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船凍イカ - Google 検索 https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=船凍イカ

上記のように検索をかけると、出てくるのはほとんどが小木港に関する情報のようです。

小木港の船の数は昭和の時代に比べ激減していますが、今も遠洋のイカ漁は続いていて、宇出津のスーパーにも小木港の船凍イカは売っています。6月頃に出漁して12月に戻るという遠洋漁業の基本もほぼ同じかと思われますが、今はそれ以外の時期でも小木港で中型イカ釣り漁船の姿をみることもあります。

とにかく平成3年ころの小木港の様子というのが私にも想像がつかないのですが、二百海里問題以降、衰退はしていたもののまだ現在よりは船の数もイカの水揚げも多かったのではないかと想像されます。

とにかく金沢市場輸送では小木港に船凍イカを積みに行くことは一度もありませんでした。古い運転手の話では以前は行ったことがあるというような話を聞いたような気もするのですが、記憶は曖昧です。

金沢市場輸送では浜田漁業金沢工場のイワシの運搬以外では、殆どに近く能登の方に仕事に行くことはありませんでした。正月明けに蛸島港にイワシの鮮魚を積みに行ったぐらいです。あとたまに行くのは七尾市の市場ぐらいでした。果物を持っていくような仕事でした。

七尾市の方によく行くようになったのは市場急配センターで、平成3年の秋11月ころからのことですが、これは被告訴人東渡好信が配車係になったことと、その被告訴人東渡好信の口ききらしく七尾市の丸一運送の仕事をするようになったことがきっかけです。

行き荷のほとんどが七尾市だったようにも思います。積み込むのは七尾市の、能登木材の製材か、林ベニヤのベニヤ板のどちらかでした。積み荷の行き先はすべてが関東だったと思います。

帰り荷としても丸一運送の仕事と聞く、和歌山県かつらぎ町からのミカンが多く、手作業で他の運転手が嫌がる仕事だったので、私には個人的に集中的に回ってきていたようでもありました。これは小松市と七尾市の2箇所降ろしが多かったように思います。七尾市は必ずだったとも思います。

序に書くと、平成4年の2月ころからは石灰を積んでくる仕事があって、それも丸一運送の仕事だと聞いていました。私は栃木県の葛生市の山の方から3,4回、岐阜県の大垣市の山の方から2回ほど運んだように記憶しています。卸先は七尾市内、田鶴浜町、松任市の駅の近くがありました。

本書でも既に書いているところがあるかと思いますが、今年の8月の下旬にバイクで七尾市に行った時、田鶴浜町の国道沿いに、橋本商事という看板の出た倉庫が、当時と同じように存在していました。

そういえば今朝の10時過ぎの石川テレビの番組だったと思いますが、七尾市の市政10周年とかやっていました。旧七尾市、田鶴浜町、能登島町の合併になっていたように思います。中島町も現在は七尾市になっているような気もするのですが、田鶴浜町が以前七尾市とは別だったとは少々意外でした。

なお、金沢市から七尾市に向かうには能登有料道路を千里浜インターで降りて向かうことが多かったように思いますが、行き先が関東だと、そのまま海岸線の国道で富山県に入って氷見市から高岡市の国道8号線に出ていました。

国道160号線ということになるかと思います。石川県七尾市内から富山県高岡市につながる国道で、県境から氷見市の手前辺りまでは海岸線がほとんどだったように記憶しています。

富山県内を走る高速道路つまり北陸道は、石川県との県境から山の方を走り、国道8号線からも離れていました。滑川インター辺りになると国道8号線には近くなっていましたが、ほぼ交わるのは富山県で新潟県の県境の最終になる朝日インターでした。

昭和59年当時はその朝日インターが北陸道の最終インターで、新潟県の上越インターまでは高速道路が未開通になっていました。対面通行でトンネルも多かったですが、その間が開通したのは昭和63年ぐらいかと思います。

昭和60年の時点では関越道も湯沢インターが最終になっていて、その翌年ぐらいに開通したと記憶にあります。日本一長いという関越トンネルの開通でした。

その昭和60年か昭和61年の冬に、中西運輸商の4トン車で一度、湯沢インターから三国峠の国道18号線を走ったことがありました。トラックにはすれ違いも困難な狭いトンネルがありました。カーブも多くてずいぶんと時間がかかったように思います。

馬鹿のように時間も掛かったので、二度と通りたくはないと思うような三国峠でした。その昭和60年以来ということになるのかはわかりませんが、数年ぶりに通ったのが平成4年の2月の終わりか3月の初めのことで、大雪で関越道が通行止めになったために、しかたなく三国峠を走ることになったのです。

七尾市降ろしの石灰を栃木県葛生町から積んでいた時だったと思います。三国峠など国道18号線の方も渋滞がひどくて、湯沢インターのあたりに出たのは翌日の昼頃にもなっていたと思いますが、午後の明るい時間のうちには七尾市で荷物を降ろすことが出来たようにも記憶にあります。

その時は七尾市内の丸一運送の会社の方で、他のトラックに石灰の荷物を積み替えたか、パレットで仮置きをしたように思います。丸一運送の会社にはこの時を含め、2回かあるいは3回行ったことがありました。

どの時だったかわかりませんが、丸一運送の配車係か事務所の幹部社員のような年配の人がいて、被告訴人東渡好信のことをよく知り、あるいは心配するような感じで話をしていました。幼なじみとも思えるような親しく長い付き合いの関係にも見えました。

時期的に、被告訴人東渡好信が失踪をするような不可解な行動をやっていた時期に重なるかとも思いますが、そのことを案じて、私に声を掛けていたようにも思います。やはり心配するような表情であったと今はぼんやりした場面になっていますが、記憶に残っています。

被告訴人東渡好信に関しては後回しにして、今は被告訴人安田敏に関する説明をメインにしています。

七尾市から国道160号線で高岡市の国道8号線に出ると、私は小杉インターから北陸道にのることが多かったと思いますが、その時の気分では滑川インターまで行っていたかもしれません。小杉インターは富山インターの一つ手前で、富山インターの一つか二つ先が、滑川インターだったと思います。

市場急配センターでは基本的に高速道路は自由に利用ができていましたが、被告訴人東渡好信が節約とか言い出して、新潟県上越市から山の中の国道を走って、六日町インターから関越道にのることもありました。その道は金沢市場輸送に頃にもたまに使っていました。

Googleマップで確認したところ国道253号線になるのかと思います。松代とか十日町を通って、六日町の町の手前から関越道にのっていたように思います。3桁の国道でしたが、割と広い道で、豪雪地帯でしたが、特に難所はなかったように思います。

金沢市場輸送の頃は、六日町インターから関越道にのると、群馬県内の花園インターで降りることがほとんどだったとも記憶にあります。茨城県水海道市にアルミサッシを運ぶ仕事が多かったとも思いますが、埼玉県桶川市から移転した新しいアルミサッシの配送センターのような倉庫でした。

Googleマップで確認したところ水海道市は現在、市町村合併で常総市となっているようです。谷和原インターというのも思い出しました。アルミサッシの荷降ろしを終えた後、よく利用していた常磐自動車道のインターだったと思います。

その谷和原インターの近くに最後に行ったのは、被告訴人浜口卓也と一緒に日清製粉の工場に行った時でした。平成3年の11月の中頃ではなかったかと思います。

日清製粉という社名になっていたように思いますが、カップ麺でお馴染みの会社です。国道6号線で取手市だと思いますが、茨城県内に入るとすぐ左側に日清製粉の目立つ工場か倉庫のような建物があることは、以前からそこを通って知っていました。

仕事でその取手市の日清製粉に行ったのは初めで最後だったのですが、富山県の富山市の郊外に位置する富山インターから国道41号線を岐阜県の方に向かって3,40分ほど走った辺りで積み込んだカップ麺の容器のような荷物を積んでいました。

被告訴人浜口卓也とは午後に金沢を出発して、私は富山インターで降りて荷物を積みに行ってのですが、被告訴人浜口卓也はその先のサービスエリアで私が来るのを待っていたように思います。彼も自分の担当になった大型ウィング車に乗務していました。

被告訴人浜口卓也がどんな荷物を積んでいたのか憶えてはいませんが、とにかく一緒に茨城県取手市の日清製粉に行き、国道6号線沿いの日清製粉のすぐそばにトラックを駐めて、どちらかのトラックの中でコンビニで買った弁当を食べながら一緒に話をしながら缶ビールを飲んでいたことを憶えています。

被告訴人浜口卓也も日清製粉の荷降ろしだったと思うのですが、荷物の積み込み先が違っていたか、積み込んだ日が違っていたようです。

茨城県取手市の日清製粉で荷降ろしした後のこともよく思い出せないのですが、私は谷和原インターの付近を懐かしいと思いながらトラックで走行していた場面の記憶は残っています。

私は同じ茨城県の古河市の市場に行った可能性が高いかと思いますが、被告訴人浜口卓也とは別行動の仕事になったと思いますし、そもそも古河の市場で被告訴人浜口卓也と一緒になったことは、一度もなかったようにも思います。

古河の市場の山三青果の仕事はそもそも市場急配センターの仕事のメインだったのですが、私は被告訴人安田敏とも古河の市場では一度も一緒になることがなかったようにも思います。

山三青果の定期便の運賃は大型車で12万円とも聞いていたように思います。もとは平成2年の12月頃から金沢市場輸送に市場急配センターが請け負わせていた仕事だったのですが、運賃がよく売上がいいので、金沢市場輸送に任せるのが惜しくなったという話を聞くこともありました。

本書でも既に説明しているところがあるかと思いますが、金沢市場輸送でやっていたころは、日通高柳店からの埼玉県岩槻市、千葉県千葉市の二箇所降ろしの日通の定期便と、小松店、金沢店の二箇所積みでの栃木県宇都宮市へのトナミ運輸の定期便というほぼ同時期の二つの定期便とセットになっていました。

日通やトナミ運輸では、他に福岡への定期便や仙台への定期便もやっていたので、記憶が混同している部分もあるかもしれませんが、仙台への日通の定期便は、富山県高岡市だったと思います。

富山中央店からの福岡への定期便はウロコ運送との一日交代で前からやっていましたが、西インターの金沢店からも福岡への定期便をするようになっていたかと思います。富山中央店からの定期便とは違い、片道だけの定期便だったとも思います。

その頃は仕事が多いピークの時期だったとも思いますが、すべて金沢市場輸送のトラックでやっていたわけではなく、傭車と言い他の運送会社のトラックを使うことも多くなっていました。

特に多かったのは富山県氷見市の堀安商店という運送でした。大型車4台程度の小さな運送会社でしたが、緑ナンバーだったと思います。もともとは鮮魚専門のような会社でした。

堀安商店の方は、逆に仕事をもらうこともあって、氷見の漁港に鮮魚を積みに行くことがありました。東京の築地が多かったと思いますが、一度、シイラを満載にして福岡と熊本まで運んだことがありました。シイラは全国的にも人気がない魚で、買い手がないという話も聞きました。

堀安商店には3,4人の顔なじみの運転手がいたと思います。6トン車も一台はいたようにも思います。堀安商店の会社にも行ったことがありました。堀安商店の運転手とは福岡の魚市場で顔を合わすこともよくあったように思います。

同じ時期、傭車でよく金沢市場輸送に来ていたのは小木運送の新出さんでした。新出というのは小木や越坂に多い名前でしたが、一度聞いた話では珠洲市の若山に家があると話していました。

その頃は金沢市や県外の方で小木運送のトラックを見かけることも割と多かったように思いますが、金沢市場輸送に傭車として出入りするのは新出さんだけでした。新出さんは10トン車に乗務していましたが、他の小木運送のトラックでは6トン車を見かけることが多かったようにも思います。

小木運送という名前で運送会社のようですが、会社としてのシステムやあり方は、普通の運送会社とは違っていて、小木港での船凍イカの仕事が暇な時期は、自分で仕事を探してきてやりくりするしかない、というような話も聞いていたように思います。

小木運送でも新出さん個人との仕事のやりとりという感じでしたが、金沢市場輸送では小木運送の仕事をすることもなかったし、既に書いたように小木港に仕事に行くことも一度もありませんでした。

被告訴人本恒夫と新出さんとの個人的な関係と言ったほうが良いかもしれません。どこでどのように知り合い、傭車をするようになったのか具体的なことを聞いてはいないようにも思いますが、新出さんとは個人的に話をする機会も割と多かったので、憶えていないだけで聞いていたこともあるかもしれません。

越坂出身だと聞くKSさんも小木運送で大型車に乗務していたと聞いていましたが、その時期というのははっきりしません。同じぐらいの年の女の人と結婚をしていましたが、その妻というのは小木運送の金沢の支店で事務員をしていたと聞きました。

妻は金沢市の出身とうことで、何かの機会にその実家という家に遊びに行くこともありました。西念町でしたが、中央市場からは離れた場所で、北安江に近かったと思います。

KSさんと初めて会ったのは昭和59年の6月だと思います。金沢港のスルメイカの仕事では山形県の酒田市に行くことも多かったのですが、一度、珠洲市三崎のHMを連れて行ったことがありました。たぶん彼は失業中だったと思います。

酒田市は山形県でも日本海側にあります。その帰りだったと思いますが、新潟県の柿崎町から上越市に入った辺りの国道8号線沿いに、右手にラーメン屋がありました。そのラーメン屋で一緒になったのが越坂のKSさんでした。

その時、越坂のKSさんは中西水産輸送の10トン車保冷車に乗務していました。中西運輸商と大書きした2台ある保冷車の一台でした。いずれも日産ディーゼルのトラックで見た目はほとんど同じだったと思いますが、中身はずいぶんと違うものになっていました。

その一台というのは10トン車の車体に、トレーラーのエンジンやミッションを搭載したものでギアが10段あるものの、ギア比が低いため最高速度が90キロしか出ないというような話でした。

同じ頃ではなかったかと思いますが、宮城県の石巻の冷蔵庫で、中西運輸商の保冷車と一緒になり、その積み込みを手伝ったり、話をしたことがありました。当時の長距離トラック運転手としては最高齢に近く、50歳近いような話でした。現在の50歳の感覚とはまるで違います。

名前の方は思い出せなくなりましたが、珠洲市の鵜飼辺りの出身とも話していたと記憶にあります。ちょっと風変わりな人でしたが、サウナに寝泊まりしながら生活しているとも話していました。

その時も冷凍のエサを保冷車に満載にしていました。段ボールケースにも入っていない小魚の冷凍で、メギスのような色の悪い小魚の冷凍物であったとも印象に残っています。

昭和59年で私が金沢市場輸送の4トン保冷車に乗務していた頃のことですが、その頃、石巻に行ったのは2,3回だけだったと思います。その一度は、既に書いていると思いますが、被告訴人大網健二と生マグロを積みに行った時のことで、興勝運輸の仕事でした。

興勝運輸は飾りの多い立派なトラックでしたが、会社の方は石巻港でもずいぶんと離れた場所にありました。昭和61年頃にはすでに倒産して会社がなくなったと聞いていました。

その石巻の冷蔵庫で一緒になったのがトレーラーのミッションをつけた10トン車だったと思います。その運転手の人も、私が中西運輸商で4トン車に乗務していた頃に、しばらく会社に戻って同じトラックに乗務していたことがありました。けっこう気ままに出入りを繰り返しているような話でした。

印象に残っているのは冬だったと思いますが、中国自動車道を走行中にトラックのフロントガラスが全部割れ、顔にタオルを巻きつけて走ってきたと話していたことです。

越坂のKSさんは私より年が3つか4つ上だったと思います。初めは金沢市場輸送で4トン車に乗務していたとも聞いたように思いますが、水産高校を卒業したばかりの蛸島のTSさんと一緒だったとも聞いていたように思います。

すでに書いているかと思いますが、蛸島のTSさんが水産高校を卒業したのは昭和56年のことで、それは私が小木分校を中退して、金沢市に出た年と同じでした。

被告訴人大網周一と二人でいたところ、蛸島のTSさんが運転するジャパンというスカイラインだったと思いますが、それに乗せてもらい、問屋町のガソリンスタンドの寮まで送ってもらったことがありました。その時、助手席にいたのが当時は名前の他あまりしらなかった被告訴人安田敏でした。

そういえばということで思い出したのですが、金沢市場輸送で傭車の仕事をするようになった当初の越坂のKSさんは、中西運輸商でトレーラーのミッションをつけていた10トン車を払い下げで買い受けて、それに乗務していたように思います。

バイクの改造車のように自分でスプレーで塗装したようなボディのカラーになっていて、中西運輸商のトラックという面影はなくなっていたとも思いますが、そういうふうに聞いたように思い出しました。

私の記憶も薄くなっていて余り自信は持てませんが、初めはやはりその10トン車だったとして、金沢市場輸送での傭車の仕事をするようになってからは、そう長い間その10トン車には乗務しておらず、まもなくトレーラーに買い換えていました。

トレーラーの本体は新車だったと思いますが、荷台の保冷の箱の方は古い中古の物を使っていたように思います。10トン車もそのトレーラーも白ナンバーだったと思います。

個人の持ち込みという言い方もされていたかと思いますが、越坂のKSさんが独立して個人のトラックを保有するようになったのは、石巻からエサを運ぶ仕事がしたかったからだと話していました。初めは興勝運輸から仕事をもらっていたとも聞いたようにも思いますが、これも私の記憶がぼんやりしています。

とにかく昭和59年ころまでの大型保冷車の仕事というのは、エサの仕事が多かったと聞いています。私が金沢市場輸送で大型保冷車に乗務したのは昭和62年4月のことで、その頃のはエサの仕事自体がほとんどなくなっていて、私自身、エサの仕事というのは一度もすることがありませんでした。

話としては年配の運転手からよく聞いていたのですが、主に石巻港の冷蔵庫からエサを満載に積み、それを鹿児島県や宮崎県あるいは大分県のハマチの養殖場まで運ぶという仕事で、四国の宇和島の方にも行くとも聞いていました。

たいていは片道一週間ほど掛けて、大半はフェリーに乗って、のんびりと運ぶ仕事で、月に4回ぐらいしか出来ないけど、そこそこ収入にもなるような話でした。

本来は大半をフェリーの利用にするというのが常識だったようですが、それを全線高速道路でやろうと考え、トレーラーのエンジンやミッションに改造することを考え、実行したのが中西運輸商の社長の発想だと聞いていました。箱の方も丸みを帯びて変形していたような記憶があります。

これもそういえばということになるかと思いますが、越坂のKSさんは、金沢市場輸送で姿を見かけなくなってしばらくしてから、輪島屋鮮冷の仕事をしているらしいと聞いたようなことも思い出しました。

金沢市場輸送では基本的に鮮魚の仕事が多かったので、KSさんとしてはそれも好きではなかったようです。トレーラーがスピードの出せるものではなく、時間に遅れてしまうことを気にかけていたのかもしれないですが、冷凍物を運ぶのが好きだったようです。

金沢市場輸送では妻子を連れて会社に来ていることも多かったKSさんですが、蛸島のTSさんが自殺をしたという新聞記事が出た時は、他の誰よりも驚き、ショックを受けた様子に見えました。その時は珍しく金沢市場輸送の事務員のいる事務所の中にいて、そこには竹林と大西さんの姿もありました。

他の女性事務員などの姿が見えなかったようにも記憶の場面にはあるので、今考えるとそれは休日だったのかとも思えます。午前中の朝に近い時間だったとも思いますが、そんな時間に運転手が集まっていたというのも、あまりないことかとも思います。

私も朝アパートで新聞を見てその自殺のことを知ってから会社に行ったのですが、朝の早い時間での出社というのも金沢市場輸送では余りなことであったように思います。夜から深夜の時間の仕事が多かったので、そうなるわけです。

運転手は運転手の控室のような部屋があり、勝手口のような出入口があって、ほとんどはそこから出入りをしていました。事務所の方に人が集まっていたのは、あるいは新聞記事を見るために新聞のある事務所の方に集まっていたのかもしれません。

エサの仕事というのはキロあたりの運賃になっていると聞いていました。いい時期はキロあたり20円からそれ以上と聞いていたようにも思いますが、それが12円ぐらいまで下がっていると聞いていたようにも思います。

30トンでざっと計算すると単純に片道60万円という運賃になりそうです。フェリー代などの経費も必要だとは思いますが、フェリーに乗っている分には燃料代も浮きそうです。慣れたらやめられない仕事だと聞くこともありましたが、重量オーパーで捕まる危険も高く、事故の危険も高くなります。

私は4トン車でもブレーキーが焼けて煙が上がるという経験を何度かしているので、よくわかるのですが、運転は下り坂の場合特に神経を使うというより神経をすり減らします。運転技術と腹のすわった注意力も人一倍必要になるかと思います。一度加速がつき過ぎたらその時は終わりかもしれません。

エサの仕事がなくなったとか運賃が安すぎると聞くようになってからは、全体的な運送の仕事が増えていきました。ちょうど日本の国全体がいわゆるバブル景気へと突入していた時期になるのかと思います。

仕事はいくらでもあると言われるような時期になり、そのうち傭車と言って、実際の仕事だけを他に請け負わせて手数料をとるという仕事も増えていったようです。時代の先を読んでいたのか、それを先駆け徹底していたのも中西運輸商かと思います。

既に書いているかと思いますが、自社のトラックや運転手ですら傭車の一部のような扱いの別会社として中西水産輸送にしていると聞き、傭車など配車の手配を主体とする会社を中西運輸商という会社にしていると聞きました。どちらも有限会社ではなかったかと思います。

中西運輸商の真似をしたのか参考にしたのかもわかりませんが、金沢市場輸送の本恒夫も規模は小さいものの似たようなことをやって、傭車に仕事を回すようになっていきました。

そして金沢市場輸送の運転手の中でもトラックの払い下げを受けるなどして、持ち込み運転手として仕事を請け負おう運転手も何人か出てきました。きっかけは持ち込み制度を先駆けていた守田水産輸送の引き抜きでもめたことだったと思います。

<2014-10-08 水 08:41> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

**** 原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年10月8日
<2014-10-08 水 08:42> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

金沢市場輸送から守田水産輸送に行った谷内さんも守田水産輸送で持ち込みをやっていると聞いていました。谷内さんは昭和59年のスルメイカのシーズンに入社しました。たしか初めての運行で新潟あたりの比較的近場だったと思いますが同行したことがありました。

