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自衛隊、徒歩行軍の思い出

いまでも定期的に山(高尾山クラス)を登ることがあるけど、ふと思い出すのが、自衛隊時代に経験した行軍である。
 正確には徒歩行進訓練とよばれる。ここでは、陸上自衛隊の幹部候補生のときに経験した徒歩行進訓練を振り返ってみたいと思う。

野外訓練などで、ある地点からべつの地点へ徒歩で移動するというだけなのに、これがけっこうな苦行なのである。
 陸上自衛官が携行する装備の数々は種類も多く、重さもずっしりとくるものばかりなのだ。基本的な装備として、鉄帽、弾帯にサスペンダー、弾のう、救急品袋、水筒や円ぴ、半長靴等。武器として、小銃、銃剣、防護マスク、弾倉✖数個が、最低限の装備である。
 これに、背嚢とよばれるバックパックにいろいろな必要品を詰めてそれを背負って歩くことになる。さらに、MINIMI(機関銃)やLAM(携行対戦車弾)などの火器もあって、それらを交代で持ち回って歩くし、小隊長や班長など役職につくとバカ重い通信機材を背負って歩く羽目になる。
 このため、総重量はゆうに30キロを超えることになる。それだけの装備を担いで、日に25〜60キロくらいの距離を、隊列を組んでえんえんと歩くのだ。だいたい、50分あるいたら10分の小休止があり、ペース的には大したスピードではない。

また、たいてい陸上自衛隊では、夕方日が沈む頃に歩き始めて、翌朝まで夜通しで歩き続ける。これは、敵にこちらの行動を秘匿するために、夜闇に紛れるためにそうするのだろう。
 そのため、真っ暗な漆黒の闇のなかを、周囲はなにも見えないしわからない、唯一前を歩くやつの背嚢に取り付けられた蛍光テープの反射だけを頼りに歩き続ける、なんてことが実際にあった。

歩きはじめて最初の頃は、「大したことはない、ただのハイキングだろ」くらいの気持ち余裕がある。これが、歩き続けるにつれて、そんな気楽な気分はどこかに吹っ飛んでしまう
 まず、背中や肩が悲鳴を上げるようになる。背負っている背嚢や、小銃や防護マスクのストラップがぐいぐいと肩に食い込んでくる。それから、足にマメや靴ずれができて、痛くてかなわず、文字通り足を引きずるようにして前に進む、という感じになっていく。
 経験的に学んだのは、靴下を二重にはくとマメや靴ずれができにくい、ということだ。たとえば、5本指ソックスをはいて、その上から薄手の靴下を履くのである。そうはいっても、35キロ以上の距離を歩くと、どのみち足にトラブルを抱えるようになった。

「もうこれ以上、耐えられない」と思うことは何度もあった。そんなときは、とりあえずあのあたりの雑木林まで歩こう、あそこらへんまで頑張ろう、というふうに短い目標をこまめに設定して、それをひたすらクリアし、なんとか最後まで体力と気力を持たせるにした
 歩いていて、急にお腹が痛くなってトイレに行きたくなったこともある。しかし、かってに隊列を離れるわけにはいかない。また近くに公衆トイレがあるわけもない。そんなとき、小休止まではなんとか頑張って、小休止になったらそばにある雑木林に急いで駆け込んで、円ぴ(携行スコップ)で穴を掘り、そこで用を足した、ということがあった。

陸上自衛隊の幹部候補生学校で特徴的だっのは、「剛健休憩」とかいうものである。これは、行進訓練中、休憩中であろうと一度も荷物を下ろさず、地面に座ることもせず、立ったままでいることを剛健休憩とよんでいて、それを候補生たちに奨励していたのである。
 わたしは、休止中はしっかり休憩したほうがいいと思うし、こんなことはアホらしいと思うのだが、驚いたことにこれをじっさいにやる幹部候補生が少数ではあるもののいたのである。体力気力ともに屈強なこの種の隊員たちは、陸上自衛隊の幹部自衛官のなかでも中核を担っていくのでしょう。
 このように、「剛健であれ」「精強であれ」という教えが、陸上自衛隊のメンタリティの基本的な価値観として根底にはあった。