出ました。いわゆる失われた30年(もうすぐ「失われた40年」)は、ほぼゼロ成長。成長が一概に素晴らしいとは思わないが、みんなが(恐らく)ストレスフルに努力しているのに、ゼロ成長というのは残酷な話です。

ぼくの見立て(及び経験則)では、GDPにカウントされない時間と集中力、能力がインターネット上に投げ捨てられてきた。

人々の才能、時間と集中力を、日本経済がうまく吸い上げることができず、経済の外部で浪費(無駄づかい)されている。換金(マネタイズ)できたら偉い!すごい!!というつもりはありませんが、あまりにもバランスが悪いのではないか。

たとえば、苦悶の表情の奴隷(被使役者)が、美しい歌声を虚空に放ちながら、石臼をぐるぐる回しているような光景。GDPにカウントされるのは石臼を回し、すりつぶせた穀物の粉(の加工賃)だけ。歌声は虚空(インターネット空間)に捨てられて、ノーカウント。

もっと「仕事が楽しい」ならば、インターネット上(経済の外部)に、これほどの余力・余技の産物が溢れるとは思えないんですよね。

人々の才能を経済活動(GDPの集計対象)に組み込めなかった経営者が悪いのか。仕事を生活費を稼ぐ苦役だと割り切って、経済の現場から遁走した労働者が悪いのか。
「経営者」「労働者」とは、経済活動の性質の一側面を切り取っただけの分類なので、二項対立で捉える必要もないでしょう。サラリーマン社長、サラリーマン役員はいるし、労働者は(法的には)いつでも独立可能。

近年は一般ユーザーでも自分のコンテンツに広告を貼る(アフィリエイト、youtuberの収益化)など、細々と換金の仕組みが整ってきましたが、迂回して手数料等をマイナスされ、いかにも効率が悪い。
「中抜きするGAFAや広告代理店がけしからん!」と言いたいのではなく、一般的な個人には「熱効率」が悪い世の中でしたね、という慨嘆です。

「ブロガー」や「ユーチューバー」として成功するのは難しかった。それは、個々人に才能がないからではなく、迂回して中抜きされるお金が大きすぎて、採算ラインに乗せて黒字化するのが難しかった。損益分岐点が後方にありすぎたからだと思います。
万単位の人数に気に入ってもらえないと、まとまったお金が得られないなんてね。それなら会社で黙っているほうがマシだ、となる。合理的だ。

本を読んでます。村上臣『稼ぎ方2.0 「やりたいこと」×「経済的自立」が両立できる時代』は、前半のほとんどを費やし、現代の欧米では、個人がお客様(サービスを受けて報酬を払うひと)とよりダイレクトに繋がり、よりダイレクトにお金を授受できるようになってきた(中抜きを薄くして黒字化する手段が増えてきた)と紹介してました。
欧米の傾向は、十年ほど遅れて日本に入ってくるだろう期待!!
(十年では遅すぎるにせよ、そのタイムラグも縮むかもしれない)

ぼくの肌感覚では、日本人が個人が「やりたいこと」で「経済的自立」をすることができず、GDP外部で「才能の無駄づかい」をしてきた理由は、低コストで成果物とお金を交換するツールが乏しかったから。才能だけは「無駄」にあったんですよ二十年来。個人のための取引環境が整備されてきたという欧米の動向はとても嬉しい。

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