谷内さんは珠洲市若山の人だと言っていたと記憶にあります。大工をやっていたともいい。話しぶりからすると自分で工務店でも経営していたような感じでした。

珠洲市の若山というのは珠洲市の中心部飯田から輪島の方に向かうと大谷峠の手前の辺りです。大谷峠を超えると大谷の町に入りますが、そこは能登半島の先端部分で輪島市内につながる外浦という海岸線になります。

大工を廃業していわゆる出稼ぎに出るという話は、当時小木や姫、宇出津を中心に聴いていたことでした。小木港の遠洋漁業が大打撃を受け、その煽りを受けたかたちで他の商売が立ちゆかなくなったと聞きます。当時はソ連ではなかったかと思いますが、それら国際的な二百海里問題によるものでした。

姫は当時宇出津と同じ能都町でしたが小木とは連接し、小木とは別に遠洋漁業をやっていました。遠洋漁業の良い時期は、石川県で住宅の新築率が1位だったとも聞いたことがあります。私の同級生の家も真脇で大工をしていましたが、ちょうどその頃廃業したと聴いていました。

小木港や姫では遠洋漁船が拿捕され操業ができなくなったとか、銃撃を受けて人が死ぬような事件もありました。八千代丸という船です。

ネットで調べたところ第36八千代丸事件は昭和58年7月28日のことのようです。知り合いも一人乗船していたと聞きますが、水産高校での被告訴人安田敏の同級生です。私の記憶では姫の船と聞いていたように思うのですが、確認できる情報はみつかりませんでした。

宇出津は遠洋漁業ではなく地場の漁港ですが、それでも当時は町の半分の人が漁業の関係者だと聞くこともありました。私の友人知人も、小木や姫の遠洋漁船に乗り組む人が多かったです。また、珠洲市の方でも同様にけっこういると聞いていました。

当時の小木港は珠洲郡内浦町でしたが、珠洲市の中心部の飯田の方とはけっこう離れているので、私の感覚としてはさほど影響もなさそうには思えていたのですが、連鎖的な影響というのはかなりのものがあったのかもしれません。

当時は宇出津の崎山でも自殺や夜逃げが横行していると聞いていました。崎山は私が小さい頃は畑ばかりの風景だったのですが、その後造成が始まり、私が中学生の頃にはすっかり新興住宅地となっていました。住宅ローンの支払いができなくなったということなのでしょう。

私の家は漁業とは無縁で、当時は金沢市で生活をしていたので、具体的実感というのは余りなかったのですが、小木や姫の漁船が拿捕されたというニュースはテレビや新聞でも見かけていましたし、相当に深刻な死活問題という認識はありました。

年々遠洋漁船の仕事をやめて普通の仕事をするようになったという周りの話も聞くようになりました。「丘に上がる」というような表現もします。現在では中型イカ釣り船に地元の若者は少なく、若者はほとんどがインドネシアの研修生だと聞いています。

気になるのは福井刑務所で班長から聞いた話でした。まだT班長がいた頃で、その場にはその後任と綯った班長もいたのですが、そちらの方は急に名前が思い出せなくなっています。と書いているうちにそれらしい名前を思い出したのでY班長ということにします。

ほとんど同時のような会話の状況だったのですが、発言はY班長だったと思います。被告訴人竹沢俊寿について知っている話をきいたときのことでした。能登の方とかで金貸しをして儲けている、という内容でした。T班長もよく知っていると相槌をうつような感じでした。

T班長には直接、被告訴人安田敏のことを知らないかとたずねたこともありましたが、これは知らないと言われました。ちょっと答えにくそうな雰囲気も感じたので、どうかとは思っていたのですが、被告訴人安田敏本人がよく知っていると後日話していたので、本当の答えではなかったことになりそうです。

二人の班長とも被告訴人安田敏が以前片町でバーテンをしていた店の店主の友達とかでよく見せに来ていたという話でした。この会話も録音済みで、記録を金沢地方裁判所に提出している可能性があるかと思います。

あくまで被告訴人安田敏の話なので事実かどうかはわからないですが、被告訴人安田敏がいうにはT班長も元と言っていたようにも思いますが、暴力団員で滝本組の組員だという話でした。

Y班長の方は自分で元組員とか、本当は組員のままになっているが執行猶予をもらって少しでも早く出所するために、組をやめたと偽っているとか話していました。同じく滝本組と聞いていたようにも思いますが、紺谷組と聞いた風にも思うのです。あるいは昔、紺谷組にいたという話だったかもしれません。

Y班長とそういう会話をしている時、私は被告訴人安田繁克のことを思い浮かべていました。被告訴人安田繁克も暴走族のリーダーをやっていた他、ヤクザの組員をしていたという話もしていたからです。

被告訴人安田繁克のその時の話では、事務所の方に顔を出さなくなり自然消滅のようなかたちでヤクザをやめ、その後世話になった兄貴分のような人物に顔を合わせたけど、何も言われずに済んだと言っていました。平成4年2月1日の夜のことです。彼と膝を突き合わせるような会話をしたのはその時だけ。

T班長に被告訴人安田敏のことをたずねたのは、T班長が片町で有名な人物で薬物事件に関わっていたからです。T班長に関しては既に本書で取り上げているところがあるかと思いますが、平成13年頃には金沢刑務所で私の運転手仲間だったYKと6工場で仲良しになっていると聞いていました。

能登での金貸しの話に戻します。そういえばと思い当たることがありました。昭和61年の秋のことかと思います。

<2014-10-10 金 15:58> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

**** 原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年10月19日

投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2014/09/13 09:34 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/510587244990590976
訴状 原告訴訟代理人 弁護士 長谷川紘之 平成6年7月5日付 金沢地方裁判所御中_04.jpg http://t.co/pmGi8JbPwT

投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2014/09/13 09:34 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/510587349109993472
訴状 原告訴訟代理人 弁護士 長谷川紘之 平成6年7月5日付 金沢地方裁判所御中_05.jpg http://t.co/i53lXy5beM

投稿者:s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2014/09/13 09:35 ツイート: https://twitter.com/s_hirono/status/510587438578667520
訴状 原告訴訟代理人 弁護士 長谷川紘之 平成6年7月5日付 金沢地方裁判所御中_06.jpg http://t.co/RmaVvWoGer

*** 再審制度と刑事弁護に対する社会の認識と実情に関して
**** ジャーナリストの江川紹子さんの最高裁裁判官の国民審査に関するツイートから考えたこと 2014年12月17日 :POST:
<2014-12-17 水 12:40> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

迷いもあったのですが、「経緯及び社会の反応」というレベル2の階層の下にレベル4という項目の位置づけで、この項目を作成しました。

なぜそのような構成による配置にしたのかというと、元をたどればモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)との2008年当時の関係とも、係る部分があるからです。大きな一つの流れの支流として捉えたほうが、良いかと考えました。

ジャーナリストの江川紹子さんに関しては既に本書で言及していることも少なくないと思いますが、同じ内容を繰り返すことはできるだけ避ける方針です。もともと本書はその全てを読まないと、満足な理解は出来ないものとして考えるほかはありません。

既に膨大な記述になっていることは重々承知なので、同じ内容を繰り返して膨れあがることは、極力避けるのがよりよい対処であると考えています。私の頭の中には今後も書くべきことが沢山あり、泉のように湧き出ています。

記事としては"2014k_9660","江川紹子さんの原稿です。我々の生活に引きつけ、国民審査を白紙委任状と捉えた時に生じる問題をわかりやすく解説されています。 / 【総選挙2014】最高裁国民審査"が始まりになるかと思います。

最初の始まりとなる発見はツイッターになるのですが、次のツイートがそれになりますが、私がリツイートした時刻が2014/12/08 19:59 となっております。

リツイート)→  投稿者:hirono_hideki(廣野秀樹) 日時:2014/12/08 19:59 ツイート: https://twitter.com/hirono_hideki/status/541909830051454976
RT @tsuda: 江川紹子さんの原稿です。我々の生活に引きつけ、国民審査を白紙委任状と捉えた時に生じる問題をわかりやすく解説されています。 / 【総選挙2014】最高裁国>民審査は「わからなかったら×(バツ)」で(江川紹子...
http://t.co/mbXlGzVWrw
元のツイート)→ 投稿者:tsuda(津田大介) 日時:2014/12/08 07:39 ツイート: https://twitter.com/tsuda/status/541723580686274560
江川紹子さんの原稿です。我々の生活に引きつけ、国民審査を白紙委任状と捉えた時に生じる問題をわかりやすく解説されています。 / 【総選挙2014】最高裁国民審査は「わ
からなかったら×(バツ)」で(江川紹子...
http://t.co/mbXlGzVWrw #NewsPicks

これも本書でご説明済みかと思いますが、TwitterのAPIを使った自作のスクリプトで、APIで得たデータを独自に加工した書式となっております。

津田さんもジャーナリストの一員ということになるのかと思いますが、情報社会学のような分野での大学の先生でもあったと思います。そういえばテレビで姿を見かけなくなったとも思い出したのですが、ひと頃はNHKをはじめテレビで見ることも多く、著名な人かと思います。

ツイッターに関しては第一人者としてメディアで解説をされることの多かった津田さんですが、その津田さんがジャーナリストの江川紹子さんのツイートを紹介していることにも、興味をそそられました。

まわりくどい説明をしているといたずらに文字数も増えるので、ずばりと簡潔に説明をしていきたいと思いますが、江川さんのツイートを読んで、まず頭に浮かんだのは、これまでも再審請求の報道に際して、極端に裁判官を批判したり、褒め称えたりしていたことです。

批判に関しては「名張ぶどう酒殺人事件」の再審請求の棄却決定も印象的でしたが、どうもご自身が支持する事件についてはそれだけで決定的な評価を下す傾向があるように感じておりました。

再審請求の認容、再審開始の決定自体めったに出るものではないと思いますが、褒めちぎっていたのは記憶にもまだ新しい袴田事件の再審開始の決定でした。

そういえばその袴田事件の再審開始もまだ半年も経つか経たないぐらいで今年の重大ニュースの一つかと思いますが、12月に入って年末に今年の重大ニュースや報道を振り返る情報番組の特番でも、さっぱり取り上げられてはいないように思いました。

再審開始の決定に対する検察の即時抗告があったと思いますが、これには大きの批判も寄せられしばらくの間は話題にもなっていたかと思います。

同じ再審請求の事件で再審開始の決定が出て、その決定が覆された事件もありました。再審開始を取り消すという決定ですが、当日には批判の声があがったものの、不思議なぐらいぴたりと報道がなくなった事件がありました。福井女子中学生殺害事件のことです。

弁護団の活動としても情報をみなくなったように思いますが、私の場合個人的に特に関心の強い事件なので時々思い出しては検索で調べるようなこともしていたように思います。

マスコミの報道には他にも不可解と思えるところがあるのですが、ある日ある時を境にぴたりと報道がなくなったり、目立たないようなかたちで小さい扱いとして続報される事件があります。小さい扱いだと気が付かずに過ぎてしまうことも多いかと思いました。

そういうことを強く感じたのは舞鶴女子高生殺害事件で無罪判決が確定した男性が起こした傷害かあるいは殺人未遂容疑での事件でした。考えてみるとかなり経過しているので、起訴の判断も出ているはずですが、訴因が傷害になったのか殺人未遂になったのかも報道を見ていない気がします。

続報として小さい記事をネット上で見たのは、被害者に対する暴力行為の動機がわいせつ目的だったというニュースでした。当初の報道はテレビでも実に大々的なものでしたが、元雇い主の女性との間の金銭トラブルか、お金に困ったことでの犯行という印象を強くさせる報道でした。

一日かあるは二日間の間は、無罪判決の不当性を強く感じさせるような報道が舞鶴女子高生殺害事件の被告人であったことと併せて、大々的に報じられていましたが、それがぴたりとやみました。

情報を得る手段もないので確かなことはわかりませんが、一つの可能性として、弁護士らがマスコミの報道に対して人権を盾に強く抗議した可能性というのもあるのではないかと私は想像しています。

実際にそのようなマスコミ批判を言う弁護士もインターネット上ではいたと思いますし、思い出しましたがジャーナリストの江川紹子さんも、そのような批判をあるいは疑問というかたちでやっていたように思います。

まだ3ヶ月も経っていないように思いますが、はっきりした時期も思い出せないものです。わいせつ目的というニュースは、ニュースの関連記事として、たまたま偶然に近いかたちで知ったもので、見出しだけで舞鶴の事件との関連など全くわからないものになっていました。

私の中では、舞鶴の女子高校生殺害事件もそうですが、刑事弁護と弁護士に対する不信と疑問を決定的に大きくさせたものです。

刑事手続としては「疑わしきは被告人の利益」という刑事司法の大原則を貫徹させた弁護側の歴史的大勝利という結果として評価される事件なのかと考えますが、ネットで見た細かい情報を見ると、捜査の妨害とも思えるようななりふり構わぬ、弁護士らの姿が私には見えてくるのです。

残念ながら舞鶴の女子高校生殺害事件は判決が確定しているので進展の可能性はほぼないように思われます。一事不再理ということでわかりやすい前例を作ったことが、社会の共有財産とも思いますが、マスコミの報道を見ていてもその点は控えめな印象もあって、社会に普く浸透はしていなそうです。

我々国民としても裁判所が決めた確定判決に対しては尊重すべきなのかとも考えなくはないですが、わだかまりなく受け容れることが出来るという人はそう多くはないように思いますし、司法に対する不信や疑問として解消されることなく沈殿していく事件の一つのように思われます。

舞鶴の事件に関しては弁護士らの支援も大きかったと思いますが、ぶれずに強力に容疑を突っぱねた被告人の意思と行動力も報道を通じて感じさせるものがありました。それが真犯人であるかどうかは別として、冤罪のパターンとしては無実なのに認めてしまう人もいると夙に知られています。

冤罪事件のパターンとしては捜査段階で自供をしてしまい公判が始まってから否認をするというケースも大きと聞いています。富山の氷見強姦冤罪事件もそのパターンであったように思います。というか公判でも明確な否認は出来ず、認めた形で判決が確定した事件であったようにも思います。

福井の女子中学生殺害事件に関しては独立した項目で言及をしたいところですが、最高裁での特別抗告棄却のニュースが降って湧いたように出たのは先日12日のことであったと思います。

本書でも既に触れているかと思いますが、福井女子中学生殺害事件で逆転の有罪判決を出したのは、私の平成4年の事件の控訴審と同じ、名古屋高裁金沢支部の小島裕史裁判長でした。

事件の内容に関しても時代や背景の共通性や類似点があったり、それが真逆の形になっていたりといろいろある事件なのですが、ある意味正当な再審請求事件という位置づけも出来るのではと思います。実際、日弁連が支援をする事件としても指定されてきたという経緯があります。

私自身、平成15年まで実際の刑事手続として再審請求を金沢地方裁判所に行い、同じ方向、道筋を歩んできたようなところがありました。私の場合は無実の事件でも冤罪でもないのですが、その違いを説明をする上でも、参考になる事件、裁判かと思っています。

やや脱線気味で修正の必要も感じるところですが、この項目で対象にしているのは、ジャーナリストの江川紹子さんによる最高裁の国民審査の問題です。

最高裁の裁判官に対する国民審査のことはかなり前から知っていました。実際のその国民審査による不支持で罷免になった最高裁判事がいないことも知っていました。

私がジャーナリストの江川紹子さんの態度で問題に思うことは、審査の判断において資料となる情報と、個々の裁判官に対するプレッシャーです。裁判官にもいろいろな人がいて、随分と問題のあるような人がいるらしいということも、これまでは情報として受けてきました。

私自身、小島裕史裁判長によって人生を狂わされたという一面も認識の一つとして有しておりますが、より冷静に問題を考え、その問題をより正確に伝えたいと考えております。

ジャーナリストの江川紹子さんの報道のあり方、姿勢に対して疑問を持つようになったのは、いわゆるPC遠隔操作事件の容疑者が逮捕され、冤罪の主張が始まってからのことです。

このPC遠隔操作事件も私の事件とは、似たような経過と真逆のような対応がありました。判決の方は確か来年2月ということで、まだ一審の裁判が終わっていない事件ですが、佐藤博史弁護士とその弁護団による支援がことのほか強烈で印象的な事件でもありました。

本質的な部分では私の事件、問題とは共通性もないので、変な誤解を招かないためにも単独で取り上げるのはどうかとも思われる事件ですが、なんらかのかたちで、独立した記事として取り上げたい事件です。

裁判官個人に対する批判というのはこれまでいくつか見てきたように思うのですが、とりわけ印象に強く残っているのが、御殿場事件での女性裁判官のことでした。ジャーナリストの江川紹子さんのツイートを読んで真っ先に頭に浮かんだのもその女性裁判官の名前でした。

今現在の私の頭の記憶ではすぐに正確に名前を思い出せないのですが、下の名前がとりわけ記憶に残るもので、「龍子」となっていました。今までずっと「りゅうこ」と読むのだと疑いも感じないできたのですが、改めて取り上げると「たつこ」と読む可能性もありそうだと気づきました。

コマンドを使ってデータベースから調べてみます。「% h-mysql-python-2014k-query-search-title.py 龍子」というコマンドの実行です。該当したデータは次の一件だけでした。

こちら→ "2014k_4248","です。櫻井龍子は御殿場事件の4人の上告棄却をした時も裁判長。/ジャーナリスト江川紹子","http://hirono2014k.wordpress.com/?p=4248"

インターネットに接続できないので確認も出来ないのですが、これは最近になってツイッターの検索で調べたものを記事にしたものと思われます。

御殿場事件は最近ほとんど情報を見かけず、すっかり忘れていることも多かったので、知らない人も多い事件かと思います。

私がブログというサービスの存在を知り自分でもブログを始めた2005年の11月、12月頃に世間の注目を集めていた冤罪事件だったという記憶です。

当時は、テレビ朝日の女性キャスターがこの御殿場事件を大々的に取り上げ、ご自身のブログの方でも取り上げ紹介をしていました。長野智子という名前だったと思いだしましたが、そういえば最近はテレビでも見かけていない気がします。

御殿場事件の内容をここでご紹介することは致しませんが、その報道を見る限り、警察、検察に絶対的な非があって、有罪などあり得ないだろうというものでした。

テレビ朝日の一部の番組が独占的に取り上げた事件という印象もあるのですが、冤罪という割には不思議と弁護士の姿が見えてこない事件で、弁護人の名前というのも見ることはなかったような気もします。

集団による強姦事件だったと思いますが、それも未遂ということになっていたとも思います。被害者の少女が夜遊びの言い訳で被害をでっち上げ、少年らを巻き込んだというような長野智子さんらの説明になっていたと思います。

記憶の方も薄れているのであやふやなことも書けないのですが、報道が一方的すぎて、全体像が見えてこないという印象も残る事件でした。その辺りは福井女子中学生殺害事件と共通性があるようにも思います。

福井女子中学生殺害事件の逆転有罪判決が出たのは、私が福井市内にある福井刑務所に服役中のことだったとも思います。先日、正確な日にちを調べたのですが、それも忘れてしまいました。

服役中の同じ工場の受刑者の中には、その事件の関係者と面識があるような若者もいました。願い出による法律相談を受けた福井市内の弁護士も、その弁護団の一員だと話していたことも印象に残っています。言葉以上に直に接した空気感のようなものがありました。

相談の内容などもほとんど記憶にはないのですが、その場で話題になったことから逆転有罪判決からまだ日の浅い頃か、弁護団の具体的な対応が新聞の記事にも出ていた頃だったと思います。

福井女子中学生殺害事件に関しては日弁連が支援をする他、なんとか救済とかいう団体が全面的な支援をしていて、政治性、思想性、党派性の強い事件という印象も私は抱いていました。

平成7,8年ころのことだと思いますが、当時の情報源というのは新聞がほとんどでした。福井女子中学生殺害事件に関しても週刊誌で取り上げられているのを見たという、明確な記憶は残っていません。ごく断片的な情報しか得ていなかったように思います。

福井女子中学生殺害事件について詳しく知ったのは、インターネット以上公開されていた再審請求書を読んだことが最も大きかったと思いますが、他にも熱心に問題点を取り上げる弁護士のホームページは見ていたと記憶しています。

TwitterやFacebookのようなSNSはおろかブログさえまだ存在はしていない頃であったようにも思います。ブログが出る前はhtmlの知識がないと、インターネットでの情報発信は無理だったように思います。

出回る情報量も今よりはるかに少ない時代であったと思いますが、それだけにひときわ目立つサイトやホームページはあったとも思います。

さきほど書いたように私は2005年の11月の初め頃にブログというサービスの存在を知り、すぐに自分でも始めました。それがgooのブログで、同じく12月の初めにはHatena::Diaryのブログを初めて、それからかなり長い間メインのブログ、情報発信の場として使っていました。

櫻井龍子裁判官の話に戻しますが、とにかく初めは被告人らの請求を斥ける場面として法廷の映像をテレビで見たという記憶が鮮明に残っています。

とんでもない裁判官として酷評される情報だけ見ていたのですが、数年後には最高裁の判事になったという情報に接したことを憶えています。

御殿場事件の報道ではいかついイメージが残っていたのですが、先日、ネットで検索をして写真画像など見ていると、おだやかで優しそうな女性に見えるものもありました。情報が一方的に偏っているので御殿場事件の当否も、結局私にはわからないことです。

昔、「鬼龍院花子の生涯」とかいう話題の映画があったためか、龍子という名前はそれも連想させるもので、その名前のインパクトも強かったと思います。映画も見てはいないので内容は知りませんが、任侠映画の一つという感じでした。

正直に言うと初めにテレビで櫻井龍子裁判官の姿を見た時、不動明王と火炎のようなイメージが重なりました。人間離れした突っぱね方が理解を超えていたとも言えるのですが、今は前提となっていた冤罪報道のあり方にも疑問を思えます。無実にせよそれを取り扱うあり方です。

もともと釈然としないところが強かったのだと思いますが、それと一部共通性もある報道がなされたのもPC遠隔操作事件でした。腑に落ちない割り切れなさもあって、より多くの情報を求めて時間を割き、そして自分なりに検証をしていました。

