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映画おくりびと 劇評

少し前の映画だが
再度、見直して気がついた事をいくつか書き出す。

納棺師(あえて納棺夫でなくこちらを使います)の主人公は
火夫(火葬場職員)の男性と銭湯で何度も出会います。

この出会いが実は重要で、見逃している方が多いと思いますが、彼が銭湯に来て主人公と出くわすのは偶然でもなければ、知人の女性がたまたま同じだったから・・・という事でもありません。
職業柄、銭湯に来てしまうのだと思います。

納棺師、火夫ともにご遺体を扱います。
これは共に「人の遺体の臭いが全身にまとわり付く」という事です。
直接、触れるほど近づかねば気が付かない程度の、人の腐敗ガスの臭い。
そして火葬場独特の、人の脂の焼けた臭い。
これがお二人は気になって仕方がないのでしょう。

もちろん自宅のお風呂で対応できる臭いです。
しかし、人間は一度気になると仕方がない。
だから2人とも銭湯通いをするんです。
2人は仮に銭湯のおばちゃんがいなくても、必ず出会ったでしょう。

ラストで父親と出会う場面でも誤解されてる方が多かったので説明します。
主人公は父親とのわだかまりが解けたとか、許したとか、そういう事ではありません。
そんな描写はどこにもありません。
それはきっと「今から少しずつ彼が解決していく事」でしょう。
主人公は、そもそも物心も曖昧な頃に父親と別れており、父の顔が分かりません。
それは遺体になった父を見ても、そうだったのでしょう。
だから「覚えてないんだ」と呟いたんだと思います。

しかし彼は、覚えていない父をあえて自身で「納棺の儀」を行い、自ら死化粧を施します。
その時、初めて現在の父の顔を見て、過去の父の顔を思い出したわけです。
もし、先に動き出していた葬儀社の面々に任せていたならば
きっと彼は父親を認識できないまま葬儀を終え、最悪の場合はそのまま忘れてしまうでしょう。

「人の死相」というのは、生きている時とは大きく変わります。
思い出せないのは当然なのです。
死後硬直で皮膚がつっぱり、少し上を向き、口は必ず半開きになります。
※体内のガスが喉を通って口から出るからです
納棺師が、素手で顔を抑えて、少し下に向け、口に綿を詰めるのは
少し顔の緊張を緩めて、口からの腐敗ガスを抑え込み、穏やかな表情にするためです。
この工程は手袋をはめて行うのには難しい繊細な作業です。
どうしても素手で触れる事になります。

そして死化粧をした父を見て、主人公は父親の顔を思い出します。
と同時に彼が手に持った石文の意味に気がつきます。
彼は「この人の人生はなんだったんだろう」と先に呟きましたが
この石文こそ、父の人生の最後の文であり、そして主人公から妻へ、子供へと繋がる証です。
その本当の意味は、石文ですので、読んでいただいた皆様で感じ取ってもらうとして
妻が拾った小さな石文、主人公が父親に渡したやはり小さな石文
父親の送った大きな石文、最後に主人公に返した父親の最後の石文。
「鮭は故郷に帰りたい」
その言葉を合わせて、考えてもらえたらと思います。

主人公の父が、本当に女と駆け落ちして、その後に漁村に行き着いたのかどうかは定かではありません。
しかし、銭湯のおばちゃんが主人公の母親が亡くなった時に、彼が戻って来れなかった事を嘆いていました。
もしかしたら、主人公の母親は銭湯のおばちゃんに何か父親の事で伝えた事があったのかもしれません。
それを息子にちゃんと伝えられなかった母親の無念が、おばちゃんを通してあのような言葉になったような気がしています。
離婚した夫婦のことは、夫婦にしか分からない。
だから父親の失踪の理由も、何か別の理由があるのかもしれません。

だからと言って、父親を許すかどうかは別問題です。
主人公にとって、どんな理由があれ、両親は揃っていて欲しかったに違いはないのです。
彼が父親を最後に認識した事で、大きな衝撃を迎えてラストとなりました。
しかし彼が父親を受け入れられるかは、これからだと思います。
許すかどうかは、彼次第ですが
最後の遺言に気が付かなければ、おそらくは許すきっかけすらなかったでしょう。
それでも、彼にとって父親を許すという作業は困難を究めるのは間違いないです。
遺言ひとつで許されるような事ではないでしょう。

しかし、自らの死化粧によって「許す」「許さない」の選択肢を持った。
それが納棺師としての彼の仕事の大きさを現しているのだと思います。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
どうか皆様にも安らかな日々が続きますように。

※原作は「納棺夫日記」となっておりますが、納棺に携わる方の地位向上の為にあえて納棺師というやや高い言葉を使わせていただいております。また火夫以外に適切な言葉を見つけられなかった当方をお許しください。

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