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過半数の選挙人が得られなかった3回の大統領選挙

2020年、米国大統領選挙が揉めに揉めています。
11月3日に行われた米国市民による投票では、反虎んぷ候補者が過半数を獲得。しかし、不正選挙が行われたということで、虎ンプ陣営が法廷闘争を繰り広げいています。

最終的にどうなるかは、現時点では分かりませんが、ここでは簡単に米国大統領選挙の仕組みについて述べたいと思います。

まず、通常のケースでは、11月3日の米国市民による一般投票が行われた後、過半数の選挙人を獲得した候補者がいて、対立候補が敗北宣言をしたら、次期大統領が決まります。
ほとんどの場合、この時点で次期大統領が決まっていました。

この一般投票では、あらかじめ有権者登録を済ませた米国市民が、大統領・副大統領候補の名前が記されている選択肢にチェックを入れて投票します。

この票は、その大統領・副大統領候補への投票を誓約する、「選挙人候補団」への投票となるので、直接大統領へ投票をするわけではありません。

米国大統領選挙は、市民による直接選挙ではなく、「選挙人候補団」による間接選挙と言うことになります。

一般選挙により当選した選挙人団は、12月の半ばに、州ごとに選挙人集会を開いて大統領候補と副大統領候補への投票をそれぞれ行い、その投票結果を連邦議会に送付します。

翌年の1月6日(今回の場合)に連邦議会両院合同会議にて、選挙人団から送られた選挙人票を開票します。この時、選挙人団の過半数を獲得した人が大統領となります。

もし、過半数を獲得した候補者がいない場合、下院の連邦議員によって投票が行われます。この時は、下院議員がそれぞれ1票を投じるのではなく、各州で1票を投じることとなります。
すなわち、共和党議員が多い州では共和党に、民主党議員が多い州では民主党に、それぞれ1票を投票します。

2020年の場合、下院議員の議員数では過半数を持つ民主党ですが、州別に見ると50州のうち過半数の26州が共和党議員が多い州となりますので、共和党候補者が勝利する可能性が高いです。

過去の大統領選挙の歴史の中で、ここまでもつれたケースは、3回ありました。

では、その歴史を簡単に振り返って見ましょう。

1回目は、1801年の大統領選挙。

各州からの選挙人投票で、どの候補者も過半数に達しなかったため、合衆国憲法第12条に従い、下院の連邦議会において、大統領が選ばれることとなりました。

下院で行われた長い討議の後、1801年2月17日、下院で投票が行われて、ジェファーソンが大統領に選ばれることになりました。

当時は、憲法修正第12条が成立していなかったので、下院の選挙で大統領を決める制度に欠陥がありました。
修正12条では、次のように規定しています。
「大統領の選任に際して、各州の下院議員団は一票を有するものとし、投票は州を単位として行う。また選任のためには、全州の過半数が必要である。」

つまり、下院議員のそれぞれが1票を投じるのではなく、各州単位で1票を投じるということになります。
米国は50州ありますので、其の過半数である26票を獲得した候補者が、大統領となることができます。

しかし、当時は斯の規定が確立されていませんでしたので、南部の投票権のない奴隷達の奴隷人口の5分の3を、各州の一般人口に加算し、その総数で選挙人数が割り当てられました。
其の結果、トーマス・ジェファーソンに、一般の投票権のない奴隷たちの12票が加算されることとなり、対立候補に勝利して、大統領になることができました。

2度目は、1825年の大統領選挙。

各州からの選挙人の得票数の内訳は、アンドリュー・ジャクソンが99票、ジョン・クィンシー・アダムズが84票、ウィリアム・クロウフォードが41票、ヘンリー・クレイが37票。

どの候補者も過半数の選挙人の票を獲得できなかったので、下院の連邦議会の投票が行われました。

投票の内訳は、アダムズが13州、ジャクソンが7州、クロウフォードが3州という結果でした。
選挙人の得票数の上位3人までが、下院での決戦投票に進める、と憲法修正12条に決められているので、4位のヘンリー・クレイは失格。又、当時の米国は23州でした。

下院では、選挙人による得票数が2位であったジョン・クィンシー・アダムスが、1位であったアンドリュー・ジャクソンより多くの得票数を獲得。又、過半数の条件もクリアしたので、ジョン・クィンシー・アダムスが大統領に就任しました。

3回目は、1877年。

この時の大統領選挙は、共和党のラザフォード・ヘイズと、民主党のサミュエル・ティルデンの間で戦われました。

選挙後の最初の開票結果は、民主党のティルデンが184票、共和党のヘイズは165票。そして、未集計の票が20票。この未集計の選挙人の州の内訳は、サウスカロライナ州(7票)・フロリダ州(4票)・ルイジアナ州(8票)とオレゴン州(1票)。

なぜ、これらの州は決まらなかったかというと、民主党と共和党のそれぞれの党が、その候補者の勝利を報告したからです。

この20票の扱いについてどうするかが議論となり、連邦議会は、選挙委員会を作り、議論を重ねました。そして、選挙委員会は、なんと、この20票を全て、ヘイズに割りあてることとしたので、共和党のヘイズの合計得票数は185票となりました。

その結果、民主党のティルデンの184票に対して、わずか1票差で勝利し、ヘイズが大統領になることができました。

この時は、選挙人投票において、候補者の一人が過半数を獲得したことになるので、下院の連邦議会での投票は行われることはありませんでした。しかし、投票で決まったわけではなく、選挙委員会による話し合いにより決まった事例となります。

1877年、大統領となったラザフォード・ヘイズは、南北戦争以来、南部の州に駐留していた、連邦軍を、撤収しました。

なぜ、南部の州に連邦軍が駐留していたのでしょうか?

1861年、南部の11州が、アメリカ合衆国から独立して、アメリカ連合国を建国しました。
そして、この独立した南部の州に対して、合衆国に残った残りの23州との間で、戦争を繰り広げることとなりました。(南北戦争)

1865年にアメリカ連合国が降伏。

勝利した北軍は、南軍(連合国)の降伏後も南部の州に駐留を続けました。

一旦独立したアメリカ連合国は、敗戦により再びアメリカ合衆国に併合されることとなり、南部の黒人奴隷たちに投票権が与えられる一方、元連合国の高級役人達の多くが公職追放させられて、投票権も剥奪されました。

そもそも、奴隷解放を大義名分にして戦った北軍(連邦軍)でしたので、奴隷制度廃止に向けて次々と、政策を進めていきました。(この時期を、リコンストラクション(再建)と言います)

其のような過渡期の時代に、大統領選挙に勝利したヘイズは、南部の州の駐留軍を引き揚げてしまいました。

これにより、再び、南部に住む多くの黒人たちは、投票権も剥奪され、人間として扱われることのない、白人の農場主による奴隷生活に、戻ってしまうこととなりました。

又、この頃から人種隔離政策(ジム・クロウ法)も行われました。
(ジム・クロウ法が廃止されるのは、約90年後の1964年。)

なぜ、ラザフォード・ヘイズは、このような決断をしたのでしょうか?

大統領選挙における20票の取扱で、民主党側から、「北軍の引き揚げをするならば、共和党のヘイズに20票を全て与える」、という裏取引があったのではないかと言われています。

当時の民主党は、南部の州の白人農場主の多くを支持基盤としていたので、其の白人農場主からの圧力により、奴隷制度を復活したかったのです。

この大統領選挙を巡る20票の取扱により、リンカーン大統領が押し進めた、「奴隷解放」運動も、水の泡となってしまいました。

(画像:ラザフォード・ヘイズ)

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