長野智子さんはテレビ報道番組の司会も勤めるような立場で、性格的にもジャーナリストの江川紹子さんとの違いは大きいと思いますが、事件の問題性に迫るアプローチというのは、どちらも感じるところでした。

長野智子さんについて詳しくはしらないですが、独立はしておらずテレビ朝日の社員という可能性があるかと思います。一方のジャーナリストの江川紹子さん場合は、フリーのジャーナリストして弁護士と同じく自営業なのではと考えられます。

ここで忘れられない事件を紹介しておきたいと思いますが、ある不可解な事件の真相を追った元警察官のジャーナリストがいました。事件の処理に対して警察の責任を追従し、私財まで投じていたようですが、事件の解決には至らず、自殺という巻切れになりました。

その人はツイッターもやっていましたが、亡くなった後もアカウントはそのまま残されているらしく、割と最近にもそのアカウントを見ることがありました。確かフォロー返しを受けていたと思います。

よくはわかっていないのですが、ツイッターでログインした状態で別のアカウントのページを開くと、自分をフォローしている共通のアカウントが複数のアイコンとして表示される仕組みになっているようです。そんな時にそのアカウントのアイコンが出てきて気が付きました。

あるいは自分がフォローしているのと共通のものが複数表示されるのかもしれないのですが、私の廣野秀樹(@hirono_hideki)のアカウントの場合、基本はフォロー返しによる相互フォローなので、完全ではないですがフォローしているアカウントとフォロワーは一致します。

その事件は岩手県の三陸海岸の地方都市を舞台にしていたと思いますが、事件の呼び名は画一していなかったように思います。批判の対象は宮古警察署だったように思いますが、事件そのものは東日本大震災の大津波の前のことで、事件の資料も津波で流され散逸したような情報も見ています。

その事件も福井女子中学生殺害事件の背景、特に人間関係に共通するような部分のあるものでした。私の事件も同じなのですが、その岩手の事件の方は福井の事件以上に真相の解明と解決は望めない感じなのですが、相違点もあるとはいえ、私にしてみれば他人ごとではない問題です。

真相を追っていたジャーナリストの人が亡くなってしまった以上、新たな情報が出てくることも難しいと思われ、記録化された資料というのも余り残ってはいないように思われます。

確かこの三陸岩手の事件も、テレビ朝日の番組で長野智子さんらが取り上げていましたが、もう何年前だったのかも思い出せなくなっています。番組の名前もはっきりしないのですが、あるいは「ザ・スクープ」だったかもしれません。

以前はジャーナリストの人の生活とか収入について深く考えることはなかったのですが、ジャーナリストの自殺となったその事件では、一部に取材に投資をやりすぎて経済的に行き詰まってしまったという話もあったかと思います。

警察にとって不都合な問題を追いかけまわしたことで殺されたのかもしれないという他殺説も、当初は出ていましたが、それは遺族の方が丁寧に否定されているのを見て、そういう憶測も消えていったという印象が残っています。

時期的に近かったようにも思いますが、ロス疑惑で無罪となった人物が、アメリカの方で再捜査を受けるようになり、警察署の留置場で死んだというニュースもありました。自殺という報道になっていたと思いますが、警察に殺されたという主張を強く訴える関係者もいたかと記憶にあります。

ロス疑惑といえば当時の大々的な報道を見ていたので記憶に残る事件の一つですが、弁護人のことを知るようになったのは、比較的最近のことで陸山会事件のあとであったように思います。

そういえば昨日あたりも、そのロス疑惑の弁護人の本のアマゾンのレビューなどを見ていました。ブログの記事にもしていると思います。と思ったのですが確認すろと記事にはしていなかったようです。

"2014k_9805","勝率ゼロへの挑戦-史上初の無罪はいかにして生まれたか-八田-隆 出版社からのコメント/","http://hirono2014k.wordpress.com/?p=9805" ←こちらは記事にしました。

上記の記事になっているアマゾンの書籍のレビューで、関連商品という感じで目にしたのが、ロス疑惑の弁護人に関する本でした。

刑事弁護の現状と沿革を知る上で、とても参考になる情報でもあるので、あとでもう一度調べなおして記事にしておこうと思います。弘中惇一郎弁護士のことです。

時刻は17時27分になっています。あと一時間もすれば自宅に戻っていると思いますが、この項目の主題にした国民審査に関する言及は不十分なもとのなり、他にそれることが多くなってしましました。絡みあうところもあるので、その辺りも別の機会に言及します。

ジャーナリストの江川紹子さんに関しては、本人の自覚はともかく、客観的に見て、裁判官にプレッシャーを与える目的が強いように思われます。もうひとつ前々から思っている重要な要素は、司法の批判や検証はしても、弁護士のそれはほとんどしないということです。

そういうことを問題にしている人も、たまたまなのか私としてはほとんど見かけることもないのですが、かなり不思議な現象とも思えるところです。

他の視点あるいは問題点に立脚したアプローチもあるので、この項目の問題はこれで締めようかと思います。そろそろ帰宅の支度にも取り掛かれなければならないし、歩いての帰宅の道すがら、他のテーマというか項目についても考えたいと思います。

<2014-12-17 水 17:39> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

  • 告訴事実
    ** 被告訴人木梨松嗣弁護士の犯罪性と厳重なる捜査の必要について
    *** 添付資料 H04-10-26_事前準備書_私選弁護人木梨松嗣弁護士について
    一件記録・写真/H04-10-26_事前準備書_私選弁護人木梨松嗣弁護士 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム http://bit.ly/18vw85u
    **** 添付資料 H04-10-26_事前準備書_私選弁護人木梨松嗣弁護士_01.jpg について 2013年7月13日
    ファイルはDVDとして提出しますが、インターナット上でも次のURLでご覧になれると思います。H04-10-26_事前準備書_私選弁護人木梨松嗣弁護士 http://ow.ly/mUtVP 拡張子にjpgもしくはjpegとあるものは、そのまま写真画像のファイル名です。

この写真はもともとだいぶん前に撮影したものだと思います。写りがあまりよくないですが、平成4年10月26日と弁護人 木梨松嗣、という文字が読み取れます。事前準備書の表題部です。

**** 添付資料 H04-10-26_事前準備書_私選弁護人木梨松嗣弁護士_02.jpg について 2013年7月13日
同じく次のURLからご覧になれると思います。H04-10-26_事前準備書_私選弁護人木梨松嗣弁護士 http://ow.ly/mUvoT

どうも不都合があるみたいなので、新規アルバムで同じファイルをアップロードし直しました。→ 一件記録・写真/H04-10-26_事前準備書_私選弁護人木梨松嗣弁護士 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム http://ow.ly/mUHp4

**** 添付資料 H04-10-26_事前準備書_私選弁護人木梨松嗣弁護士_02.jpg について 2013年7月17日
H04-10-26_事前準備書_私選弁護人木梨松嗣弁護士_02.jpg | 非常上告-最高検察庁御中_Blogger http://bit.ly/12U0g2D

上記URLでWebで閲覧できますが、今回から方法を変えました。これまでは直接、GoogleウェブアルバムのURLを短縮URLにしたものを使っていましたが、これだとファイル名がわかりづらい。httpsのためか短縮URLに登録できない場面があるという問題がありました。

そこでGoogleウェブアルバムの写真のページをリンクに同じGoogleのサービスであるBloggerのブログに、リンクを記事として投稿することにしました。写真・画像のファイル名をそのまま記事のタイトル名にしました。

書面の全体はPicasaウェブアルバムのページで右上の方にあるアルバム名のリンクを開くことで一覧を開くことが出来ます。これは写真2枚ですが、内容はB5サイズの紙3枚です。当時はB4サイズを袋とじにしたものが裁判所に提出する決まりでした。現在はA4になっているはずです。

この事前準備書と題する書面は日付が平成4年10月26日になっています。一審の金沢地方裁判所の判決があったのが同年8月3日。控訴審の私選弁護人となった木梨松嗣弁護士と始めて接見したのは8月17日頃だったと思います。選任の経緯などはのちほど詳しく述べます。

この書面は木梨松嗣弁護士から郵送で拘置所の方にも差し入れがあったと思います。事前の打ち合わせのようなものはなかったと思いますので、精神鑑定の問題にされていることを知ったのも、この書面を見たのが初めてであった可能性が高いです。

精神鑑定について、当時拘置所の独居房にいた私には手持ちの辞書で単語を調べるぐらいしか知識がありませんでした。これより後になるのではと思いますが、「犯罪精神医学」という専門書を母親に差し入れてもたったことがあります。今、この本を探したのですが、簡単には見つかりませんでした。

調べたところこの本は現在でもAmazonにあるみたいです。この情報では発売日が1987/10になっていました。→ Amazon.co.jp: 犯罪精神医学: 中田 修: 本 http://amzn.to/13hPuXc

かわりに発見がありました。控訴審にはいって早い段階から私は手紙で母に法律の勉強をしたいので本を差し入れて欲しいと何度もお願いをしていました。ようやく差し入れてもらった本の一冊らしいものを見つけたのです。

あいまいになった記憶ですが、法律に関するとても初歩的な本が2冊ほどと、小六法があったと思います。数ヶ月後になると思いますが、標準六法というよりコンパクトなサイズのものも差し入れられた記憶があります。

差し入れの方法は面会の時と、郵送があったと思いますが、どちらも手元に来るまでは願箋という手続きと数日の時間が必要になります。私本閲読許可ということになるのですが、本の最後のページに許可証が貼り付けられ、期間が印字されています。

確か閲読許可の期間は月刊誌・単行本で一月、学習用の許可が出たもので3ヶ月、辞書が6ヶ月だったと思います。これらは同時に所持できる冊数にもなりますが、ぜんぶひっくるめて10冊ぐらいではなかったかと思います。

私本交換というのもあったので、交換しながらもう少し多い本を読めたような気もしますが、細かいことは憶えておらず、時代と施設ごとの違いもあるかと思います。学習用の許可が出ると延長も出来たと思います。その都度、許可証が上に貼り付けられていきます。

今日発見したのは次の本だと思います。自分のものは明日香出版社に。→ Amazon.co.jp: 法律のしくみが「3時間」でわかる事典 (アスカビジネス): 堀越 孝, 大野 寿三枝: 本 http://amzn.to/13sZQ2a

写真をアップロードしました。→ 一件記録・写真/その他/法律のしくみが3時間でわかる事典 | 非常上告-最高検察庁御中_Blogger http://bit.ly/14bGyVn

今回は写真ではなくアルバムに対するリンクを使いました。法律のしくみが3時間でわかる事典_2013年7月17日撮影_3.jpgに私本閲読許可証を接写したものがあります。冊数外というのは学習用や辞書のことだと思います。基本的に一度に房内で所持できるのは3冊でした。

期間が半年になっているみたいです。当時同じ金沢刑務所の拘置所で所持していた国語辞典を確認したのですが期間が1年間になっていました。すると学習用は3ヶ月ではなく半年の期間であったことになるかと思います。

平成4年の9月30日に許可が出たことになるかと思います。同日に房内で所持することになった可能性が高いですが、9月の最後の日であり、思っていたよりかなり遅かったです。よく考えてみると小六法の差し入れは、これより前の機会であったかもしれません。

あるいは、小六法の差し入れのあと、この「法律のしくみが3時間でわかる事典」らと一緒に差し入れされたのが標準六法だったかもしれません。どちらの六法も内容的に大差はない感じでしたが、標準の方はかなりのコンパクトサイズでした。

どちらも捨てた憶えはないので、探せば家のどこかで見つかるかもしれません。重要なのは本そのもの存在より閲読許可証に記載された期間の日付です。

ひとつ気になるのは居室という項目に「3−6」の見える手書きの記載があることです。とここまで書いて気がついたのですが、これは金沢刑務所の閲読許可証ではなく福井刑務所のものです。よく見ると期間も平成6年になっているようです。

「3−6」というのは建物の3階を意味すると思ったのですが、自分が金沢刑務所の拘置所でいたのは全て2階の独居房でした。次に気がついたのは139という称呼番号です。平成4年に金沢刑務所の拘置所にいたときの番号は57番だったからです。

福井刑務所の場合、受刑者の居住区は南寮と北寮という建物があり、南寮は全て雑居房、北寮は全て独居房というわかりやすいことになっていました。確かに3階の6号室あたりの雑居房にいました。平成6年の11月の10日頃までの半年ぐらいの間です。

ここで気になるのがなぜ、福井刑務所で受刑中にこのような極めて初歩的な法律の本が差し入れされたかということです。他にも感じていたことですが母親が誰かの相談や指示を受けて、差し入れを行っていたということです。

ここでまた別の発見がありました。「新法律学辞典」という古い本のことです。これも福井刑務所にいるときに母親から差し入れのあったものです。今確認すると、昭和43年6月20日の新版になっていました。ここまで古いものとは、今まで気がつかずに来たようにも思います。

我妻栄が編集代表者にもなっていました。知る人ぞ知る史上最も権威と知名度のある民法学者ではないかと思います。辞典と書いてあるだけあって相当な分量ですが、福井刑務所にいるとき、これの全てを読んだような記憶もあります。まんべんなく全体的な知識を身につけておこうと思いました。

それだけ情報の収集が難し時代と、刑務所という制約の大きな環境でしたが、当時は現在ほど怠惰でもなかったです。コンピュータの活用も福井刑務所に移送される前に母親にパソコンに関する本の差し入れを頼んでいました。

撮影した写真をアップロードしました。→ 一件記録・写真/その他/新法律学辞典 | 非常上告-最高検察庁御中_Blogger http://bit.ly/1924Y5z

ファイル名: 新法律学辞典_2013年7月17日撮影_16.jpgをみると平成6年8月23日に初めて手元に入ったようです。南寮3階6室と当時雑居房にいたことも確認できます。自分の記憶では11月の10日頃に独居房に移り出所まで独居房の生活でした。

独居房に移ることになったのは損害賠償の民事裁判を被害者から起こされ、郵送されてきた書面を房内所持するためでした。金沢地方裁判所の民事部から郵送されてきたものであったと思いますが、元々は原告代理人の長谷川紘之弁護士の提出のものかと思います。

独居房に移ると、ちょうど銭湯によく置いてある脱衣所のプラスチック製の長方形の網かごに、それをちょうど満たすような分量の書面を受け取ることになりました。長くて一週間後ぐらいだったと思いますが、次は木梨松嗣弁護士から記録が郵送されてきました。

これも木梨松嗣弁護士が直接郵送してきたものではなく、母親のところに送られてきたものを母親が送ってくれたというかたちでしたが、木梨松嗣弁護士から送られてきたのでそちらに送ったというような簡単な説明しか受けることがなかったです。

*** 被告訴人である私選弁護人木梨松嗣弁護士選任の経緯について
**** 被告訴人である私選弁護人木梨松嗣弁護士選任の経緯について 2013年7月18日
はじめに母親から私選弁護人をつけるように薦められていたのは、まだ金沢西警察署の留置場にいる頃でした。京都の親戚の人が費用を工面してくれるのでお金の心配はいらないとも話していたと思います。それを断って国選でいいと言っていました。

なぜ国選にこだわったかというと、自分の事件のことを誰よりも知るのは被害者の家族だし、保身のために余計なお金を掛けるつもりかと受け止められると、ただでさえ決定的に悪くなった印象をさらに悪化させてしまうことをおそれたからです。

しかし、それほど深く考えていたわけでもなく、ただただ当時は金沢西警察署出頭直後の緊急搬送時に意識を失い、意識不明で植物人間になるかもしれない状態になっていると聞く被害者の容体の回復ばかりを考えていました。

刑事裁判や弁護士の役割に関する知識もほとんどなかったです。平成4年当時というのはパソコンすら個人的なものとして普及はしておらず、携帯電話も最近になって会社に一台導入した、という話を聞く程度でした。現物もみましたが、ずいぶんと大型なものだったと記憶しています。

長距離トラックの運転手をしていたこともありテレビを観る機会も少なく、弁護士が出てくるような裁判もののドラマを観ることは皆無ではないものの、かなり少なかったかと思います。

それでも鮮魚や青果の長距離輸送という仕事柄、現地に泊まり込んで時間を潰すことも多かったので、コンビニにおいてあるような週刊誌はよく読んでいました。泊まると言ってもほとんどの場合は、トラックの中で寝ていました。九州や東北が多かったです。

そんな週刊誌のなかが多かったように思いますが、弁護士と言えば悪徳弁護士という言葉をよく覚えていました。そういうイメージも少なからず影響はしていたと思います。何よりも被害者家族の理解を得ること、これが唯一の最善の道だと考え、疑いを持つこともなかったです。

**** 被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年8月28日
被告訴人OKNとは小学校時代からの友人のひとりでしたが、小学校低学年あるいは幼稚園の頃から中学生の頃の関係は、一時的にしばらくの間つきあいが続いたという感じでした。他に色々友達がいたのと部活で忙しい時期もあったので、いわば気まぐれな関係で特に親しいわけでもなかったです。

それでも中学生の頃は、何度か泊まりがけで彼の家で一緒に徹夜の勉強をしたり、グループみたいな多数でしょうちゅう彼の家に遊びに行くことも多かったです。彼の家はだいぶん前に取り壊しになっていますが、当時の面影というものも現在はほとんどなくなっていると感じます。

初めに共同生活も多いいわば身内のような関係になったのは彼の兄の被告訴人OSNの方でした。昭和56年の6月頃からのことです。そういう関係は昭和58年の夏頃ぐらいまで続きましたが、暴力団を巻き込んだトラブルのようなこともあり、疎遠にはならなかったものの会うことは減っていきました。

同じ暴走族でリーダー格だった被告訴人OSNがほとんど断りもなしに暴力団員との関係を結んだのが離散の原因だったのですが、当時私は金沢市の浅野本町に住んでいたこともあり、知らないこと知らされていないことも多かったと思います。浅野本町にいたのも短い期間でした。

印象的に憶えているのはその浅野本町のアパートで就寝中に起こされたところ、部屋一杯に特攻服の少年が集まっていたことです。そこで被告訴人OSNから、特攻服を持っているかといわれ、ここにはないと答えると、そのまま踵を返して帰って行きました。声を発したのも彼一人だったと思います。

起きてからも夜中の出来事が夢か現か確信が持てませんでした。少し前まで彼も金沢市内の自動車修理工場に住み込みで働いていたのですが、それをやめ、宇出津の家の自動車修理工場の仕事を手伝っていた頃です。どちらも規模は小さかったですが、彼ら兄弟の家は自動車修理工場とプロパンガスの販売

をやっていました。昼休みの時か、仕事をしているはずの被告訴人OSNのところに電話を掛けたところ、夜中のことは本当のことで金沢刑務所でヤクザの出所祝いに参列してきたと聞きました。

今思えば、この夜中のことが原因だったのかもしれないですが、アパートから徒歩1分もなかったような近場の、勤める小さな自動車修理工場の主人から暴走族をやめるか工場をやめるか決断を迫られ、工場をやめてアパートを引き払い、宇出津に戻ることになったのです。

浅野本町から宇出津に戻ったのは昭和57年の4月頃だったと思いますが、あるいはまだ3月中だったのかもしれません。私は一度も出所祝いに行ったことはなかったのですが仲間の話では3,4回あったような話も聞いたように憶えています。かなり短期間に集中したような話でしたが記憶に自信はないです。

もともと暴力団やヤクザに対しては拒絶性の高い地域性でもありました。被告訴人OSNの同級生で兄弟分ともいう関係の被告訴人HTNも金沢市で暴力団組員であった時期、一度も地元には帰られなかったとも聞いていました。

被告訴人HTNは同じ高校の一つ先輩でもありましたが、2年生に進学してまもなく退学処分となり、すぐに金沢市に出てガソリンスタンドの店員として働いたものの、まもなくある問題で暴力団員になったと聞いていました。

被告訴人は学業に専念していて退学は実に不本意なものであったと聞いています。同じく暴力団組員になったのも不本意な成り行きであったと聞いていますが、プライバシーの問題でもあるので、ここでは書かないです。事実関係で必要な範囲最低限のことを書いています。

被告訴人HTNが退学になったのは昭和55年の5月か6月だと思います。春の遠足が赤崎海岸であり、それが退学の原因にもなりました。被告訴人KYNは私の同級生で当時クラスメートでしたが、彼も同じ問題で停学処分を受けていたと思います。処分者は25人ぐらいいたようにも聞いた憶えがあります。

はっきりしたことは分かりませんが被告訴人HTNが暴力団員になったのは昭和55年の夏から秋頃ではと思います。当時未成年者でしたが、何か組の若頭のような立場になったようなこととも聞き、その界隈で相当の顔役になっているような話も聞きましたが、直接会うことは少なかったです。

昭和56年の秋、金沢市入江のアパートに被告訴人HTNが姿を見せたことは憶えているのですが、たまたまその場に被告訴人YSNがいたような気もするのですがこれは現在記憶がはっきりしなくなっています。女友達が鍵を預かっているという服役中の暴力団員のアパートと聞いた憶えがあります。

被告訴人YSNは私より二つ年上でした。彼も同じ能都町(現在の能登町の一部)でしたが鵜川という地区で中学校も違っていました。石川県立水産高校の漁業科で卒業しているはずです。水産高校は宇出津にありますが現在は能登高校になっています。

被告訴人OSNも水産高校に入学しましたがすぐに中退したと聞いています。当時のOSNの家は大きなたまり場になっていましたが、OSNも出入りしていたと聞いています。O兄弟の家は旅館のような大きな家で、私より二つ年下の妹もリーダー的な存在で、人の出入りがとても多い24時間営業の

旅館のような家で、とても開放的でもありました。中学時代の被告訴人OKNは、学業と極真空手に専念し兄に反発、軽蔑するような一面が強くありました。趣味と方向性を同じくするようになったのは昭和56年の夏頃かと思います。元はといえば余り仲の良い兄弟ではなく、

すぐにうち解けた訳でもなかったかと思います。昭和56年の8月28日の早朝、シンナーの吸引とかで金沢中警察署に補導されたのですが、前夜にたまたま遊びに来ていたOKNは当時、金沢高校の学生で、この補導の件で退学処分になったと聞きます。男女13人の補導で新聞にも大きく出ていました。

