時間か、お金かという命題
世の中では「時間かお金か、どちらが大切か」と言った話が良く言われる。
賢者は時間の方が大切だと言うが、普通に生きていると遭遇するのは大抵お金の心配だ。「老後は大丈夫か」「今の仕事クビになったらどうしよう」などなど。
お金の心配など無いと言う人は、安定した不労所得を得るのに成功した人か、もしくは河川敷で平日の昼間から日向ぼっこしているホームレスくらいだ。
人類は、今から一万二千年前に始まった農業革命により、未来への貯えのためせっせと働くこととなった。それ以前の狩猟時代では、食料の貯蔵が効かなかったため、人々は必要な分だけ働き、後は何もせず過ごしたのだ。
つまり人類は農業革命により「未来とについて考える」という行為も併せて獲得したのだ。残念ながら、どの時代にも支配者階級が生まれたため、その貯えはほとんど吸い上げられ、手元には残らなかったのだが・・・
狩猟石器時代では、そもそもどうにもならないので、未来について考えるということはしなかった。
その後、貨幣の発明により、ほぼ無期限の貯蔵が可能となった。その結果、人類はもっと先の、死ぬまでの期間についてあれこれと考えるようになったのだ。
そもそも、1800年~1900年の世界の平均寿命は、30歳前後だったのである。近代の医療進歩により、「老後」というあらたな概念が生まれたのだ。
貨幣の登場により、あらゆるものが交換可能となった。性や臓器や、あるいは人身売買までも・・
ただしその貨幣を持ってしても交換出来ないものがある。それが、「時間」である。どれだけの大金を積んでも、失った時間だけは取り返せないのである。
こう書くと、「時間>お金」と結論着いてしまいそうだが、実際そうシンプルでもないのも事実だ。
お金が無いと、食べ物や、病気やケガした時の医療はどうしよう・・という不安に常に脳のリソースを費やしてしまうからである。
これに対する解決方法は・・「極限まで消費を減らし、自由な時間を得る」という結論に達するであろう。
持ち家や車など高価な消費を抑え、運動
や読書など、お金がほとんど掛からないが、価値のあるものに時間を費やす、ということである。豪華ではないが栄養のバランスの取れたものを食べ、早寝早起きをし、適度に運動する。つまり、古代人の生活なのである。
貨幣が最初に作られたのは、紀元前3000年頃、大麦を使ったのが発見されている。
それより遥か昔、今から約250万年、貨幣を持ってなかった狩猟時代の人々は、どのように過ごしていたのだろう。
空を見上げ、「天気も良いし、今日もやるか」と言って仲間達と狩りに出掛け、余った獲物は仲間内で分け合い、夜は焚き火を眺めながらボーッと過ごす。
余計な情報が無いから、あれこれと考える事もなく、そのうちウトウトと眠りにつき、また日の出とともに目覚める。雨が降ったら狩りには行けないから、やはり日がなのんびりと過ごす。
もちろん飢えや病気も現代より沢山あっただろうが、それは生物としての宿命でもある。それらはどうしようもなかったから、あれとれと考えなかったのである。
では、「古代人になったつもりで現代に生きよう」というのはどうだろうか。
現代では情報が発達しすぎて、常にSNSで他人と自分を比較してしまう。発達した資本主義社会では、どうしても働いて金を稼ぐことに価値の比重を重く置きがちなのだ。
表題に戻るが、時間とお金のどちらが大切なのだろうか。
事業が倒産寸前の経営者は喉から手が出るほどお金が欲しいだろうし、死の床に伏している老人は、お金なんぞいらないから、健康と時間をくれと言うだろう。状況や立場によって、その答えは変わってくるのだ。
私は、やはり・・・「時間」と答えるだろう。例えお金に困ったとしても、この国には、自己破産や生活保護と言った、セーフティネットもあるのだ。お金が無くなっても、生きていけるのだ。ちっぽけな見栄と世間体さえ捨てられれば。
時間が無くなったら、生きていけるだろうか。24時間を会社に奪われたら、例えどんなにお金があっても、死を選ぶかも死なれない。電通の高橋まつりさんのように。
資本主義社会におけるお金の価値は強烈だから、これに抗うのは容易ではない。社会はひたすらに働いて金を稼ぐことを要求してくるのだ。
冷静になって、常識を疑ってみよう。時間を使って沢山の本を読み、様々な見地に立とう。自分は本当は何をしたいのか、そもそも、どうありたいのか。答えは一つではないかもしれないし、年とともに移ろいゆくかも知れない。
やはり時間は大切なのである。