“大東亜戦争”という呼び名をあえて用いる陸上自衛隊のメンタリティ

先日、旧ツィッターにおいて物議を醸して話題になっていたこと。それは、陸上自衛隊東部方面隊第1師団隷下の第32普通科連隊(大宮)が、第二次大戦の激戦地である硫黄島での日米合同の慰霊式に出席した際に、公式ページにおいて“大東亜戦争”という呼称を用いたことで、各方面から反発を受けたようである。

日本政府は公式文書にこの呼び名を用いておらず、自衛隊の部隊がかってにこの呼び名を用いたことは問題だろう。しかも、大東亜戦争といってもどこで行われた戦争なのか、さっぱり分かりにくいことも問題である。戦闘が行われた地理的な範囲をふまえれば、「アジア・太平洋戦争」と呼称するのが適当だったのではないか。
 この件に関して、政府としては部隊長である連隊長を厳重注意すべきでしょう。

ちなみに、自衛隊独自の用語について、認識の統一を図っておきたい。ここでいう「普通科」というのは、自衛隊では歩兵戦闘職種のことをさしてそう呼ぶのである。「連隊」というのは、中隊(100名前後の部隊)が複数個集まって構成される部隊のことである。
 そういえば、作家の浅田次郎が若い頃に所属していた陸上自衛隊の部隊が、今回問題になった第32普通科連隊だった。小説「歩兵の本領」を読んだことがある方ならわかるだろう。もっとも当時は大宮駐屯地ではなく、市ヶ谷駐屯地に所在していたようである。また、わたしが新隊員前期教育のときに、区隊付をされていた2曹の方も、たしか32普連の出身だった。その人柄から、荒っぽい部隊の出身なのだろうなとは思っていた。

ここで問題として提起したいのは、たんに呼び方の問題ではなく、そうした用語をあえて用いる自衛隊のメンタリティの方である
 
つまり、そうしたことばを用いることによって、前の大戦では「日本は自存自衛のための戦争を行った、日本は悪くないんだ」「日本は欧米の植民地主義に抗して、アジア開放のため大東亜共栄を夢見て戦ったのだ」という認識を持っていることが、透けて見える気がするのである。こちらのほうが重大なことだと思うのである。
 いうまでもなく、日本は海外に進出して侵略行為をはたらき、現地で民間人の殺戮や捕虜の虐待にも手を染めているわけで、そんな綺麗事で済むようなはなしではない。

陸上自衛隊という組織は古めかしいところがあって、たとえば、幹部候補生学校では軍歌をやたら歌わされたのを憶えている。たとえば、歩兵の本領、同期の桜、抜刀隊(陸軍分列行進曲)、空の神兵…等々である。
 個人的にはきらいではなかったものの、「これから死地に赴く男たちの悲壮感や悲哀」をひしひしと感じさせるものばかりで、歌っていると胸を締め付けられるような思いさえしたものだった。
 組織としては、そうした曲目を歌うことで、旧日本軍の伝統と歴史を引き継ぎ、また愛国心を涵養しようと考えていたのではないか。はやい話が、「国のために一身を犠牲にする人材」に育て上げようとしていたのだと思う。 
 幹部候補生教育がそんな具合だから、自衛隊の幹部たちはそういうメンタリティに必然的になびいていくことになるだろう。そもそも、いまの自衛隊の初期の頃の幹部には、旧日本軍の関係者が多くいたことは知られている。たとえば、保坂正康「昭和陸軍の研究 上下」(朝日文庫)を読むと、陸上自衛隊の前身である警察予備隊をつくるときに、当時の首相の吉田茂は、帝国陸軍の作戦・情報部門の出身者を極力排除して、教育や兵站の出身者を引き入れるようにした、という記述があった。
 このように、現在の陸上自衛隊は、創設時から米軍の影響を受けながらも、同時に旧軍色を色濃く持っている組織であるともいえる。

近年、陸上自衛隊ではさまざまな改革や改編を行っていることはニュースをみて知っている。たとえば、水陸機動団や陸上総隊といった新設部隊をつくったり、在日米軍との統合運用を強化したり、サイバー戦への対処を充実させようとしている。また、最近問題になっているセクハラやパワハラもなくそうと努力はしているように見える。
 その一方で、その組織の根本的な部分ところでは、古めかしい、時代錯誤なメンタリティや価値観を引きずっているようで、それが気がかりだと思っています。いまの、そしてこれからの時代の戦争環境に、そうした古い考え方ではたして時代に適合できるのか、国民の生命と財産を守っていけるのかと疑問に感じます。



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