13人中、私とOSNを含めた少年4人と少女1人が、金沢中警察署で取り調べを受けた後、家庭裁判所に連れて行かれ、そのまま小立野の金沢少年鑑別所に入りました。私が試験観察の処分を受け鑑別所を出たのは9月の23日ぐらいではと思います。26日か28日いたはずですが、長く感じられました。

試験観察にはなりましたが割と早く3ヶ月か長くて半年ぐらいで不処分となり保護観察を受けることはなかったです。OKNの方は保護観察がかなり長い間続いていたような憶えがあり、19歳の頃まで続いていたような気もするのですが、これも記憶がややあいまいになっています。補導時は16歳でした。

その試験観察中、家裁の調査官に会うため七尾市の家裁に行ったとき、待合室でYSNと会うことがありました。その時すいぶんと不健康そうな様子に見えたのですが、それからまもなくシンナーを吸引中発狂して金沢の精神病院に入院したと聞きました。

YSNはその後も精神病院に入ったことが原因で、かっての仲間内から疎遠にされるようになり、孤独を感じている様子にも見えました。単に精神病院に入っただけではなく、いきなり他人の家に駆け込んで就寝中の婦人の首を締め上げたという、話も大きく、周囲に危機感を与えていたのかもしれません。

首を絞められたという婦人の夫は、仲間内の離散にもなった暴力団員の舎弟と聞く人物でした。会った機会もあったので顔はよく覚えていたのですが、当時金沢市西念町にあった金沢市場輸送の社長室から出てくる姿を見たことがありました。昭和61年の秋だったような気もするのですが、

現在時期ははっきり思い出せないです。暴力団員の舎弟というあいまいな表現になりましたが、同じ正式な組員であると聞いていました。なお、出所祝い用に支給されたと聞く特攻服には「福島組」という当時石川県内最大勢力とも言われた組の名前の刺繍がありました。自分は支給を受けていないです。

関係者のプライバシーのこともありここでは細かく書かないですが、YSNが飛び込んだ家で婦人の首を絞めた件と、OSNの間には別の接点もありました。大怪我をしたような話は聞いていないです。飛び出した後、「カラスが鳴いている」などと口走ったか叫んだとは聞きましたが、真偽の程は不明です。

昭和57年の1月頃かと思いますが、同級生の友達と3人で、金沢市小立野の精神病院にYSNの面会に行ったこともありました。一人が弟だと嘘を言ったのですが閉鎖病棟に簡単に入れてくれました。YSNは正常だと訴えていましたが、言動には異常性が感じられ、独房でお仕置きを受けることもあるなど、

不遇というか不満を訴えていました。彼との長いつきあいで、言動に異常性を感じたのはその時ぐらいで、さほどの問題もなく社会生活を送っていたようです。時にやることが大胆でどうかと思うことはあり、車の運転に同乗していて身の危険を感じたこともありました。

彼が初めに精神病院に入院したのは昭和56年の12月ではないかと推定されます。その少し前、珠洲市飯田のシーサイドの通りの急カーブで自分の所有するブルーバード510を横転させ、横転直後の静寂を破り、突如、「ギンギラギンにさりげなく、それが俺の生き方」などと当時の流行歌を歌い出した、

とも聞いています。恐怖体験のように同乗していたという一つ年上の女の人から聞きました。OSNとも関係性の強い女の人です。夫妻そろってOSNとは強い結びつきがあり、自分も親しくしていて、金沢でもアパートに遊びにいくことがありました。

彼女にはとても親しい同級生の女の人がいて、いつも一緒にいることが多かったです。当時は未成年者の少女で年も一つだけ年上でしたが、姉御肌のような一面もあり、ずいぶんしっかりした大人の人というイメージが残っています。

二人の女性に最後に会ったのは平成3年の12月21日の夜でした。被告訴人HTNに連れて行かれた金沢市の繁華街、片町のスナックのような飲み屋でした。片町に来て、最初に入ったのがその店だったような気もするのですが、現在細かいことは思い出せなくなっています。

その夜、HTNに連れられて4軒の店に行ったと思います。一つは旧大和デパートの裏側辺りの場所で、屋台が集まるような場所になっていました。観光都市の金沢は屋台が禁止になっているとも聞いていたのですが、博多の中洲を思い起こすような雰囲気もあり、屋台と言うよりは建物がしっかり固定

されている感じで仮設の店舗という感じでした。順番としてはその屋台のような店が2軒目で、3軒目が同じスクランブル交差点より内側の一角で余り大きくないビルの上の方にあるスナックのような店でした。ここには事前に連絡を受けていた被告訴人OSNも姿を見せたと思います。もう一人同伴者の人

がいたような気がします。同じ宇出津の5,6歳以上年の離れた人で名前はよく聞く知られた人でした。以前別の先輩の車で軟禁状態に巻き込まれた記憶もある人物と記憶していますが、その時とは別人のような雰囲気で、おとなしくお酒を楽しんでいるという感じだったと思います。
かなり年の離れた人で6歳ぐらいは年上だったと思いますが、今思えば宇出津のKという人物と年も同じぐらいで、つきあいがあったのかもしれません。宇出津のKという人は今でも名前を覚えていますが、感じの一部が河なのか川なのかは不明のままです。一見するとおとなしい人物ではありました。

しかし被告訴人OKNと同じく上昇志向が人一倍強い商売人タイプの人でもあったようです。これは被告訴人HTNにも通じるところがあり、気の合うところであったと思います。被告訴人OSNも金銭欲は強い方だったと思いますが、義理人情を大事にこだわるようなところも強かったと思います。

はじめに宇出津のKの話を聞くようになったのは昭和63年の春か夏頃かと思います。この辺りは今一度記憶の整理が必要なのですが、とりあえずそういう時期の設定にしておきます。能都町姫のNという先輩と二人で、魚の行商のようなことをやっているとOKNが私に話していました。宇出津のKという

人物は私としては全く心当たりのない人物だったのですが、なにか知っていることを仮の前提にしたというか当たりを窺うような調子で話をしているようにも見えたのが少し印象に残っていました。突っ込んだ言い方をすれば、探りを入れて反応を窺っているような不自然さもなくはなかったのです。

姫のNはよく知る人物でした。直接の友人という関係ではなかったですが、共通の友人が多く、一緒に遊び、行動する機会が多かったからです。それだけ彼が遊び回り車を乗り回していたということもあるのですが、スカイラインのジャパンにはよく同乗させてもらっていました。

姫のNは、昭和56年12月頃と思われる頃、YSNがシンナー遊びで発狂したとき一緒にいたと聞く全部で4人のうちの一人であるとも聞いていたように思います。なお、YSNは松波駅付近で保護され、後日本人から聞いた話だと一週間ほど昏睡状態で生死の境をさまよっていたそうです。

**** 被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年8月29日
さきほどGoogleマップで地図を作りました。→ 金沢市場輸送と市場急配センターに関する地図 https://mapsengine.google.com/map/edit?gl=jp&mid=zW8zvRyoSBg4.kL7nxxt6orVw

私が金沢市場輸送に初めに入社したのは昭和59年の1月のことでした。同じ宇出津の先輩が大型車に乗務しているので、採用してくれるかどうかきいてみればどうかと周囲にすすめられたのも動機でした。いきなり電話で面接を申し込んだように思いますが、職安に求人があったので職安を通したという

可能性もあるかと思います。いずれにせよ簡単に採用が決まり、4トン車に乗務することが決まりましたが、一月近くか比較的長い間、免許取り消し中だった先輩運転手を同乗させていました。当時はほとんどが長距離の仕事で、大型車より少し4トン車の方が多いぐらいだったと思います。

当時は運転手の出入りも多かったと記憶しています。私が初めに紹介したのが被告訴人OKNでした。彼はその年の春先ぐらいに、それまで住んでいた東京を引き払い石川県の方に戻ってきていました。細かいことは憶えていないですが、仕事をするようになったのは4月に入ってからではと思います。

一緒に仕事をするようになって一月もするかしないうちに、一緒にアパートを借りて住むことになりました。割とすぐに物件も決まり、住むようになったのが金沢市東力2丁目のアパートでした。これは現在でも私の本籍地になっているのではと思います。家賃は折半という約束だったと思いますが、

借り主の名義は私になっていました。平成4年の4月1日事件当日まだ住んでいたアパートで、次の土曜日に被告訴人OKN、被告訴人KYNが手伝ってくれると言うことで引っ越しも決まっていたアパートでした。新しいワンルームのマンションの契約で入居が出来るようになったのも4月1日当日でした。

元からいた宇出津の先輩はOKNが入社した頃やめていたか、入社してまもなくやめていました。当時の大型車の仕事は、一度出るとなかなか帰ってこないものがあったので、顔を合わせる機会というのも少なかったです。半年に一度ということもあると聞いていたように思います。

当時の大型車の仕事はいわゆるエサというものが多かったと聞いています。主に宮城県の石巻港から冷凍の小魚を満載にし、片道一週間ぐらい掛けて鹿児島や宮崎県など南九州のハマチの養殖場まで運ぶという仕事でした。私は時代が変わってから大型車に乗務するようになったのでやったことはなかったです。

後に金沢市場輸送の社長となった被告訴人MTKも当時は大型車の運転手でした。そして平成2年の秋頃に金沢市場輸送に現れ、策士参謀役を務めた可能性の高い七尾市の被告訴人TYNと出会い、親しくなったというのも、そのエサの運ぶ、大型フェリーの船内であったと、MTKは話していました。

宇出津の先輩ですが年は私より5つぐらい上だったと思います。それぐらい学年が離れると知らない人ばかりでしたが、名前の方は先輩たちの会話などからよく耳にしていました。その後、中西水産輸送でも一緒になりましたが、私が入ってすぐにやめていきました。

話が少し飛びますが、私が中西水産輸送に初めに入社したのは昭和59年の12月の下旬でした。年末に社長の家で忘年会があり、その席には宇出津の先輩の姿がありましたが、年が変わるとそのまま出てこなかったような気もします。先輩とはその後もたまに顔を合わすことがあり木材の運搬もやってました。

確か4月の下旬から半月か長くて一月ぐらいの間であったと思いますが、午後に開かれる競りで金沢の中央市場から筍を運ぶ仕事がありました。東北の酒田と仙台、新潟県内と東京都内の行き先が多かったと思います。後には四国の缶詰工場にも運ぶことがけっこうありました。忙しい時期です。

次に6月から7月の初め頃ではなかったかと思いますが、金沢港から昼にスルメイカを運ぶ仕事が集中してありました。これも東北の酒田や仙台、東京、名古屋も多かったです。被告訴人OKNの兄、被告訴人OSNが金沢市場輸送に入社したのも、その金沢港の仕事が忙しい時期であったと思います。

かたちの上ではOSNも私の紹介ということになったいたようです。社長の夫人に感謝され、中身のことは憶えていないですが、少しお札の入った封筒のようなものをもらったような記憶も残っています。

書いているうちに思い出したのですが、被告訴人OSNが名古屋市内で街路樹に正面から激突し、4トン車を大破させたという話がありました。車体自体は廃車という話だったと思いますが、保冷車の箱の方はどうなったのかまで記憶にはありません。

当時はまだ保冷車の多い時代でしたが、その後平成ぐらいになると同じ保冷車でも冷凍機付きでないと仕事にならないような時代になっていたと思います。細かいことは記憶にないですが、車体と保冷の箱(荷台)は同じぐらいの値段だと聞いていたように思います。

会社としても相応の損害は出たものと考えるのが普通で、他の人の事故であればはるかに些細なものでも大騒ぎしていたと思うのですが、社長夫妻が何食わぬ顔の上機嫌のままで、社内でさほど話題にならなかったというのも不思議と言えば、不思議でした。OSNに危険なものを感じ刺激したくなかった、

という可能性はあると思いますし、実際に当時はそういう解釈で済ませたと記憶しています。弟の被告訴人OKNの方も、似ていると言えば似たようなことがありました。仕事外の問題になりますが、どうも職務上の災害のような扱いで、うまく処理をしてもらったように見えました。
怪我というのは地元、宇出津のあばれ祭りでのことです。現在は7月の第一、金土曜日になっていますが、当時は毎年7月7日と8日に決まっていました。私は仕事を休まず宇出津にも帰らなかったので、詳しいことは知らないのですが、キリコを担いでいて腰を痛めたという話でした。
担いでいたキリコは宇出津の城野町のキリコであったとは聞いたように憶えています。彼の家の町内は、当時はまだ大橋組にいたと思うのですが、あるいはすでに音羽町の家に移っていたかもしれません。

その宇出津のあばれ祭りが終わった頃、私は一週間ほどの運行で、北海道の根室市花咲港まで行っていました。急な仕事の入り方だったような気もするので、あるいはOKNの怪我のことを知ったのも、北海道から帰ってきた後であったかもしれません。

まあ、次に合ったとき被告訴人OKNが会社にも近い、金石街道の中央市場入り口交差点付近の波多野整形外科という病院に入院していたことは間違いないと思います。今考えると、宇出津で怪我をしたのに金沢の病院まで、どうやって行ったのかという気もします。

彼が痛めたというのは腰でした。二度と立ち上がれないかもしれないと医者に言われたようなことをこの時も言っていたように憶えています。彼の場合、それがあながち嘘とは思えない事情もありました。というのも中学生の時、彼は能都中学校の古い第二体育館の天井裏で遊んでいたところ、

天井が抜けて乗っていた板ごと下に落ちたと聞いています。板に乗ったまま落ちたのが幸いしたものの腰の骨が折れ、二度と立ち上がれない可能性もあるというような話でした。まあ、入院していた病院が宇出津の持木病院だったので、それほど深刻な大怪我でもないだろうという思いもありました。

持木病院は学校の通学路のようなものでもあったので、数人の友人とよく病室に見舞いに行っていたことも憶えています。半年ぐらいの入院という話を聞いたような気もするのですが、留年もしていないですし、3ヶ月ぐらいの入院ではなかったかと思います。

波多田整形外科に入院していたのは一月ぐらいではなかったかと思います。いつの間にか退院していて遊び回っていました。金沢市場輸送に復帰することもなく、自然消滅のようなかたちで会社を辞めたはずですが、さほど話題にもならなかったと記憶しています。

私は当時、黄色い色のトヨタカリーナ1600GTという車に乗っていたのですが、その年の春ぐらいかに60万円か70万円ぐらいで買ったものでした。ローンの組み替えをやったのでローン自体は150万円ぐらいでした。ボーナスなしの3年払いで月の支払いが5万7千円ぐらいだったような記憶もあります。

3台分の車のローンでした。長距離の仕事をしていたので車に乗る機会は少なかったです。それで頼まれて被告訴人OKNに車を貸していたのですが、ある日、事故を起こして廃車にしたので、これで許してくれと現金10万円を渡されたことがありました。

それはちょうど金沢市場輸送をやめた頃で、入社したのと同じ昭和59年の10月の中頃のことでした。ちょっとした事故処理のことで事務員ともめ、机を蹴飛ばしたことなど憶えているのですが、翌日から2,3日、出社しても社長らから無視され、そのまま行かなくなると言うやめ方でした。

はっきりいって、仕事と勤務態度の評価はすこぶる悪かったです。トラックの運転も暴走族の延長のようなつもりでやっていたということもありますが、サンダル履きで保冷車の中で魚を積む仕事をしたりしていました。まあ、それがかえって、別人のようによくなったという高評価にもつながったようです。

2度目の入社は昭和61年の8月でした。このいきさつも被告訴人YSNが絡んでいました。本来ならば9月から12月ぐらいの間、ライスセンターの仕事をするという条件で、その年の6月頃から岐阜県の海津町に行っていました。工務店の仕事で、ナマズがいるという川の草刈りも多かったです。

一種の出稼ぎですが仕切っていたのは珠洲市の当時45歳ぐらいの人でした。YSNは珠洲市の人間との付き合いもあり、その関係でライスセンターの仕事をするようになっていました。3ヶ月ほどの期間で110万円ぐらいのまとまった収入になり、その後出稼ぎ手帳で失業保険ももらえる、

という話でした。結局人数の調整がつかなくなったとかで、新参の私が外されることになったのですが、YSNは条件が違うといい、強く掛け合ってはくれていました。元々は3人で平屋の集会場のような家に住んでいたのですが、ライスセンターの仕事が近づく、他の参加者も珠洲から集まってきた頃

でした。岐阜から金沢に戻ってきたのは8月20日頃だったと思います。そのまま居座れば、ライスセンターの仕事に参加させてもらえていたのかもしれないですが、とにかく夜中に車を運転して帰ってきたことを憶えています。

それで金沢に戻って2,3日した頃に、ふと思い出して金沢市場輸送に使ってくれないかと電話を掛けたのです。岐阜に行くことになったのも120日と90日の免許停止を一度に受けたことが原因の一つでした。岐阜に行ったのは免停開けの直後だったとも思います。

たしか翌年の1月か2月まで、交通違反がなければ免許点数の15点が満額戻るという計算が大きいものでした。普通免許取得から3年でいよいよ念願の大型免許が取得できるという時期にもなっていました。

金沢市場輸送が支配配達の仕事を始めていると言うことも人伝に聞いていました。昭和60年のはずなので、今考えるとちょうど一年前ということにもなりそうですが、YSNが金沢市場輸送で市内配達を仕事をしていると、誰かの話で聞くことがあり、当時乗務していた中西水産輸送の9200の4トン車で、

午後に金沢市場輸送の会社の前に行き、トラックに乗ったままクラクションを鳴らし、2階にある事務所の窓から顔を出した人に、YSNのことを尋ねたところ、先日岐阜に仕事に行くということで、会社を辞めたばかりだと言われました。

ライスセンターの仕事というのは12月の10日過ぎまで、と聞いていたと思います。この仕事が終わると、YSNが私の東力のアパートにちょくちょく顔を出すようになっていました。なぜ金沢市場輸送に入社したのかも気になっていたので尋ねたはずですが、多くを語らず要領を得た回答はなかったと

思います。このあたりのことも引っ掛かりがありました。当時彼は、珠洲の友達が暴力団員になったという話もよくしていたと思います。フルネームは忘れましたが、呼び名と思われる下の名前は今も覚えています。先程のライスセンターの45歳ぐらいの人も上の名前は覚えています。

そのヤクザになったとか言う珠洲の友人の借り物だったと思いますが、フェアレディZという車に乗って遊びに来ることが多く、そのあとカマロというアメ車にも乗ってきていたと思います。ヤクザになってずいぶん人が変わったと感心するように繰り返し話していました。

当時は余り気にもとめずに聞いていたのですが、そのあたりの人間関係も、その後のYSNの仕事や生活に影響を与えていたことも考えられます。こまかいことは思い出せないですが、その後のYSNは片町でバーテンの仕事をするようになっていました。

なお、中西水産輸送というのは運転手の社員が所属する会社で、会社自体は配車の手配をメインとするような営業形態で、社名も中西運輸商となっていました。佐川急便の広島・九州便が主な仕事でしたが、もとは白ナンバーで冷凍物や魚を運ぶ仕事をしていました。

金沢市場輸送の社長は昔、中西運輸商の社長を助けてやったことがあるとも話していましたが、もともと話していることの真偽がとりとめもなく不明な人物でした。中西運輸商の評判は悪かったです。運転手を酷使しペナルティを含め過大の負担をかけることでも有名でしたが、噂を知った上で、

あえて飛び込んだ会社であり、鍛えられた面も強かったです。いろいろと未熟さもあったと思いますが、生死の危険も日常のようなことがっりました。仕事の少ない暇な時期もあったり、行きたいというと北海道の仕事をとって行かせてくれることもありました。

人の出入りの激しい会社でもあり、たいはんの社員は九州各地の人でした。その方が自宅に帰れる機会が多いとも言われていました。自分の場合、当時は4トン車だったので仕事の内容も大型車の人とは違っていました。4トン車は少数でした。

被告訴人との関係が最も密であったのは昭和58年のことです。同年の8月の終わり頃から11月の10日頃まで、金沢市観音堂の彼のアパートに居候し、食事などの面倒もほとんど彼にみてもらっていました。一日一食で、280円ぐらいの唐揚げかのり弁当、それに100円のうどんを一杯、というような

生活でもありました。実際、倒れて病院に行き、栄養失調と診断された少女もいたと聞いています。ちょっと変わった古い長屋のようなアパートでしたが、4室が、仲間同士のようなアパートでもありました。たまり場のアパートで、沢山の少年少女が出入りしていました。

当時は私も11月の誕生日前で18歳でしたが、二つ年上で12月生まれというYSNは、20歳になっていたことになりそうです。向かい合った奥の方の部屋には、同じく二つ年上の珠洲のYが住んでいました。その部屋にもよく遊びに行っていたのですが、そこによく女の子と遊びにきていたのが、

河北郡内灘町のUという男でした。年は同じでした。思えば、このUという男との出会いが、そののち被告訴人OKNの人生を方向付けたともいえるかもしれないです。偶然という要素も絡んでいたとは思いますが。

書いているうちに、10年以上ぶりにふと思い出したことがあります。Uとの再会が、いろいろな人間との出会いにつながったのですが、そのうちの一人にOYという男がいました。私は次第に距離をおくようになっていたこともあり、付き合いや会う機会も少なかったのですが、確か平成元年か2年頃、

片町を舞台にした違法薬物の摘発があり、それにOYが関与していたような話を聞いたと思います。新聞で名前を見たような記憶もありますが、10年以上忘れていたことでもあり、余りはっきりとは思い出せないです。下の方の名前も思い出しましたが、憶えやすい名前なのでたぶん間違っては

いないと思います。思い出せないのはそのOYとよく一緒にいた男でした。確か自宅が金沢市東力で、金沢市大額の方で居酒屋のような店を出したとか言う話があったり、一度はその店に行ったような気もするのですが、記憶が相当薄れています。

もしかすると日通の幹部社員の息子のような話もあったかもしれません。家がお金持ちでいい生活をしてきたような話は聞いていたと思うし、実際、そういう雰囲気の男でした。彼も年は同じだったと思います。

わりと大柄な体格でした。東力に家があるという点とその体格、多少の雰囲気の共通性で、平成4年になると被告訴人YSKと重ねて思い出すことも少なくなかったと憶えているのですが、その後今日まで長い間すっかり忘れていたので、名前の方も思い出せなくなっています。ありふれた名前だったような

