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記憶の箱=思い出の束の置き場所

2月15日、東北大学で開催された宮城県美術館の在り方を考えるシンポジウムに関する記事を読んだ。「美術館は記憶の箱」という見出しが印象的で、考えさせられた。

 美術館は貴重な絵画などの美術品が厳重に保管されている場所というイメージしかなかった。しかし「記憶の箱」と説明されると、感慨深い。絵画に込められた画家の記憶、それを鑑賞した人々の記憶、ひとりの記憶だけではなく、多くの人々の記憶が混在し、それが思い出の束となって蓄積されていく。美術館は単に美術品を所蔵するだけの場所ではなかった。美しい思い出を残せる場所だと気付いた。

 中学生の頃、美術部に所属しており、3年生の頃、顧問の先生が県美術館に連れて行ってくれた。静かで落ち着く環境の元、画家たちの記憶が深く刻まれた作品を鑑賞した。それが思い出として色褪せることなく、私の記憶に今も残っている。それは美術館そのものから醸し出される佇まいも含めての思い出だ。もしも美術館が賑やかな場所に移転してしまったら、そのような記憶は残らないだろう。美術品そのものには感動できるかもしれないが、やはり芸術というものは「箱=置き場所」も含めて芸術作品であると思うから、「県美術館は(設計した)前川建築の到達点だ」と称賛されるように、環境、建物、すべてを含めて慎重に検討すべきであると考える。

 つい先日、家族が描いた絵画をコンクールに出展するために梱包する作業を引き受けた。絵を傷つけないように、紙や梱包資材を大量に使って、厳重に梱包した。サイズが大きいものだったため、二人がかりで6時間ほどの時間を要した。まさかそんなに時間がかかるとは思ってもいなかったのだが、その経験を踏まえて、ますます美術館の在り方について考えざるを得なかった。たかが素人が描いた作品でさえ、丁重に扱うものであり、まして美術館に所蔵されるプロの作品となると、さらに慎重に扱われることになる。そんな描き手が魂を込めて、作り上げた芸術作品を少しでも良い環境、作品が馴染む環境で保管したいと思うのは当然のことではないか。

 現在の県美術館の環境は申し分ないし、気軽に美術に親しめる構造の建物になっている。39年分の美術館を訪れた人々の記憶も宿る場所になっている。形のある美術品だけでなく、記憶という目には見えないけれど、でも生きていくうえで糧となる美術品に劣らない美しい思い出で溢れている。箱という表現を拡大解釈するなら、宮城県美術館は「県の宝箱」と言っても過言ではないと思う。多くの宝石がむき出しの状態ではなく、美しい小箱で保管されるように、これまで40年近くの間、積み重ねてきた県美術館に所蔵されている美術品の数々の記憶と、訪れた人々の思い出の両方を欠くことなく、そしてこれからもそれらの記憶を重ねていくにふさわしい場所を慎重に検討するべきであると考える。どんなに優れた宝物でも、保管場所を間違えてしまったら、きっと劣化は避けられない。県民が納得しないまま、移転を決断してしまうのは取り返しのつかない損失につながるだろう。

 美術作品は作者の手から離れた後も、きっと生きていて、鑑賞する人々の思いを吸収している。生きている宝物の置き場所は現在の場所が適していると私は思う。

※同じテーマで2度投稿し、上記も掲載に値すると言われましたが、最終的に掲載された原稿はこちらです。

https://www.kahoku.co.jp/museum/column.html

※画像は美術館ではありません。個人的に好きな建物です。

  #宮城県美術館      #移転問題      #河北新報

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