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「がんばってね」への異物感/やる/もうやってる

こんにちは。佐藤大朗(ひろお)です。会社を休んで、三国志の勉強をしています。
先週の日曜、そして昨日(金曜)に、友達と会いました。ひとりは、会社を休む前から、学問の繋がりがあったひと。もうひとりは、会社のなかの友人。会社員としての悩みをシェアしていました。

どちらも別れ際に、「じゃあ、がんばってね」って、言われたんです。おそらく大した意味がない、別れの挨拶だったんでしょう。でも、強烈な違和感というか、異物感があったんです。

がんばるというか…、放置しておいても、自然とやってしまうことを、「専業」として選びました。1日たりとも、漢文を読まないと、すごく気持ち悪いんですよ。だから、がんばってねという挨拶が、「馴染まない」というか、「懐かしい」というか。
※これを言った友人たちに文句を言いたいんじゃないです。

ところで、
ぼくは新卒1年目のとき、新規開拓の法人営業をしていたんです。仕事がすごくイヤだったんですよ。希死念慮するくらい。そのときの上司に、
「できるか、できないか」じゃなく、
「やるか、やらないか」だ。って言われたことがあります。
20代前半のぼくは、なるほどそうか、うまいこと言うな、厳しいこと言うな、でもなあ…って思ったんです。よっぽど、行動することが、イヤだったのでしょう。
※営業の部署は11ヵ月で挫折しました

今月読んだ、#ROLAND というホストが書いた、ありがたい本に、
「できるか、できないか」じゃなく、
「やるか、やらないか」でもなく、
「やるか、やるか」だ
、という明言のようなものがありました。
#俺か俺以外か #ローランドという生き方  

ローランドさんのメッセージは、
恐らく社会のそこかしこで…、残業中の会社のオフィスとか、自動販売機や喫煙室、しけた居酒屋の飲み会で、お説教の定型文として使われている、「やるか、やらないか」という、ダサい言い回しにNOを突きつけ、もう1段階、進めたアドバイスなんでしょう。

しかし、ぼくの実感では、もう1つ前に進んでいるんです。
「やる、ていうか、やってる」
やってますけど、それが何か?

「できるか、できないか」と、着手する前に足踏みをしているならば、ハッキリ言って適性がないから、辞めたほうがいいです。当人も不幸だし、仕事を任せる方(上司、さらにはお客様)も不幸ですよ。適性がないひとに期待するほど、残酷で無益なことはない。

「やるか、やらないか」と、迷うのも同様です。そういう「問い」が自分のなかに立ち上がっている時点で、やったらダメです。
組織に指示され、強要されているミッションだとは思いますが、どうせ失敗します。短期的には、組織内の目標を達成するかも知れませんが、長期的には不幸になります。

「やるか、やるか」は、ローランドさんが、世間一般のコトワザに引っ掛けて、言葉遊びをしたんだと思いますが、愚問です。本物の自問自答として、成り立ち得ないでしょう。

「気づいたらやってた。やって当然だし、やらないなら、どうなるか想像ができないし、っていうか、もうやってるし、今日もやったし、明日もやるし、それ以外に何かあるの?できないことや、やらないという選択肢は、考えたこともなかったけど

このように事後的に思えたとき、はじめて適性や才能のようなものの片鱗が窺われるわけです。成功するかどうかは分からないけど、成功しなくたって、いいじゃないか。いい意味で、どっちでもいいですよね(笑)

もはや、「がんばる」という言葉の意味すら分からなくなってる。
ぼくにとっての三国志の勉強は、そんな感じです。散歩日和ですねー。

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