気はします。日通というのも気になるキーワードになっていたような気がします。ヤクザの組長をしていたとも土建屋をやっていたとも聞く、金沢市場輸送の社長でしたが、昔、日通で働いていたこともあると聞いていたからです。日通と言えば当時日本最大の運送会社とも言われていました。

実際、昭和59年当時も日通の仕事は少なくなく、まだ新車の状態に近い日通カラーの10トン平ボディ車も2台いました。乗務員の一人はその後、中西運輸商に移り、売り上げか何かは忘れましたが、社内一の成績として表彰される姿も、同じ部屋で見ていた憶えがあります。

その後、中西運輸商をやめたあとだったと思いますが、平成元年頃でしょうか、群馬県の高崎市あたりの国道で追突事故で死んだという話も聞きました。中西運輸商から私の紹介というかたちで金沢市場輸送に来て配車係もしていたYTから聞いたように思います。

昨年になると思いますが、宇出津新港の堤防で釣りをしている人と話が弾んだところ、そのYTのことをよく知る人で、いろいろと話を聞くということもありました。その時点では、昔と同じように運送の仕事を経営者の立場でやっているような話でした。何月頃かは思い出せないですが、寒い時期では

なかったように思います。YTは同じ中西運輸商にいた頃、付き合いが多かったので、ライスセンターの仕事を終えた被告訴人YSNが遊びに来たとき、一緒になることもあり、昭和61年の12月か62年の1,2月の時点で顔見知りだったということにもなりそうです。

被告訴人YSNが一度だけ金沢西警察署に面会に来たときも、YTから被害者と付き合っていたのかと尋ねられ、「付き合っとったんじゃないか、とゆうてやった。」と押しつけがましいともとれる、口調で話していました。後で知ったことですが新聞には「半年前から交際」となっていたので、

やむなくそう答えたという可能性もあるのかもしれないですが・・・。YTの話を持ち出してきたのは被告訴人YSNの方でした。余り親しくないという口ぶりでしたが、どちらも社交的だったので、より深い付き合いというのもあるいはあったのかもしれないと考えることはありました。

そういえば半ば独立したかたちで運送の仕事をしていると聞いていたYTの仕事を手伝っていたのも被告訴人YSKでした。YSKの私に対する接近自体が仕組まれたものであった可能性が高く、供述調書には事実のすり替えのような明白な虚偽も含まれていました。

被告訴人YSKはYKに頼まれて、臨時で仕事を手伝っていると話していましたが、今考え直すと、正式な社員か運転手というかたちでYKのトラックに乗っていたのかもしれません。自分には珍しい日産ディーゼルの新型車に乗務していたこともあり、中央市場の青果売り場あたりを少し運転させて

もらったこともありました。しかし再びよく考えると、被告訴人YSKのメインの仕事は持ち込みダンプでのイワシの運搬であったとも考えられます。そういえばYSNが払い下げで購入したようなことを話していたポンコツのダンプは、元は日通カラーだったような気もしてきました。

ダンプと言っても土砂積み禁止の特殊なダンプで、大型車にしては小型にも見えるダンプでした。そういえば私が市場急配センターに移ってからしばらくの間は、駐車場でそのダンプを見かけていたのですが、どこへ持って行ったのか、その後ダンプの姿を見かけることはなかったように思います。

この被告訴人YSKも被告訴人OKNと接点がありました。本来は能都と金沢で地元も違い、年も6つ離れていたので、考えにくい接点でもありましたが、どうもよく理解できないかたちで、それらしい話を聞いていました。余り関心もなく、聞き流していたので、把握できずにいた点というのも

あるかもしれません。その前に時間を戻したところから説明をしておきたいと思います。遊びまわっていた被告訴人OKNが、確か250ccのバイクにまたがり、大阪へ行くと旅立っていったのは、昭和60年の11月ぐらいだったように思います。

東力のアパートの前で、私と一緒にいた結婚する前の前妻に旅立ちの挨拶をして走り去っていきました。いささか哀愁と決意を感じさせるような旅立ちが印象的な場面でもありました。

彼が大阪に向かった一番の目的は、二つ年下の彼女が高校を卒業して大阪に働きに出たのを追いかけるものではなかったかと考えられます。私の同級生は昭和58年に高校を卒業しているので、やはり昭和60年の卒業と言うことになりそうです。4月を就職の時期と考えると、彼が大阪にむかったのは、

もっと早い秋口のような時期だったのかもしれないのですが、私のなかには木枯らしが吹く、晩秋、あるいは12月頃ではなかったかというイメージが残っていました。そのほかの友人関係の状況をあわせると、やはり冬が近づく時期になっていたという気もします。

もう少し時代を巻き戻して思い出しながら事実を追いたいと思います。昭和59年の夏の前後であったぐらいにしか特定できないのですが、観音堂の珠洲のYHの部屋でちょくちょく顔を合わせていたUが、西念町の古いアパートに住んでいると知って、遊びに行くようになりました。

珠洲のYHもその近くのアパートではないですが、ちょっとしたビルの3階あたりに住んでいて、そこにもちょこちょこ遊びに行くことがあったのですが、Uとの出会いは別であったように思います。少なくともUのアパートでYHの姿を見ることも、YHの部屋でUの姿をみることもなかったと思います。

初めは私が被告訴人OKNを一緒にUのアパートに連れて行くという感じだったと思います。まもなくそこで羽咋郡富来町出身のOTと金沢生まれで三重県育ちだったようなHMと知り合い、全員が同じ年でもあったのですが、またたくまに親密な間柄になりました。

西念町は金沢中央市場と同じ住所でもあったと思いますが、わりあい広い範囲で、Uのアパートもそう近い距離ではありませんでした。OTは広岡町のしゃれたワンルームマンションで年下の少女と同棲していました。HMも北安江のマンションで少し年下の女と同棲していました。

三人とも仕事はしていなかったと思います。OTは一度、金沢市場輸送で仕事をしたのですが、一回か二回の運行ですぐにやめていました。私は長距離の仕事をしている時間が長かったので、一緒にいる時間も少なかったのですが、彼らは四六時中に近いぐらい一緒に遊び回っていたようです。

Uは個人的に深刻な問題を抱えていたので暗い感じがありましたが、それでも女遊びは人一倍やっていたようです。すごい数の女の子の電話番号を書いた分厚いメモ帳のようなものも持っていました。私はその後、Uと会う機会も少なかったと思います。

プライバシーの問題もあるので詳細はさけないですが、Uは少年時代に大きな交通事故を起こし、多額の賠償金を背負っていると聞いていました。内灘の家も一度遊びに行ったことがありましたが、賠償のため手放し、あの西念町の古いアパートの住むようになったと聞いていました。
Uと最後に会ったのは平成9年の8月か9月のことでした。怪我をしていて野々市の赤十字病院に入院していたところを、HMと一緒に見舞いにいった時のことです。その後もちらほら近況を伝え聞くことがあったのですが、小さな自動車修理工場を経営し、何かのレースに出場することもある、

という話を聞きました。今考え直すと、OYが片町で薬物事件で逮捕されたというのは、あるいはこの平成9年頃のことであったのかもしれません。しかしそうなると当時の年齢が30歳を超えていることになるはずなので、そのあたりも記憶にはそぐわないのです。

OYの薬物事件とは別になると思うのですが、平成2年頃も、なんどか新聞で片町の薬物事件が大きく報道されることがありました。その主犯格で片町でずいぶん有名だったという人物とは、福井刑務所の工場で同じ班になり、その人物が班長でした。これも偶然ではないと思います。

いまでもフルネームを憶えていますが、ここで書けるはずもありません。まもなく班長と娑婆で親しい関係であったという金沢の元暴力団員YKが同じ班に入ってきました。二人が一緒だった時期はそんなに長くはなかったと思います。まもなく班長のTKが仮釈放で出て行くと、次にYKが班長になりました。

TKとOYは、ともに金沢市場輸送と市場急配センターの会長になったTSKのことをよく知っているような口ぶりで話していましたが、あまり具体的な話は教えてくれなかったように思います。どちらも裏の世界で相当長い間、キャリアを積んだ人間という感じでもありました。

どちらか、あるいはどちらもであったかは忘れましたが、同じ片町でバーテンをしていた被告訴人YSNの名前は知らないかと尋ねたところ、すぐに知らないという返事が返り、本当は知っていそうだな、という印象は受けていました。

賞味期限の分からなくなった残り物の白菜の漬け物を食べていたら、ふと閃くようにおもいだしたのですが、下の名前は「かつとし」だったと思います。プライバシーに配慮して、このあたりにとどめておきます。

もうひとつより重要度が高いかもしれないと考え直すことがあったので先に書いておきます。それは平成11年の2月頃のことです。被告訴人OKNが住宅のリフォームや建て売り住宅のセールスを口実に、積極的な罠を仕掛けてきた時期でした。

ある日、なにかを理由に金沢市役所につれていかれることがありました。なにかの調査のような話であったような気もするのですが、現在ははっきり思い出せなくなっています。かなり詳しく説明を受けましたが、必要性も理解しがたいもので意図がつかみにくいものでした。

そういう疑問はその時が初めてではなく慣れていた部分もあったので、当時はそれほど深く考えることもなかったと思います。とにかく、かなり長い時間、金沢市役所のなかで、被告訴人OKNと一緒にいました。市役所は金沢市の中心部、片町や香林坊の近くでもあります。

なにかくどいぐらいの説明を受けていましたが、とにかく、以前、2トン車の持ち込む運転手として仕事をしていたこともある宇出津の川か河の字を含むK、と落ち合うことになっていきました。当時は既に携帯電話を使っていた思うのですが、直前の電話連絡で、駐車場のことを話していました。

つまりKの車が外車の大型車で大きすぎて駐車できる場所がないという話でした。アメリカ車ではなくヨーロッパ車で、ベンツではなくBMWという話だったような気がするのですが、BMWというのはそんなに大きな車だったのかという疑問も少しよぎりました。

Kに特段の疑いの目を向けるのが私の目的ではなく、むしろそのような目を私に向けさせ、知られなくないあるいは気づかれたくない事実を守りたいというのが、彼の真の目的であった可能性もあるとは考えています。それでなくても挙動不審でしたから。

被告訴人は中央公園の横の県庁の敷地に大きな車を駐車できる場所があるという説明をしていたと思います。たぶん県庁は元の県庁の跡地で、それほど離れていない近年に現在の金沢市鞍月あたりの新庁舎に移転していたと思います。

書いているうちに思い出したのですが、Kの用事は中小企業向けの融資の相談のような話であったと思います。かなり心配そうな顔をしていました。私のことはよく知っているはずと思っていましたが、まるで眼中にない様子でした。もともと性格的に真意や表情の読み取りにくいタイプにも思えていました。

なお、その時、被告訴人OKNが乗っていた車も古いものでしたがスウェーデンのボルボという外車だったと思います。特別大きいと感じる車ではなかったと思いますが、一般の国産車よりは大型であったと思います。その車は金沢市役所の中の駐車場に普通に駐車していたように思います。

黒い色のボルボだったと思います。かなり長い間乗務していたと思います。平成9年の7月から平成11年の春頃までの間、彼が他の車を自分の車として乗車していたというのは思い出せないです。なにか国産車に乗っていたような気もするのですが。

昭和62年か63年か記憶上いまのところ特定できないのですが、彼が当時住んでいた神戸市内で会ったときは、フランス製のシトロエンとかいう珍しい車に乗っていました。お盆休みに宇出津に帰省したときもその車に乗っていたような気もします。

私は金沢市場輸送で昭和62年の4月から昭和63年の12月の20日頃まで、イスズ自動車の「石7599」というナンバーの10トン保冷車に乗務していました。大型車です。その翌年辺りからナンバーが「石」から「石川」に変更されたことも憶えています。

当時は新車に乗務するまで長ければ入社して10年掛かるとも言われていました。古参の運転手から優先的に新車が与えられるからです。年功序列言うのも昭和の時代の世の習いでした。バブル景気に突入するちょっと前であったかもしれません。

*** 被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年8月30日
昭和61年の3月に結婚式を挙げ6月には長男が生まれていました。被告訴人YSNを頼って岐阜県海津町に行ってのは、長男が生まれて一週間か10日後ではなかったかと思います。ライスセンターの人数の関係で金沢市に戻ってきたのは8月の20日過ぎのことでした。

金沢市場輸送に電話を掛けたとき、応対に出たのは藤村という配車係でした。何かあったらすぐにやめてもらうという条件で、再び金沢市場輸送で仕事をするようになりました。仕事内容は前回の長距離ではなく、市内配達でした。

早朝に金沢中央市場から鮮魚を積み、マルエーというスーパーの松任店、根上店、寺井店に配送する仕事だったと思います。午前中10時か10時半ぐらいに中央市場に戻り、次は青果物の売り場で、仲買の人がもってくる青果や野菜を積み込んで配達する仕事です。

この時、自分が担当したのは片町・小立野コースと呼ばれるコースでした。一番面倒で難しくいやがられる仕事だと聞いたこともありますが、自分はこれ以外やることもなかったです。片町は金沢市内の中心部で県内で一番大きい繁華街です。路地も狭く、混雑もありました。

午前と午後の2回の配達があり、午前中の1便の出発は午前11時頃ではなかったかと思います。2便は午後の2時頃だったと思いますが、これは荷物も配達先も少ないことが多かったです。そういうこともあり、この時は、大口の荷物の積み合わせで、自分のコース以外の配達も多かったです。

この時も16時頃に仕事が終わることが多かったと思いますが、市場の連休明けなどになると荷物が普段の倍以上になり、運転手とトラックの数もその当時は少なかったので、まれに18時を過ぎるようなこともあったと記憶しています。朝は5時30分からだったかと思います。

この市内配達の仕事をしながら、金沢市観音堂から移転して年月も経っていなかった金沢市東蚊爪の運転免許センターに、大型免許の一発試験を受けに行っていました。ちょっと忘れてしまいましたが、最低でも7回、あるいは10回以上試験を受けて、相場より多めの回数でしたが合格しました。

合格当日の免許の交付だったと思うのですが、大型免許の公布日は昭和61年11月27日だったと思います。誕生日の翌日だったこともあり、憶えやすかったです。大型免許を取得したものの大型車の空きはありませんでした。それと翌年の1月ぐらいに免許の点数が満点になるまでは、長距離はするつもりは

なかったです。当時、長距離のトラックの仕事には重量オーバーがつきものでした。検問で捕まるということもありますが、高速道路でパトカーが荷物の重そうなトラックを見つけると、マイクで次のインターで降りるように言われ、インターにある台貫に乗せられるのです。

中西運輸商で大きな免停を受けることになったのもそれが多かったです。中国自動車道の新見インターの警官に目をつけられ、狙い打ちにされるとひとたまりもなかったです。どこの警察でもそこまでやることはなく、だいたいやる場所は決まってはいたのですが、事実上避けようのない場所です。

大型免許をとってからは、市内配達の仕事はほとんどしなくなりました。ポンコツの6トン保冷車で仕事をすることもあったと記憶していますが、ちょうどイワシの仕事の時期になっていたので、10トン平ボディ車でのミールの仕事がほとんどになりました。ミールとは主にイワシを原料にした魚粉です。

私がはじめにいた昭和59年当時はなかった仕事ですが、早ければその年の12月頃から始めた仕事のようでした。同じ石川県の珠洲市蛸島にある浜田漁業の仕事でした。浜田漁業金沢工場というミール工場が出来ていたのです。浜田漁業は蛸島丸という船団を所有していました。

昭和59年当時、金沢市場輸送の配車係は藤村と北浜という人のふたりでした。見た感じずいぶん年上に思えていたのですが、当時27歳とか28歳という年齢を聞いたような気がしないではないです。彼ももとは金沢市場輸送で運転手をしていたはずですが、珠洲市蛸島の出身でした。

昭和61年の8月に2回目の入社をしたときには姿はなく、前回に私がやめてまもなく蛸島に帰り、浜田漁業の配車係をしているとも聞いていました。詳しい話を聞いていたような気もするのですが、憶えていないです。それでも北浜がきっかけでミールの仕事をするようになった可能性は高いと思います。

浜田漁業金沢工場は金沢市内の外れでしたが、目立つ場所に工場がありました。金沢東インターから河北郡宇ノ気に出る農面道路の道沿いで、隣に屠殺もやっているという噂の食肉工場があり、他はほとんどが田んぼばかりで建物がほとんどなかったので、かなり目立っていたのです。
普通に金沢で生活している人は余り使う道でもなかったかもしれないですが、能登の宇出津の行き来には、よく使う道でした。宇ノ気の先の白尾インターから能登有料道路の乗り降りをすることが多かったからです。

浜田漁業金沢工場が出来た頃、イワシの仕事も規模が小さいものでした。初めはのちに「八戸軍団」とも呼ばれるようになった東北の出稼ぎのような白ナンバーの持ち込み運転手のグループが、直に仕事受けてやってきるような話でした。一人1台で5,6人ぐらいのグループでした。

7599号がイスズ自動車から新車で納入されたのは4月でしたが、その少し前にも同じイスズのトラックで、2台のダンプが新車で納入されていました。土砂積み禁止の普通ではないダンプでしたが、荷台の大きな頑丈そうなダンプでした。イワシ運搬専用の特別注文で設えたようなダンプでした。

昭和62年の春先のことですが、そのダンプに乗務した一人が金沢のMという人物です。告訴事件の重要な鍵を握り、事実ではないのに被害者と交際していた元彼氏という作り話の役割を演じた被告訴人YSKは、このMの愛人の息子という話でした。現在市場急配センターの社長になっている可能性の高い

Dという人物をイワシの仕事に招き入れたのもMだと聞いていました。金沢市場輸送の社長から金沢市場輸送と市場急配センターの会長になったTSKの口から直接聞いた話では、自分がヤクザの組長をやっていた頃、若い衆で組にいたけど、すぐにいなくなったという関係もあったようです。

総じてTSKの話というのは誇張と嘘くささがあり、どこまで本当なのか不明なのですが、そのような虚々実々を周囲にバリアのように張り巡らすのが、保身と安心につながっていたのかもしれないと、後になって考えるようになりました。謎と癖の強い人物であることは確かです。

Mは昭和40年代か仁義なき戦い、などのヤクザ映画が全盛の頃、映画の中からそのまま飛び出してきたような人物でした。今ではすっかり見かけなくなったタイプの人間ですが、昔はけっこういたような気もしますが、当時でも余りみないタイプの個性派という印象でした。

イワシの仕事というのは早い時期で12月の初めぐらい、遅い時期で翌年の4月ぐらいまでという期間でした。初めの方と終わりの方は、獲れるイワシの漁も少なく、仕事も少なくて、八戸軍団とダンプに限られていました。その後、全国的にイワシが捕れなくなり、ずいぶん前に浜田漁業金沢工場も閉鎖に

なっているはずです。浜田漁業金沢工場は一日に処理できるイワシの漁が600トンと聞いていたように思います。ほとんどがイワシですが、サバやアジも混じっていました。アンコウや大きなマスを見つけることもあり、それが楽しみでもありました。

イワシは金沢港の大きな堤防の先端付近でまとまって獲れることもあれば、魚群が見つからず、京都府の舞鶴沖や新潟県の佐渡島の近くまで行くこともあると聞いていました。舞鶴港や珠洲市の飯田港までイワシを積みに行ったこともありました。

そういえばダンベと呼ばれる四角い水槽にイワシを積んで、石巻や三重県、四国の方に運ぶこともありました。養殖ハマチのエサとして冷凍加工するのが目的であったと思います。

ダンベは10トン平ボディ車に平積みで14個ぐらい乗るものであったと思います。いつの頃からか群馬から来たKという人物が、よくそのダンベの仕事をするようになっていました。もう一人は小松市に家があるという運転手でした。とっさに思い出したのですが、名前はすんなり出てきません。

名前に亀という字がある二文字だったと思います。群馬から来たKは、フルネームでしっかり憶えていますが、ありふれすぎたような上と下の名前の組み合わせで、偽名の可能性もあったのではないかと考えるようになっています。ある意味、謎の鍵を握る人物なのです。それに元警察官を詐称していた

可能性もあるので、あえて実名にしておきたいと思います。小林健二という名前だったと思います。小林には自信があるのですが、検事の方は95パーセントぐらいの記憶の自信です。まあ、ほぼ間違いはないと思っています。

なにより驚くのは、彼が最高裁判事の息子であると話していたことで、それも判事の父親がTSKとは盟友で、父親に社会勉強をするようにと、TSKの会社で働くことをすすめられた、というような話をしていたことでした。この話を聞かされたのは彼が市場急配センターの社員として、イワシの現場の

監督のようなことをするようになってからであったと思います。初めに彼の姿を見るようになったのは、まだ金沢市場輸送の事務所が中央市場前の西念町にある頃でした。スポーツタイプではない大型のバイクの乗る姿をちょくちょく見かけていました。

**** 被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年8月31日
小林健一は初め10トン平ボディ車でローカルの仕事をしていたと思います。今少し思い出したのですが、金沢市内高柳陸橋の下にある運送会社と関わりのある仕事をしていたかもしれません。北陸通運という会社だったかも、これは別の人のことだったかもしれないですが、専属的に仕事を

やっていたように思います。彼は金沢市場輸送の事務所が西念町にある頃からいましたが、仕事が終わるとすぐに帰宅していたためか、事務所で顔を合わせた記憶というのはほとんどないです。会社の前の道路の向こう側で、話をしたことを記憶しています。

私は昔、昭和57年の9月から12月の年末まで、名古屋市港区でバイク屋の仕事をしていたことがあったのですが、一度客に、まるで白バイのようなバイクに乗ってきた人と話をしたことがありました。正統なバイクマニアという感じで、福島県の出身と言っていたことも印象的に憶えていました。

最初に会った頃の小林健一も正統なバイクマニアという感じで、どこか共通するものを感じていました。まあ、初めの頃は顔を合わす機会が少なく、存在自体を忘れかけた時期もあったかもしれません。会社の他の運転手とはかなり雰囲気が違っていました。育ちは良さそうな感じでした。

初めに聞いたのがいつ頃であったのか思い出せないのですが、言葉を交わすようになったすぐの頃かもしれません。小林健一は、前職が石川県警の交通機動隊員で白バイに乗っていたと話していました。いかにもそういう雰囲気であったので、その頃は疑うこともなかったです。

あれは昭和62年の5月の下旬頃ではと思います。山中温泉のキャッスルバーデンホテルで一泊の慰安会がありました。この時は一人一万円の実費であとは会社が負担するという話ではなかったかと思います。全員ではなかったと思いますが、ほとんどの社員が出席していました。

午後にホテルというか温泉旅館の送迎バスが、中央市場前の北國銀行の前あたりに迎えに来ていました。あまり大型でもないマイクロバスであったと思います。たまたま私はバスの一番後ろの方で小林健一とほぼ並んで座っていたのですが、彼はバスが出発してすぐに飲酒を始めたらしく、

北陸道の片山津インターを降りた頃には、すっかり酔っぱらっていました。それも尋常な酔いかたではなかったのですが、すこぶる陽気で笑い続けながら、多弁になにかを喋っていました。そのようなタイプの酔っぱらいというのは余り見た憶えもなかったので、珍しくもありました。
片山津インターを降りてしばらくした頃には、窓から小便をすると言いだし、あるいは、次に手に持っている袋に小便を入れると言い出したように思います。なにぶん昔のことなので、こまかいことは憶えていませんが、周囲を驚かせ、皆でなだめて大人しくさせようとしていたことは憶えています。

旅館というかホテルに着くと、ほとんどがすぐに大浴場に風呂を入りに行きました。なぜか脱衣所に若い女の子が3,4人いて、それも珍しく、目的や意味がつかみかねていました。その時点でも小林健一の普段と別人のような行動には、疑問と戸惑いが続いていました。

あれほどバスの中で大騒ぎしていた小林健一は、その後ホテルの中で姿を見かけることがありませんでした。その宿泊ではかなりの大きさの大部屋で大人数の布団がひいてあったことを憶えています。まるで修学旅行のような状態でした。とにかくホテルに着いてから小林健一が起きている姿は見なかったと

思います。部屋のなかで爆睡していたような記憶もあるのですが、これも記憶が不鮮明になっています。この慰安会では他の宿泊客との間でケンカ沙汰のようなトラブルもありました。それでよく憶えている顔ぶれもいます。

**** 被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年9月1日
山中温泉に行ったのは5月の下旬であった可能性が高いです。この時点で金沢市場輸送の事務所がまだ西念町にあったということもはっきりしています。昭和59年の入社当時から事務所とは別に、会社の駐車場というのは中央市場から割と離れた場所にありました。住所は金沢市二口町です。

移転後の金沢市場輸送の事務所と駐車場 http://bit.ly/1e2TbVl のGoogleマップの地図で「移転後の金沢市場輸送の事務所と駐車場」とラベルをつけた場所が、移転後の金沢市場輸送の事務所の場所です。ここでURLは短縮に変換しました。

事務所は7月頃の移転だったと思います。平屋の住宅のような事務所でした。金石街道沿いの「オークラ」というパチンコ店の裏側の駐車場にも隣接していました。もともとあった田んぼの中の砂利の駐車場とも重なる敷地であったと思いますが、ずれた部分が大きい気もします。区画整理になっていました。

昔は丸北青果の間の道にはいると左手の方に駐車場があり、たんぼ道の交差点を右に曲がるとすぐに小林運送がありました。この小林運送は青果物の仕事をメインにしていました。私は昭和58年の2月から4月頃まで2ヶ月ほどの間でしたが、小林運送で長距離助手で働いたことがありました。

当時、金沢市の職安は金沢駅に近い芳斉にありました。職安に行くたびに、求人が出ていたので、ちょっと気が向いて面接に行ったところ採用されたのです。住み込みでしたが、古い個人病院の建物で部屋のベッドも病院にあるのと同じに見えたので、本当に元は病院の建物だったのかもしれないです。

平成3年の12月頃からは、市場急配センターで小林運送の仕事をよくやるようになっていました。私は他の運転手が嫌がる仕事を割り当てられることが多かったので、2,3回ぐらいしかやらなかったのですが、豊橋方面から野菜を積んでくる仕事でした。

金沢市場輸送の事務所が二口町に移転した時期は、割としっかり憶えているのですが、年が昭和62年であったと思うものの、80パーセントぐらいの自信しか持てず、あるいは昭和63年になります。大型車に乗務するようになってから砂利の駐車場に止めていた記憶は少ないので、62年の可能性が高い

とは考えているのですが、今の記憶の状態では決め手がないところです。これは大事なことなのですが、移転してから一月ぐらいで、宇出津の河か川の字のつくK、と姫のNの姿を揃って見るようになったのです。被告訴人OKNから魚の行商をしていると聞いてから3ヶ月も経っていなかったように

思います。けっこう古い感じの2トンのトラックに乗っていました。そのトラックは個人所有のもので、市内配達を請け負っていると聞きました。こういうトラックの所有で仕事を請け負う形態を、「持ち込み」と呼んでいました。市内配達の持ち込みは、この二人が初めてだったと思います。

自分の記憶ではその半月後ぐらいに、初めて後に市場急配センターの社長となるMHKの姿を金沢市場輸送の事務所でみたのです。すぐに市内配達の新しい責任者であるように聞きました。この立場はけっこう長い間、不在でもあったのです。

昭和61年の8月、私が市内配達の仕事をするようになった頃は、高田という人物が現場で采配をする責任者のような立場でした。イメージ的には呉服店の番頭というような感じの人物でした。青果の配送の現場にもよく姿を見せていて、よく竹箒をもって売り場の中の掃除もしていました。

いわくつきの過去を持つような噂も小耳にしていたような気がしますが、内容は憶えていないです。はっきりしていることは何か問題を起こし、姿をくらましたということでした。ある日、西念町の旧事務所に、制服を着た右翼団体の若者が5,6人程か入ってきて、高田の所在を尋ねていたことがありました。

その時、配車係の椅子に座って受け答えしていたのが、後に金沢市場輸送の社長となる被告訴人MTKだったのも憶えています。あとで誰かが富山の右翼だと行っていましたが、口上を述べていた若者が威圧的ではなく、かなり気を遣って緊張しているようにも見えたことが印象的でした。

その時の被告訴人MTKの態度も堂々としていて慣れているとも感じたのですが、彼も富山とは縁の深いという人物でした。福井刑務所では富山で暴力団員をしていたという話も聞きましたが、余り具体性も感じられず、実際のことはわかりません。

福井刑務所では被告訴人TSKについて、高岡の大日本平和会だと即答を得たこともありました。山口組との抗争で全国的に名をはせた有名な団体だったと思いますが、富山県の高岡市に支部があるとか、そういう話は聞いたことがなく、新聞でも見なかったと思います。

私が被告訴人TSKの口から直接聞いた話では、東京にいた頃、「大日本青思会(大日本青年思想研究会)」に所属していたという話でした。これは平成2年か3年に聞いた話だと思います。それ以前は、東京の中央大学で空手部にいたということを、しきりに口にしていたという記憶があります。

被告訴人MTKは昭和59年当時、大型運転手でしたが、それも最古参の運転手という話でした。それでも7年目ぐらいだったと思います。1年ごとに給料の基本給が1万円ずつあがるというのも、当時の金沢市場輸送の特徴でした。

被告訴人MTKは金沢市に生まれ育ったものの十代の後半であったか早い時期に富山市に行き、そこで生活するようになり、数年のうちに繁華街で飲み屋を数点経営する社長になっていたと話していました。20代の後半という話であったようにも思います。カラオケというものを初めて導入したのも

自分のアイデアだといい自慢していました。結局、天狗になりすぎたということで、飲み屋の仕事はうまくいかなくなったと言いましたが、次に閃いたのはサラ金の経営で、これも時代を先取りしたアイデアだったと自慢していました。

人口等の諸条件を考えた上で、サラ金を始める場所を静岡市に選び、静岡に行ったと話していました。そして大きなものを相手に何か大きなことを仕掛けたらしく、詐欺で指名手配されるようになり、金沢市に流れてきて金沢市場輸送で長距離運転手をするようになったと話していました。

金沢に来て1年ぐらいという話だったでしょうか、警察に突き止められて逮捕され、刑務所に服役したという話でした。服役期間は1年か1年半というものだったので、ずいぶん短いという印象も受けました。そして当時金沢市場輸送の社長だった被告訴人TSKが身元引受人となり、出所の向かいにも

来てくれたと話していました。静岡では家族で御殿のような家に住んでいたとも話していました。そういう昔話を詳しく聞いたのは昭和61年の12月頃のことでした。場所は北安江の焼き肉屋でした。平成元年の1月頃かに松波港で自殺した珠洲のTさんと3人でした。

Tさんは被告訴人YSNと水産高校の同級生でクラスメートでもあったはずかと思います。高校卒業後すぐに金沢市場輸送に入社したとも聞いていました。YSNも同じく卒業後は、中央市場のウロコ水産で半年ぐらい仕事をしていたとも聞いていました。

Tさんの自殺についてはプライバシーの問題もあるので、その他の接点など控えたいと思いますが、平成6年の1月頃か金沢地方検察庁の検事室で加藤検事が強い反応を見せたこともあったので、注視されてきたのではとは考えています。億の保険金の話は平成13年頃に金沢刑務所で聞いた話でした。

保険金にまつわる話は、他に耳にしたことが一切なかったので、真偽の程も不明ですが、一億円よりは大きな額で、2億円という額ではなかったと記憶しています。1億数千万の可能性が高いかと思いますが、以前掛け金についてネットで調べたことがあり、ずいぶんな金額だとは思いました。

その自殺は新聞で知ったのが最初かと思います。周囲から聞いた話では、松波港の岸壁の駐車場で、買ったばかりの赤い色の軽四を、3回転ほどぐるぐるさせてから、海に飛び込んだという話でした。目撃者がいたとは考えにくい場所とも想像し、新聞にそれらしい報道もなかったようには思いました。

被告訴人OSNは、このときずいぶんと嘆き悲しんでいたようですが、事実上の箝口令というか、まったく話題に出来ないような場の雰囲気も醸し出していたと記憶しています。能登の地元の友人、知人の間からは、ほとんど情報を受けることもなかったように思います。

**** 被告発人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告発人OKNとの関係 2013年9月5日
時期がはっきりと思い出せないのですが、平成11年の春頃ではなかったかと思います。金沢市北安江のアルプラザ平和堂の大通りを挟んで向かい側の大通り沿いにソバ屋だと思います。それこで被告発人OKNに食事をおごってもらいました。何か用件があってその店に入ったような気もしますが、

現在細かいことは思い出せないです。重要なのは食事を終えて店を出た直後のことでした。時刻はすっかり夜で20時ぐらいではなかったかと思います。何かの会話の流れから、私はやや強引に、金沢市場輸送の社長であった被告発人TSKのことを憶えているかと、OKNに問いかけました。

すると彼はそくざに、ややあわてたような感じで、まるっきり知らないと否定しました。わざとらしく否定してこちらの反応を窺ったようにも思えなくはなかったですが、強く否定して会話はその先に進みませんでした。わざとらしいという問題だけでなく、本来は知らないはずがないという事実です。

そういえば市場急配センターの被告発人MHKが、被告発人OKNについて「いい男やな」と言っていたこともありました。時期がはっきりしないのですが、平成9年の春のことであったかもしれません。

被告発人OKNの方から、被告発人MHKについて「お客の引っ越しのためトラックを借りに行くこともある」と話したこともありました。探りを入れるような感じでもありました。これも平成9年の春頃だったように思うのですが、あるいは別の時期であったのかもしれません。

アルプラザの近くのソバ屋のことですが、いかにもサラリーマンが利用するような店でした。その時店に入ってのは初めてではなかったような気もするのですが、目立つ場所にもありそこに店があることはよく知っていました。隣沿いのすぐ近くに昔からやっている24時間の酒屋がありました。

まだコンビニという呼び名が世の中に出ていない頃だったようにも思います。昭和59年にはすでにあったように思います。サークルKとかが出てくる前だったと思いますが、店の内容は酒類がメインであるものの、ほぼコンビニのような品揃えになっていたと思います。昔はその店ぐらいしか

金沢市内で深夜に酒類の買える店はなかったように思います。うどんをメインにした弁当のチェーン店八幡のすしべん、には缶ビール程度はおいてあったような気もしますが。なお、ソバ屋もその24時間の酒店も住所は金沢市諸江だと思われます。北安江との境にもなっていると思いますが。

北安江というのは金沢駅の裏側、駅西とも呼ばれていますが、その東金沢側に位置する町内です。8号線バイパスの方向だと西念町にも隣接していると思います。中央市場自体も西念町ではないかと思いますが、その正門前の道路沿いにある前の金沢市場輸送の事務所の住所は西念町でした。

さらにいえば「金沢市西念町リの1」という番地だったような記憶も残っています。西念町というのはかなり広く、その外れの方に、「飛鳥(ひちょう)」という食堂がありました。すぐ近くには双葉湯という銭湯もありました。昭和59年当時のそのあたりは、田んぼや空き地も多かったと記憶しています。
*** TODO 元金沢弁護士会会長でもある若杉幸平弁護士の事件への関与と疑惑について
<2014-03-26 水>
**** 若杉幸平弁護士と被告訴人OSN、被告訴人OKN兄弟との関係、勧められた面談
<2014-03-26 水 10:28> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

時期としてははっきりと思い出せないのですが、平成11年の2月頃だったと思います。不思議なぐらい前後のことが思い出せなくなっているのですが、ある意味それだけに考えさせられた問題であり、そこに意識が集中していたため記憶の周辺がはっきりしなくなっているのではと思います。

当日の状況は今でも鮮明に覚えています。まず午前中だったと思います。意外なほどあっさり短時間で北安江の借家に送り届けられ、往復で1時間は掛かっていなかったと思います。借家に戻ったのが11時頃だったようなことも憶えていますが、なんとも言えない気分に浸っていました。

まだ十分な説明をしていませんが被告訴人OKNの誘いでNテックの仕事を始め、それも終わりの頃ではなかったかと思います。

Nテックに関しては平成11年の1月の20日頃に被告訴人OKNから誘いがあったと記憶しています。予めしっかりと計画された段取りの運びという感じでした。当時の私は被告訴人OKNが見方なのか敵なのかも迷っていましたが、結果的には見極めることにもつながったと考えています。

Nテックに関しては別の項目でしっかりと説明をしておきたいと思います。ここでは若杉幸平弁護士が説明のメインです。

まず被告訴人OKNから、自分の裁判のことで納得がいかないのであれば、弁護士を紹介するので相談してみればどうかと勧められました。具体的に相談という言葉を使っていたのかも、現在ははっきりと憶えてはいませんが、話をしてみれば、という感じではなかったかと思います。

被告訴人OKNがそんな話を持ちかけてから実際に若杉幸平弁護士に会いに行くまでは、時間も短かったと思います。あるいは3,4日前、あるいは前日だったような気もしますが、前もって考える時間というのは余りなかったという印象です。

当時、被告訴人OKNはボルボという会社に乗っていました。確かスエーデンの車でとても頑丈な車だとも聴いたことがありましたが、他の外国車同様に日本車とは異なり、モデルチェンジも少ないとは聴いていました。左ハンドルであったようにも思いますが、記憶ははっきりしません。

平成9年の2月から4月頃には、割と新しい感じのマークⅡのような国産車に乗っていたことも記憶していますが、いつからボルボに乗るようになったのかも、現在ははっきりしません。

はっきりしていることは平成10年の11月ぐらいまで、かなり長い期間、会ったり連絡をする機会がとても少なかったことです。ちょうど西金沢駅の近くの一水(いっすい)という小料理屋に行った頃が、被告訴人OKNとの関係の変化の始まりだったと思いますが、これも別の項目で説明を書きます。

Nテックの仕事と言っても、実際には仕事らしいものでもなく、結果的に私が受けた収入というのも0円でした。残ったのは15万円かあるいは20万円の被告訴人OKNに対する借金でした。当初は月に20万円ぐらいの収入は保証するというような話もしてはいたのです。

いちおう仕事としておきますが、Nテックの仕事では朝の8時半か9時頃からの自宅待機という感じで、被告訴人OKNからの連絡を待っていました。

Nテックの仕事内容についても別の項目で書きますが、N・K興産株式会社の金沢市荒屋の内見会の仕事が終わった頃が潮時で、私自身利用されるだけだと見切りを付けましたが、若杉幸平弁護士の事務所に誘われたのもその数日後ではなかったかと思います。

平成11年の2月の20日過ぎには私は別の仕事を始めていました。仕事を始めて2,3日後ぐらいの2月25日だったかに、金沢地方裁判所から再審請求棄却の書面が届きました。書面の日付が25日で、家に届いたのは翌日の26日であったかもしれません。

書面が届いた翌日の夕方だったと思いますが、暗くなった時間に私は金沢市木越付近から被害者の父親AKさんに電話を掛け、再審請求棄却の書面が届いたことを話しました。思えばこのあたりからAKさんの態度にも変化が見られるようになったとも思います。

再審請求棄却の書面が届いたときは、理由ものみこめず戸惑いがあったと思いますが、AKさんの態度に変化が出てきたことで、それからはむしろ前向きに、物事を考えられるようになったような印象が残っています。

それは私の希望的な観測だけではなく、実際にPHSの電話番号を教えてもらって、そちらに連絡を入れるようになりました。それは加賀市山中温泉の山奥の現場に通っている頃だったので、6月頃かとも思います。

なお、6月の中頃には被告訴人KYN夫妻を介して前菜から連絡があり、日曜日だったと思いますが、加賀温泉駅に向かいに行き、名古屋まで送る車の中で色々と話をしたということがありました。

その頃になると私は被告訴人KYNともほとんど連絡をとらない関係になっていました。前菜から連絡があったという話は、堀田建設の野々市町の外れの方の土場において、携帯電話で話をした状況を記憶しています。

堀田建設の仕事というのは河川の災害復旧工事の仕事がほとんどだったと記憶しています。山中温泉の現場も川の災害復旧工事でした。山中温泉の全体が水没するような危機的状況でもあったと聞いたことがありました。

それは前年つまり平成10年秋の大雨でのことと思われました。私自身その日は辰口庁舎の現場でK君と作業をしていたのですが、午後に大雨が続き、夕方遅くなって金沢に戻った頃には、あちこちで道路が水没したり、田んぼが水浸しになっていました。記録的な大雨としてニュースにもなっていました。

私は平成11年の2月の20日頃から金沢市鳴和にある職業安定所で紹介を受けた、永久開発で建築・建設現場への派遣労働をするようになっていました。こまかくいえば名友ソーワ(めいゆう)という会社に入ったことになりそうでしたが、グループ会社がややこしい構成になっていました。

ひらたくいえば日雇い労働の人夫出しです。金沢市近郊というのは石川県内も同じだと思いますが、最大規模であったと思います。関連先では金沢駅に寝泊まりするホームレスも参加していると聞いていました。

私は金沢市諸江の会長の自宅を兼ねた事務所に出社していましたが、そこで他の人夫を車に乗せ、金沢市玉鉾の永久開発の会社に行っていました。諸江の出社が朝の5時半ぐらいだったと思います。玉鉾と行っても大豆田大橋のたもとに近いあたりでした。

今インターネットで調べたところ、玉鉾の永久開発の場所はそのままで、Googleのストリートビューを見ると「完全工業」という社名になっているようです。「ビルガード」という看板も見えましたが、平成11年当時のグループ会社の一つと聞いていました。

鳴和の職業安定所には数回通った記憶がありますが、当時は仕事を探すことにずいぶんと焦っていました。それでも再審請求のことは誤魔化したくないという気持ちが強く、そのように係の人に相談したところ、どのような人でも採用してくれるはずと紹介されたのが永久開発でした。

永久開発には夕方に背広を着て面接に行ったことも記憶していますが、後で聞くと偽名を使って入る人も多いぐらいだという話しでした。焦りもありましたが先行きの生活の不安が強く、気持ちの余裕もなくなっていました。

玉鉾の永久開発では裏の方に集まる部屋があって、早朝から会長が采配をしていました。一言でいって異様な雰囲気でしたが、そういう他に見ないような世界でした。

外から解放された部屋にはボードに請け負い先や現場名が書いてあって、そこに派遣される人の札が掛けられていました。現場の欄に札がなければ、その日はあぶれで仕事も収入もないということでしたが、自分の札の存在を確かめに来るのが一日の始まりでした。

私自身、初めの頃の1,2回と、先輩の人夫と行った現場で請け負い先の指示に従わなかった人たちに、同行したペナルティのような感じで1回だけ外されたことがありましたが、仕事はほぼ毎日というだけではなく、日曜日もほとんどが仕事になっていました。

仕事ぶりを評価されてのことでしたが、仕事をもらえない人も少なからずいたようでした。私の場合は業者からの指名というかたちでの派遣も多かったようです。堀田建設のその一つという感じでしたが、一番多い仕事でもあったと思います。

堀田建設は野々市か松任市の会社だと聞いていましたが、本社については記憶にも残っていません。河北郡の高松に同名の会社が会って、そちらの方が規模が大きいとも聴いたことがありました。社長の姿は時々見かけていましたが、けっこう若い感じでした。

初めの堀田建設の現場は金沢市山科だったと思います。山科の川の災害復旧工事だったことは間違いないです。ただ、雪が降るような時期には行っていなかったような気もします。まあ、春先ぐらいから行くようになった現場だったと思います。

石川県金沢市山科1丁目6 - Google マップ http://bit.ly/OYgvLC ← 山科の現場というのはだいたいこのあたりだったと思います。

玉鉾の永久開発から山科の現場に行くには、被害者AKさんの家の近くを通っていました。大通り沿いではなかったですが、大通りからも家の裏の方が見えていました。その家のリフォームが始まったのも、ちょうど山科の現場に通い出した頃だったと記憶しています。

つい最近に似たようなことを経験していました。被告訴人KYNが設備工業の事務所として購入した隣の家のリフォームをしていたことです。このリフォームは、私が彼の仕事をやめてからNテックの仕事をするようになった一月ぐらいの間に、完成していたのではと思います。

前に書いていると思いますが、安原工業団地付近のS設備の新年会に参加するように言われ、テルメを出たのは翌朝の遅い時間で10時か11時頃だったようにも記憶しているのですが、帰りに被告訴人KYNの家にも少しだけ寄ったような記憶が残っています。

被告訴人KYNのところにいったのはその時以来だったと思います。平成11年の2月の前半だったと思いますが、あるいは1月の終わり頃かもしれません。西宅建株式会社のことを鉄塔の近くの詐欺師のような会社と、被告訴人KYNが言ったときのことです。

その時は被告訴人KYNの自宅ではなく、隣の家の事務所の方に顔を出していました。リフォームがほぼ完了したような感じだったと思いますが、少しの間にずいぶんと変わったものだとも感じていました。

その場には同じ宇出津のYSという同級生がいました。前に少し触れているような気もするのですが、被告訴人KYNの妻となった彼女を紹介したという間柄でもありました。

私自身、YSとは幼い頃より付き合いがあり家も近所でした。今も正月やお盆には帰省していると思いますが、私の方で会わないようにもしているので、あれ以来はっきり顔をあわせたこともありません。

YSも被告訴人OKNと同様、金沢高校に通っていましたが、中退したのも同じ頃だったかと思います。理由はまったく別で、原因らしい話しを耳にもしていましたが、本人に確認を取ったこともありませんでした。

YSは昭和57年頃は宇出津で仕事をしていたので、ちょくちょく顔を合わせていました。彼の働く店にもちょくちょく行っていたことを憶えています。

その後、私自身、宇出津にいることも少なくなり、車での移動も多くなったので、顔を合わすこともほとんどなくなっていたように思います。金沢に出たとは聴いていたと思いますが、彼に関する話題を耳にすることも余りなかったように思います。

YSの話しを再び聞くようになったのは被告訴人KYNが金沢に出てきた後でのことです。昭和62年頃ではなかったかと思いますが、一度YSのアパートに遊びに行ったことがありました。場所は入江だと聞いていましたが、ニュー三久神田店の裏の方でした。あるいは昭和63年だと思います。

YSとは被告訴人KYNの結婚式の時にも顔を合わせていました。1月の中頃でしたが、平成1年かと思います。既に書いているはずですが、小林健一らと四国の観音寺市あたりにイワシのダンベを運んだ数日後の結婚式でした。

その後YSとは顔を合わすこともなく、話を聞くことも少なかったと思いますが、独立して内装の仕事をしているようなことは聞いていました。

平成11年の2月と思われる日に、被告訴人KYNの事務所になっていた部屋で顔を合わせたときも、直接には挨拶程度だったと思いますが、その場の雰囲気もあわせてリフォームの仕事をしたのはYSではないかと思いましたし、遊びに来たという感じでもなく打ち合わせのような感じでした。

内装の仕事は言っても、それまでは単純なボード張りのような仕事をしているのかと思っていたのですが、もっと本格的に大工やデザイナーにも近いような仕事をしていたのかと思いました。その場で出会ったことが意外でしたが、予め被告訴人KYNから呼び出しを受けるような成り行きだったとも思います。

何か用事があって出向いたことに間違いはないですが、それがなんであったかは思い出せなくなっています。

その後、被告訴人KYNとは一度は直接会っています。一緒に酒を飲んで私は代行タクシーを呼んでそれに乗って北安江の家に帰ったような場面を憶えています。彼の家のすぐ近くから代行タクシーに乗りましたが、飲みに行ったのもその近くの居酒屋のような店だったかもしれません。

その居酒屋のような店のことは割と最近になって思い出すようになりました。被告訴人OKNも含めて飲みに行ったような場面も記憶しているですが、記憶がごく断片的で、時期もはっきりしません。

その近所の居酒屋のような店というのは住宅地に目立つような電気をつけた店でしたが、仕事で被告訴人KYNの自宅に通勤していた当時には、店の電気を見ていたような記憶もなく、すぐ近くでありながら、店に入ったこともなかったと思います。M君とも入ったようには考えにくく思っています。

ただ、これは逆に被告訴人KYNのところで仕事をする前のことで、平成9年の夏頃ではなかったかというような気もするのです。2回ぐらいはその店に入ったことがあり、一度はけっこうな人数で店に入ったように思うのですが、そんなことも十分に思い出せなくなっています。

その被告訴人KYNの自宅の近所の居酒屋のことですが、よくよく考えてみると、平成10年の11月頃、被告訴人OKNと久しぶりに顔を合わせたときに一緒に行った店であったような気もしてきました。一水に行った流れにもつながっていたような気もします。

その近所の居酒屋のことは、被告訴人OKNと一緒に若杉幸平弁護士の法律事務所に行ったときの場面に似て、そこだけが時期的な流れに当てはめにくいというか、浮いたような感覚にもなっています。

まあ、代行タクシーで帰ったときのことは、ようやくお金の面での心配も少なくなってきて落ち着いてきた頃でもありました。また、被告訴人KYNの態度もそれまでの攻撃性のようなものが影を潜め、様子見のような態度にも思えました。

彼としても思惑がことごとく外れ、いらだちもあったのではないかと思いますが、実際のところはかなり見えにくいと想っていました。

いらだちや焦りのような態度が、よりはっきりとストレートに伝わったのは若杉幸平弁護士でした。もともと若杉幸平弁護士の名前には記憶があったと思います。書面でのみ見た名前でしたが、それは平成7年の7月頃のことだったと思いますが、書面には日付も記載されていたかと思います。

先に資料として午前中に収集したインターネット上の情報を、新たな方法の第一歩としてご紹介しておきたいと思います。その方法についての説明は別の項目で後ほど書く予定でいます。後回しにしました。

<<<MARK-ID-1>>> [[#LINK-ID_1]] 資料写真/若杉幸平弁護士 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム

上記参考資料にあるとおり、若杉幸平弁護士の法律事務所は現在、丸の内法律事務所という名称になっていました。以前は若杉幸平法律事務所ではなかったかとも思いますが、いつの間にか変わっていました。

金沢地方検察庁の建物のお隣のような場所にあるのでわかりやすいですが、金沢地方検察庁の住所が金沢市大手町なのに対して、どうも金沢地方裁判所と同じ丸の内という住所になっているようです。

Googleマップやストリートビューの画面をパソコンでスクリーンショットした画像ですが、ストリートビューの写真の撮影日が数年前と思われるもので、金沢地方裁判所の新庁舎が工事中になっています。

これまでにも気になったことなので調べたこともあるのですが、Googleのストリートビューの撮影日を確認する方法というのは、私の調べた限りでは見つかりませんでした。

金沢地方検察庁の建物は平成4年当時と変わっていないと思いますし、金沢地方裁判所が新庁舎になった以外は、周辺の状況というのはさほど変わっていないと思います。ただ、気になる点として木梨松嗣弁護士の事務所の場所が少し変わっているように思えることはあります。

歳月の経過とともにそういうこともありうるかと思いますので、参考資料の状態はなるべく正確に記録をしておきたいと考えています。単にURLを紹介しただけでは、内容が変わってしまうこともあり得るからです。

さきほどから繰り返しているように、若杉幸平弁護士の法律事務所に行ったときのことは、私の記憶から浮いたような一場面になっています。もしかすると平成9年の秋のことではなかったのかと、思えることもあるぐらいです。

過去に私が作成した裁判の書面においてはより近接した時期に具体的な記載があるだろうとは思いますが、今の私自身にすっきりしないもどかしさがあります。

直前のこととしてはっきり憶えていることは被告訴人OKNが若杉幸平弁護士のことを、兄の被告訴人OSNの仕事関係で親会社のような存在である清水建設の顧問弁護士で、その関係で知り合っていると話していたことです。

清水建設というのは私個人としても特別な記憶のある建設会社でした。小学校の高学年の頃ではなかったかと思いますが、誰かに日本一大きな建設会社だと聞いた憶えがあったからです。

はっきりとは憶えていないのですが、宇出津小学校の新校舎の建設現場に清水建設という看板が出ていたような気もします。新校舎は旧校舎とほぼ同じ場所に建設されていましたが、建設中の状況とかはほとんど記憶にも残っていません。

はっきりしていることは新校舎が完成したときに丁度6年生に進級したことでした。宇出津の町も漁業で潤っていた時期だと思いますが、デザイン的にも目新しい新校舎で、それは現在においても古さを感じさせない建物となっています。

おそらくはペンキの塗り替えなどもされているものと思いますが、卒業してからはほとんど後者にも入った憶えがありません。近くで眺める程度ですが、他の土地やテレビで見る学校の建物と比較しても立派な校舎ではないかと思います。

一階の玄関の横には大きな食堂があり、二階が体育館になっていました。以前の旧校舎が古すぎたということもあるかと思えるのですが、ギャップも大きかったです。特に旧校舎の便所や音楽室は今でも忘れられないような不気味な雰囲気がありました。

学校紹介 - 能登町立宇出津小学校 http://cms1.ishikawa-c.ed.jp/~ushite/NC2/htdocs/?page_id=29 ← こちらに校舎の写真もありました。立て替えはされていないと思うのですが奥の方の建物などは記憶がはっきりしなくなっています。

歩み - 能登町立宇出津小学校 http://cms1.ishikawa-c.ed.jp/~ushite/NC2/htdocs/?page_id=31 ← こちらに年表があります。昭和51年7月に新築落成式を挙行となっています。

落成式のことは記憶に内ですが、6年生の進級と同時に新校舎での生活になったように憶えています。

清水建設 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/清水建設 ← 比較的新しいと思われるこちらの情報をみてもスーパーゼネコンの5社の一つに数えられているようです。

私自身、近年は行動範囲も大幅に限られているので、清水建設の看板が出た工事現場を見ることもありませんが、平成9年や平成11年の時点においては、日本を代表するような大きな建設会社であるという認識でいました。

被告訴人OSNが清水建設の仕事をしているような話しを聞いたのはずいぶんと前のことだったと思うので、驚くこともなかったです。

被告訴人OKNが金沢港に近い金沢市無量寺のアパートに住んでいる頃、昼間、被告訴人OSNのライトバンのような車が停められていたことがあり、後部のガラスの部分に大きく「○○組」と書いてありました。○の部分はもちろん彼ら兄弟の家の名前です。

本書において昨年中になるかもしれないですが、被告訴人OSNが東京で仕事をしていて岡山県内で交通事故を起こし、金沢市入江の病院に入院していたことは書いているかと思います。病院の名前は記憶にないですが、さほど大きくない個人病院だったと思います。

八幡のすしべん入江店の裏側になる通りにある病院でした。八幡のすしべん入江店は、当時金沢市近郊では深夜に食事の出来る数少ない店の一つでもあり、ヤクザ者や暴走族が集まるようなイメージも強い店でもあったと思います。

今、Googleマップで確認したところ、八幡のすしべん入江店の方は昔と同じ場所にあると思われるものの、病院らしいものは見当たりません。野田専光寺線に面した辺りの住所は入江と思われますが、病院のあった並びは東力と思われます。

保険金の誤魔化しもやりやすいような病院でうさんくさい患者がいるような病院だとも話しを聞いていました。ダンプと相撲を取ったという被告訴人KYNが入院していたのも同じ病院だったと思いますが、被告訴人OSNの入院との重なりやずれは記憶に残っていません。

どちらも特に寒い時期や暑い時期ではなかったように思います。回数は少なかったと思いますが見舞いに行ったこともあり、似たような年頃の若者数人で楽しそうに生活しているという印象がありました。

当時のこととして割とはっきり憶えている記憶は、昭和61年6月の初めの時点では被告訴人KYNは金沢市松村のずいぶんと古びたアパートに一人暮らしをしていました。大通りである金石街道からもけっこう離れた場所であったと思います。

石川県金沢市松村 - Google マップ http://bit.ly/OZpmg1 ← こちらで確認したところ松村というのは私が思っていたより範囲が広く、犀川の川沿いにも近い辺りがあるようです。

金沢市内の松村には昭和60年当時、金石街道沿いの交差点の角に加州銀行の支店があって、個人的にはその交差点のあたりが中心のようなイメージがありました。

その松村の交差点から金沢市内に向かい、8号線バイパスにぶつかる辺りの一帯は藤江という町名になっていました。反対の金石方面に向かうと、畝田という町名があってこの畝田もけっこう広いという印象でした。畝田の先を進むと説明が途中になっている寺中町があります。

被告訴人KYNが松村の古いアパートから何時頃、黒田2丁目のマンションに引っ越したかもはっきりとは憶えていませんが、松村のアパートに住んでいた時点では、金沢市幸町辺りにあるという小さな配管工事の会社に勤めていたと思います。

石川県金沢市幸町 - Google マップ http://bit.ly/OZs9Wz ← 金沢市の中心部に近いところです。その辺りに社長の家があると聞き、何度か車でその近くに同行して、車の中で待っていたような記憶も残っています。

やはり被告訴人OSNが入江の病院に入院していたのは昭和62年の春頃ではなかったかと思います。あるいは昭和63年の同じ頃ですが、一月ぐらいの入院で、怪我の程度も含め詳しくは知らなかったですが、長くても3ヶ月ぐらいの入院ではなかったかと思います。

東京で仕事をしていて出張中の岡山県内で事故を起こしたという話しでしたが、退院した後は東京には戻らず、そのまま金沢で生活を始めたような話であったと思います。

石川県金沢市増泉2丁目8−37 - Google マップ http://bit.ly/1h8TKze ← だいたいこの辺りの場所のアパートだったと思います。同じ増泉でも1丁目と異なり、普通の町並みに近いような雰囲気も感じられました。

私より一つ上で珠洲市出身の女性のアパートだと聞いていました。その女性とはその後結婚もしているはずです。私は昭和56年の夏にもその女性と会っているはずなのですが、まったく別人のような雰囲気になっていました。名前に特徴もあったので憶えていたのですが、同じ人に間違いはなさそうでした。

それはそもそも被告訴人OSNとの関係の始まりでもあったのですが、昭和56年の夏、被告訴人OSNは金沢市増泉一丁目のアパートに住み、私は金沢市問屋団地のガソリンスタンドで寮住まいをしていたのですが、ちょくちょく遊びに行くようになり、その後仕事もやめて転がり込んだのです。

これも説明が途中になっていますが、七塚のMKや東金沢方面のMSという当時17歳の少女らと知り合ったのもその増泉のアパートでした。少女と言っても当時私は16歳で、学年も一つ上だと聞いていました。

被告訴人OSNの妻となる珠洲の女性には地中海とか言う近くの喫茶店のようなレストランで食事をごちそうになったことも憶えています。浅野本町の私のアパートにも一度は遊びに来たことがあったと記憶していますが、個人的に話しをするようなことはほとんどなかったと記憶しています。

前々から気になっていたのは姫のNさんも同じく珠洲の私の一つ上の女性と交際しその後結婚したように聞いていたことです。その女性とも多少面識はあったのですが、名前などは憶えておらず、Nさんとの付き合いもなくなる少し前の頃だったと思います。

昭和58年の春頃でしたが、私は珠洲の三崎の方のFNさんのアパートに世話になっていた時期でした。増泉一丁目とは野田専光寺線の大通りを挟んで向かい側にもなる白菊町のアパートでした。古い建物でしたがアパートという体裁ではなく平屋の借家に近かったような記憶もあります。

そのアパートには被告訴人HTNが以前所属していたと聞く暴力団松元組のMUという人物が頻繁に出入りしていて私も世話になっていたのです。松元組の組事務所を含め、いくつかの暴力団事務所にも連れて行かれたことがありました。

当時40代ではなかったかと思いますが、幹部とも聞いていました。上位団体である北友会の幹部と聞いていたようにも思います。当時の石川県内の暴力団のほとんどは山口組系一会北友会という系列とも聞いていました。

七尾市に本拠を置く福島組と小松市に本拠を置く紺谷組が山口組の直系とか直参になったという話しを聞くようになったのは、その数年後のことではなかったかと思います。一和会との抗争よりは前であったとも思いますが、はっきりとは憶えていません。

山一抗争 - Wikipedia http://bit.ly/1h8XLDz ← こちらの情報を見ると、昭和59年から平成元年まで続いた抗争のようです。当時は情報源も限られていたので詳しいことは知らなかったですが、そんなに長い期間に渡っていたとは意外でした。

当時は金沢市の繁華街片町のすぐ近くの中央通りに北友会の事務所があったので、今考えてもずいぶんと時代が変わったものだと思います。

FNさんは当時、瓦屋の仕事をしていてまじめに働いていましたが、私はしばらくの間、仕事もせずに彼のアパートでぶらぶらしていたのです、ちょうど小林運送の長距離助手の仕事をやめた後ではなかったかと思います。

白菊町のFNさんのところにいたのは長くても一月ぐらいだったと思いますが、毎日そこで寝泊まりしていたわけでもなかったと思います。友人の出入りも色々ありましたが、宇出津のDKさんもよく出入りをしていたので、被告訴人OSNが顔を出すことはなかったはずです。

DKさんについても既に触れている箇所があるはずですが、被告訴人OSNが大きなハサミを持って馬乗りになった相手で、昭和57年の春頃に仲違いをして、以来関係が修復することもなかったはずですが、被告訴人HTNもDKさんの家にはよく出入りをしていて、その後同じ漁師仲間にもなったはずです。

MUさんとの付き合いは白菊町のFNさんのところにいた一時期だけでしたが、MUさんが姫のNKさんにひどく腹を立てて、探し出して見つけたら痛い目に遭わせてやる、というようなことをそのアパートで口にしていたことがありました。

何があったのか詳しい話しは聞きませんでしたが、よほど怒らせるようなことをやった感じで、そうなるとNKさんもFUさんのところには寄りつかなくなっていました。珠洲の彼女らしい女性の姿を見たのはその少し前だったと思います。

私は姫のNKさんと個人的に親しく連絡を取り合う関係ではなかったですが、DKさんや同級生のKMを介して一緒に遊ぶ機会は多くありました。被告訴人OKNを含めることもありましたが、それは奥能登の夏祭りから秋祭りの時期でした。

奥能登の祭りは7月初めの宇出津のあばれ祭りがかわきりとも言われていますが、細かい在所の祭りを含めるとかなりの数になります。当時私は酒やビールを飲むのも嫌いで、先輩に強要されることが多くてなおさら苦痛だったのですが、付き合いの機会もけっこうありました。

被告訴人OKNなどはそれをとても楽しんでいたのですが、彼らは自分らのことを神主とも呼び、在所の祭りに行っては、全く見ず知らずの家にも「あんさまおるかね?」と声を掛けて上がり込み、飲み食いをすると言うことを繰り返していました。

昭和57年や58年だったと思います。珠洲市の蛸島や、柳田村の祭りにも行った憶えがありますが、これはどちらも9月の下旬の祭りだったと思うので昭和58年ということになるかと思います。昭和57年は9月の初めに名古屋に行き、年末まで一度も戻らなかったからです。

宇出津の山側で柳田村の間には神野という地区があってほとんどが農家の集落になっていました。宇加塚とか鶴町、曽又、藤ノ瀬という細かい集落にも分かれていたのですが、祭りもその集落単位であったようです。曽又の祭りには私も行った憶えがあって、昭和57年だったかもしれません。

あるいは昭和58年ですが、たしか曽又に家があると聞いていたので同じ曽又の祭りだったと思われます。私はその場にもおらず、金沢で生活をしていたような気もするのですが、被告訴人OKNが当時はやりの言葉でタイマンをするといった相手にボコボコにされ、顎の骨を砕かれたことがありました。

今ではそういう話しも全く聞かなくなりましたが、当時は柳田村や神野地区の人のことを「ざいご」と呼び、ものすごく馬鹿にするような風潮が残っていました。自分のシル範囲でその傾向がもっとも顕著だったのが被告訴人OSNでした。

「ざいご」というのは小さい頃からの地元の方言だと思っていたのですが、インターネットなどで情報を見るようになってどうやら「在郷」の発言の訛りではないかと考えるようになりました。まあ、部落差別に近いようなものがあったとは思います。

自分の同級生が二人いたとは聞きましたが、その一人と被告訴人OKNが喧嘩になりタイマンと言うことで、バックの暴力団抜きの対決をしたそうですが、顎の骨を砕かれるほどの大怪我を負ったと聞きました。

これもごく断片的に記憶している場面ですが、私は河北郡内灘町にある医科歯科病院に被告訴人OKNの見舞いに行ったことも憶えています。彼は話しが出来る状態ではなかったですが、悲しそうな顔をしていました。

やはり私が普通免許を取得した昭和58年のことであったと思いますが、七尾市の暴力団福島組の「葵会」という暴走族が幅をきかし、ほとんどの能登の地域の暴走族のような若者たちを支配下に置いたような話しがありました。

宇出津も例外ではなかったのですがそれを拒否しているような話しでした。被告訴人OSNも七尾市に父親の用事で行ったときに、さらわれたような話しをしていました。金沢でも同じでしたが暴力団のケツ持ちというかバックがなければ、暴走族をやっているのは厳しいような状況になっていました。

私も暴走族仕様のシャコタンという当時はやりの車に乗っていたので、いろいろと緊迫した思いで過ごすこともありましたが、暴力団との付き合いは持たないようにしていました。その傾向は私より周囲の方が強く意識していて同調するような雰囲気もありました。

被告訴人OSNはもともとそういう暴力団とのつながりにも抵抗がなかったのだと思いますが、周囲の拒絶が強すぎて周りをまとめることが出来ず、離脱を進め孤立化していったような側面もあったかと思います。

神野の同級生二人も七尾の暴走族の息が掛かっているような話しを聞きましたが、そういう関わりをなしでの勝負をしたところ、こてんぱんにやられたような話しを聞いていました。

他所の祭りに顔を出し浮かれたことをやっていてのことなので自業自得だろうという気持ちもありましたが、被告訴人OSNは幼い頃から蔑視していたザイゴの人間に弟が痛めつけられたことにも、相当に根深い不満を持っているような様子で具体的な口吻を漏らすこともありました。

改めて考えると、被告訴人OKNがバイクに乗って大阪に向かったのは顎の怪我の退院の後であったような気もします。バイクはVTとかいうV型エンジンの250ccの黒いバイクであったとも思います。秋であったとは思いますが、寒くなり始めた季節であったような印象も残っています。

被告訴人OKNが大阪に行ったのは昭和60年の秋だったと思います。後に妻ともなった彼女がその年の春に水産高校を卒業し、大阪に働きに行っていました。大阪でも兵庫県に近いところだとも聞いていました。

彼女は私より二つ年下でしたが、私の同級生が高校を卒業したのも2年前で昭和58年のことでした。

前にも書いていると思いますが、被告訴人OKNは初め平ボディのトラックに乗る仕事をしていたと言い、そのあとは宝塚市のステーキ店で住み込みで働いていたとも聞きましたが、神戸市内で生活するようになり、彼女とも一緒に暮らしていると聞いていました。

神戸の住所は聞いていたと思いますが、北区という話しでもあったか山の手の方だとも聞いていました。彼女の仕事は聞いていなかったようにも思いますが、高校卒業と同時に入社した大阪の会社に通勤していたのかどうかもわかりません。

大阪というか神戸方面に行くときはばらばらという感じで被告訴人OKNが後を追いかけたという感じでもありましたが、戻ってきたのは一緒という感じではなかったかと記憶しています。

前にも書いていると思いますが、その戻ってきた時期というのもはっきりとは思い出せません。昭和63年のお盆休みにはシトロエンというフランスの車に乗って帰ってきていたように思います。宇出津新港の堤防で一緒に映した写真もありました。あの写真はその時のものだったと思います。

夜には宇出津小学校で盆踊りがありそこでも誰かのカメラで写真を撮り、そのうちの一枚も以前は持っていました。そのような写真のほとんどは前妻が持ったままいなくなったので、私の手元に残されているものはわずかですが、私自身、カメラを所有していなかったので、家族の写真も多くはなかったです。

宇出津の盆踊りは私が小さい頃から宇出津小学校の運動場で行われていましたが、なにか衝突があって行われなくなったと聞きました。その盆踊りをみたのもその時が最後であったような気もしています。

宇出津新港の堤防も余り行った憶えがなく、宇出津新港の埋め立て地自体がいつの間にか出来ていたという感覚でいました。宇出津新港の埋め立て工事がいつ頃から始まったのかもよく憶えていませんが、出来上がっていく過程というのも不思議と見た記憶がありません。

普通に考えて徐々に埋め立てが進んでいったのだと思いますが、自分が気がついた頃には埋め立て地自体が出来上がっていたように思います。幼い頃から遊んでいた近所の辺田の浜が埋め立てられていったので、それなりに関心も持っていたとは思うのですが、振り返れば何時の間にという感じです。

夜の盆踊りで写した写真には私の長男と、姫のDMが一緒に写ったものがありました。彼女は被告訴人OKNの彼女の同級生でもありました。金沢市八日市のアパートに、私の一つ年上でHSの従兄弟でもあるHSさんと同棲して一緒に暮らしていました。

被告訴人OKNと彼女が神戸から戻ったときも宇出津に帰る前に、彼らの八日市のアパートで落ち合っていたことを憶えています。

これも浮いたような断片的な記憶なのですが、日曜日ではなかったかと思われるある日の午後、金沢市北安江にある結婚式場の2階で、被告訴人OSNやHSと顔を合わせていました。私は長男を連れていましたが、彼らはなぜか浮かない顔にも見えていました。

HSとはかなり久しぶりに顔を合わせたようにも記憶しているのですが何か不満そうで口数も少なかったように憶えています。それは従兄弟のHSさんと姫のDMとの結婚式だったと思いますが、私は招待されたわけではなく、会場の外で彼らと顔を合わせ、新郎新婦の姿も少しだけ見たように記憶しています。

その結婚式場というのは平安閣ではなかったかと思います。その後マリアージュとかなんか違ったような名前でテレビのCMにも出ていたような気がしますが、当時は平安閣と呼ばれ、看板にもそう書かれていたように思います。

当時はまだ駅西という言葉はそれほど馴染みもなかったような気がしますが、その金沢駅の裏手の大通り沿いにその結婚式場はありました。被告訴人OKNらが結婚したのも同じ結婚式場で、半年ぐらい前だったようにも思っているのですが、こちらも時期がはっきり思い出せないでいます。

結婚式の後、片町で二次会のような集まりがあり、その後に片町のスクランブル交差点の近くのおでん屋に集まったこともはっきり憶えていますが、その時は夜が遅い時間だったと言うこともありますが、かなり寒かったように憶えています。

「赤玉」という名前のおでん屋ではなかったかと思います。店自体が目立つ場所にありましたが、中に入ったのも最初で最後だったように思います。そのおでん屋の座敷で、私は被告訴人OSNの連れの人物にビール瓶で頭を殴られそうになりました。

やってみろという感じで開き直ったのですが、うれしそうに期待した被告訴人OSNの顔が視界の隅に入りました。相手も面子があるので当然にやるだろうと思いながら静まった状況で、意外なことに止めに入ったのが被告訴人HTNでした。

その人物は「コウジ」と呼ばれていたと思います。初対面ではありませんでした。被告訴人OSNが連れて二人で私の東力のアパートに遊びに来たこともあったからです。控えめで大人しくも見えましたが、ヤクザ者のような雰囲気の人物でもありました。

被告訴人OSNが東京に住んでいる頃に知り合ったと紹介も受けていたと記憶しているのですが、被告訴人OSNと被告訴人OKNの兄弟の父親が命の恩人であるというような話しも聞いていました。

余り具体的な話しは聞かなかったような気もするのですが、自分から細かい話しを聞きたいという気持ちもなく、あえて聞かないでおいた方が良いだろうという気持ちもあり、被告訴人OSNとも距離を置いたような関係を心掛けるようにしていました。

自分のアパートに遊びに来たときにも悪い印象というのは全くなかったのですが、当日のおでん屋では立ち上がってビール瓶を振りかざされるような事態になっていました。その前にO兄弟ともなにか言い合いをしていたような気もしますので、そちらの方に原因があったとも思います。

その場には東京のOという人物も同席していました。おでん屋の支払いを仕切ったのもその人だったように思いますが、東京で暴力団員をしていると聞くのと一緒に、O兄弟の父親の兄弟分とも聞いていました。

被告訴人OSNに説明を受けないと気がつくこともなかったはずですが、そのOという人物とも私は初対面ではなかったようです。以前に会ったときの印象とは違いすぎていたので、同じ人だという説明を受けても実感が伴わない話しでもありました。

「コウジ」という人物に関しては、東京で知り合ったものの元は九州の福岡の人間とも聞いたように思いますが、当時は仕事の関係で耳にも馴染んでいた博多弁や九州弁のようなアクセントは感じられなかったことも印象に残っています。

その後、姿も見かけないようになり話しも聞かなくなったように思いますが、一時期はいつも一緒に被告訴人OSNと行動を共にしているような感じでした。

Oという人物は姫の出身と被告訴人OKNから聞いていましたが、宇出津の魚市場のあたりによくある同じ漢字二文字の名前とは、読み方が異なっていました。違うのは一文字目でしたが、そのような読み方はその後も聞いたことがなかったので、それだけでも印象的でした。

Oという人物と初めに会ったのは昭和57年の4月頃ではなかったかと思います。東京の観光ではけっこう薄着をしていた記憶もあるので、あるいはもっと夏に近い時期で5月や6月であった可能性もあるのかもしれません。と思いましたが、やはり4月頃であったと思います。

まだ被告訴人OSNとDKさんとの間に衝突が起こる前の時期でもあったからです。そういえば能登有料道路の穴水の横田料金所辺りでは、まだ雪が残っていたような記憶もぼんやりとですが、なんとなく残ってもいるのです。

被告訴人OSNが大きなハサミを振りかざしてDKさんに馬乗りになった頃、私は自動二輪の免許を取得した後でホークⅡという400ccのバイクにも乗っていた頃だったと思います。

6月の初めではなかったかと思うのですが、ちょうど金沢の百万石祭りというのが始まった頃に、当時は香林坊の近くの中央公園のあたりにあった石川県警本部で、免許取り消しの処分を受けたことを憶えています。弁明の機会があったのですが、反省の弁を述べると色めき立って驚かれたことも印象的でした。

百万石の祭り自体は見ておらず、その後もテレビ以外で見た記憶は一度もないのですが、百万石祭りが始まるようなアナウンスを耳にしていたようなことは断片的に憶えているのです。

O兄弟の家は当時、プロパンガスの配達と器具の販売、それと自動車の整備工場をやっていました。その慰安会のような旅行に同行するかたちで東京に遊びに行ったのです。ワゴン車に乗っていったと記憶しています。

7人はいたと思います。事務員のようなおばさんが同行していたかどうかは思い出せなくなっています。私自身東京に行ったのは能都中学校の修学旅行以来のことで、車で行ったのは初めてでした。東名高速から首都高速に入っていた状況を記憶していますが、夜の遅い時間になっていたと記憶しています。

夜中に東京に着いてからのことは記憶にないのですが、昼に浅草あたりのアーケードの観光地のようなところに行き、名古屋にいるときよく食べていた吉野家の牛丼を久しぶりに食べたことと、同じく昼に後楽園遊園地に行ったことは記憶に残っています。

自分の記憶では夜ではなく朝の午前中だったようにも思うのですが、同じく浅草あたりで、上の方が斜めになっているマンションの上の方の買いに行き、そこで人ずつシャワーに入れてもらったことを憶えています。

上の方が斜めになっているマンションというのは、長距離の仕事で東京に行くようになってからも当たり前のように見かけていたのですが、石川県の金沢市でもほとんど見かけたことのない建築様式だったので、ずいぶんと珍しく見えていたのです。

長距離トラックの仕事では全国の主要都市もほとんどを回りましたが、あのような建築様式のマンションというのは余り見かけた記憶もないので、東京でも台東区の浅草あたりに特に多かったような気もします。

風呂というよりシャワー室のような感じだったと思いますが、それも全く初めて見るようなものでずいぶんと珍しく見えていました。その部屋にはO兄弟の父親と同年代と思われる夫婦がいましたが、とても優しくて対応が丁寧だったのもすこぶる印象的でした。

そのマンションで雑魚寝をしたという記憶もないので、いったいどこで一泊したのだろうとも思うのですが、あるいは車中泊をしていたのかもしれません。不思議と吉野家の牛丼以外は、食事のことも記憶には残っていませんが、何か出前のようなもてなしを受けたような気もしなくはありません。

京都の親戚のところに遊びに行っていたのも小学校の低学年の頃までのことで、他は修学旅行ぐらいしか宇出津から出たこともなかったので、何かと珍しかったのだと思いますが、あの親切な夫婦のもてなしぶりが、際立って印象的だったとも思います。

その親切やもてなしは、都会での生活のなみならぬ苦労や厳しさにも裏打ちされているようにも感じましたし、自分が田舎で生きた来た体験では理解の難しい世界なのかもしれないと考えることもありました。

O兄弟の父親に対して、ひとかたならぬ気の遣いようをしているとも感じられました。当時のO兄弟の父親には、そのようなある種の威厳のようなものも備わっていたと思います。それだけに平成3年の春頃の被告訴人HTNの態度には驚かされました。

O兄弟の父親は、被告訴人OSNと被告訴人OKNの二人の兄弟に対しても、優しく語りかけるようなところがありました。田舎の宇出津では他に見かけないようなタイプの子どもに対する接し方にも見えていました。

家にはいる時期といない時期があって、金沢や県外の方に出ていることも多かったと聞いたようにも憶えています。被告訴人OSNも丁度大地震があった頃の新潟市内で生まれたという話しを聞きました。

母親の姿というのは見たことがなく、離婚した後長女の姉と北九州の方だったかに住んでいると聞いていて、被告訴人OKNの部屋のアルバムにはその姉の写真もありましたが、母親の写真のことは私の記憶に残っていません。

私も3歳の頃に父親と死別していて父親の顔もほとんど記憶にないのですが、片親というのは同級生でも他にほとんど聞いた記憶もないという時代でした。

当時はまだ祖父が健在でしたがかなりの高齢でもあったと思います。父親が悪くなったのも昔気質の祖父が厳しすぎたからだと、被告訴人OKNは不満を漏らすこともありました。傍目には優しい祖父にも見ていましたが、気性の激しい一面は年をとっても残っているような感じではありました。

父親は当時の宇出津の人としてはかなり珍しく、話し言葉も標準語に近かったように思います。それだけ家にいない時期も長かったのかもしれませんが、中学生の頃にも父親に関してはよからぬような噂を小耳に挟むことはありました。

泥棒をして捕まったとか、そういう話しだったと思いますが、周囲はO兄弟に同情的に見る向きがあったという印象が残っています。兄の方は小学生の頃から手癖の悪いこともやっているような話しで、それなりに迷惑も掛けているのかと想像することはありましたが、批判めいた話しも聞かなかったと。

彼らO兄弟の家は宇出津の町の中心部でもありましたが、特に大きな商売をやっている家が並んでいるような辺りでもありました。その後は商売を辞めたりする店もありましたが、ソ連との間の二百海里問題が起こるまでは、景気も商売も順調ではなかったかと思われます。

被告訴人OKNは中学生の頃からしっかりと目的意識を持っているような様子で、迷わず金沢の高校に行って一人暮らしをすることを来ていていたようです。他にも金沢の高校に行った同級生はいましたが、地元の高校の受験に落ちたり、部活の推薦での進学でした。

昭和55年になるかと思いますが高校一年の夏休みに友達3人で、金沢の被告訴人OKNのアパートに遊びに行ったこともありました。夜に片町の近くの中央通りの屋台のような店に案内され、豚足のような食べ物を教えてもらったのも印象的でした。

金沢の大和町というところのアパートでした。徒歩でも金沢駅に近い場所でした。その部屋か同じアパートに自殺があったという話を聞いたといい、それをずいぶんと気に掛けている様子でもありました。

その自殺の話しを近所の店で聞いたという話しが原因だったかはわかりませんが、その後、玉鉾のアパートに引っ越したと聞いていました。その玉鉾のアパートには行ったこともなく場所も知らなかったのですが、「たまぼこ」という名前が珍しく感じられ、印象的でした。

後になって聞いた話だったようにも思いますが、大和町のアパートにいる頃、父親が訪ねてきてしばらく一緒に生活をしていたところ、警察がアパートに踏み込んできて父親が逮捕されたという話しを聞きました。

父親が何かいろいろと品物をくれたのでおかしいとは思っていたとも話していましたが、数年後に聞いた話であったようにも思います。本人が話す以上に、ショックも大きかったのかもしれないと考えることもありましたが、立ち入った話しを聞くこともなかったです。

彼の父親に関しては遠慮もあったのか、あまり具体的な話しを被告訴人OKN以外に聞くこともなかったのですが、泥棒のようなことをやって警察に捕まり、刑務所を出入りしているとも聞き、そのうち窃盗団のようなものにも入っていたような話しを、曖昧でしたが小耳に挟むこともあったと思います。

競馬などギャンブルにものめり込み、泥棒をしても金をつぎ込むような話しも聞いていました。あるいは賭場のような場所に出入りしているような話しであったかもしれません。とにかく人が変わったようにギャンブルにのめり込む一面があったようです。

大きな家も部分的に人手に渡り、別の店が商売をするようにもなっていました。祖父が亡くなったあとではなかったかと思いますが、家の方も別の場所に引っ越していました。昭和61年頃かと思います。

末の妹が茨城の万博のようなイベントで仕事をしているような話しをしていたことがありましたが、ちょっと前に見たテレビ番組では昭和60年と出ていたと思います。その時点ではまだ、前の家で茨城の話しを聞いていたという記憶が残っています。

その妹と最後にあったのも平安閣での結婚式の時ではなかったかと思います。すっかり落ち着いた感じにもなっていましたが、被告訴人OKNらがいなくなった後も、神戸で生活していると聞いていました。

妹は被告訴人OKNの妻となった彼女とも同級生で仲の良い関係でしたが、思えばその後も、妹の話を聞くことはなかったと思います。唯一聞いたのが被告訴人KYNの話しで、父親の殺人事件の時に泣き続けて大変だったという話しでした。

実の娘なので当然かと思いましたが、思い出すのもたまらないぐらい痛手を負ったという被告訴人OSNの妻の話には違和感を覚えていました。被告訴人OKNから聞かされていた話です。

そもそも被告訴人OKNはその妻のことをもの凄く毛嫌いした時期があったのです。不満をぶつけるように反していましたが、原因としてうなずけるような話しとは思えず、反りが合わないという性格的な問題が大きいのではと感じられていました。

それも先ほど書いたお盆休みに神戸から帰省したときのことでした。久しぶりに会ったこともあり、久しぶりに帰ってきたという懐かしさもあるように感じられて、終始上機嫌に思われていましたが、兄の妻のことに関しては痛烈な批判のような話しを並べ立てていました。

憤懣やるかたないとも見えましたが、どうしてそこまで他人にぶつけるような話しなのかと、少々疑問に思っていました。まあ、テレビのドラマにも出てくるような親族間の軋轢かとも思いましたが、よほど相性が悪いのかという感じでした。

平成9年の2月か3月頃と思いますが、宇出津から被告訴人OKNの車に乗せてもらって金沢に行き、そのまま初めに被告訴人OSNの家に行ったことがありました。割と大きくて新しい家なので、けっこう驚いたことも憶えています。場所は米泉あたりの住宅地でした。

妻と思われる女性の姿もありましたが、落ち着いていて気分も良さそうな感じでした。その時も昔のイメージとはまるっきり違うので同一の人とは思えないと考えたのですが、別れたという話しも聞いてはいなかったので、同じ人には間違いがないのだろうと考える他はなかったのです。

増泉2丁目のアパートに住んでいる頃は、水商売の仕事をしているとも聞いていたように思うので、家庭に入って変わったというところもあったのかと思いますが、一番のギャップは昭和56年の夏に初めてあった頃の姿でした。浅野本町ので会った頃にはまだ落ち着いた感じにはなっていたと思いますが。

言い方を変えるとずいぶんと穏やかで、しあわせそうな姿にも見えました。そういう印象が強く残っていたので、間に挟んだような被告訴人OKNの話しにはかなりの違和感を覚えていたのです。

ついでに書きますと、福井刑務所の出所直後からの被告訴人OKNの行動には親切心以上のものを感じていました。頻繁に宇出津にも来ていて、その帰りに金沢に連れて行ってもらうことも何度かあったのです。

まあ、約5年ぶりの社会復帰だったので好意的に受け止めた方がよいという思いもありましたが、それでも度が超えているように思えることがあり、予め予定した段取り通りに事を運んでいるようにも感じられました。

まず、私の父親が残した辺田の浜の家を性分するという話しがすぐに出ましたが、あの物件を見て欲しがる人から問い合わせがあったような話しを切り出されたときには、どうかと思いました。取り分けよい立地条件があるともとうてい考えられなかったからです。

その家の処分に関しては何度か、昔、父親の部下だったという人と電話で話をすることもありました。父親が亡くなったというのも昭和42年か43年のたしか4月と聞いていましたが、そのあとの商売を引き継いでいたのも、その人でした。

私が小さい頃には鵜川の近くの七見の町営住宅のような場所に住んでいて遊びに行ったようなこともうっすらと記憶に残っていたのですが、もともと口数の少ないような人だったので、その後は毎日顔を合わせながらも余り話しをした記憶もありませんでした。

父親がやっていたのはタイヤ屋でヨコハマタイヤの看板が出ていました。高校を卒業すればヨコハマタイヤに修飾することも決まっていることのように母親から話しを聞いたこともありました。

父親が死んだ後もヨコハマタイヤの商売は続けられ、私は店の奥の住居で生活するような状態でもあったのですが、母方の親戚の都合で昭和50年の4月に宇出津に引っ越したのです。

長い間、昭和40年代の終わり頃に引っ越してきたと思い込んでいたのですが、比較的最近になって辺田の浜の春祭りの復活が昭和50年だったという情報を見つけ、それで昭和50年だったとわかりました。

また、宇出津に引っ越したのは小学校4年に進学した4月とも思ってきたのですが、先ほど宇出津小学校の新校舎の落成式が昭和51年だったという情報を知り、それから計算すると4年生ではなく、5年生に進学したときだという計算にしかならないということに気がつきました。

昭和58年の夏に普通免許を取って車に乗り始めた頃には、同じ場所のヨコハマタイヤに行ってタイヤ交換をしてもらったような憶えもあります。その後、ヨコハマタイヤの場所は宇出津新港の方に移ったと思いますが、父親の死後長い間、同じ場所で商売を続けていました。

部下と言うよりは弟分のような関係でもあったと聞いたことがありました。家の処分に関してはなにか色々とあって金沢に電話を掛けて長い時間話しをしていたような記憶が残っています。金沢のヨコハマタイヤで社長になっているような話しも聞いていました。

家の処分のことで必要のある話しをしていたことは憶えていて、電話の回数も一度や2度ではなかったと思うのですが、その内容については現在思い出すことも出来ません。

結局のところ、被告訴人OKNが仲介に入って世話を焼いてくれたかたちで売買が決まったのですが、それも見ず知らずの相手ではありませんでした。4月の初めの時点では契約が決まると同時に手付け金をもらって、すぐに金沢にパソコンを買いに行きました。

裁判のため絶対に必要な投資だと考えていたので全く迷いはありませんでした。

売買の相手は同級生の弟でした。その同級生とは小学生の頃に付き合いが多く、よく彼の家に遊びに行っていました。その弟のこともよく憶えていましたが、当時は私が小学校5年生ぐらいで彼はまだ小学校に上がる前の幼稚園児ぐらいだったように憶えていました。

実際にどれぐらい年が離れていたのかよく憶えていませんが、その幼稚園児ぐらいの頃の印象だけが強く残っていて、その後の成長の記憶もないまま再会したのだと思いますが、昔の面影のようなものは残っていて、同席していた母親の方が昔の面影を残していました。

その同級生の家というのは学者タイプの家で本が山積みなっているような古い家でしたが、同級生も成績が良く学業に専念するタイプで、その後付き合いもなくなっていったのです。私の知る限り子ども時代は被告訴人OKNとの付き合いも全くなかったと思います。

近くに家を買ってその場所で新たな商売を始めることになって、すぐ近くで一応は国道沿いでもある私の父親の残した家の土地が駐車場にするのに必要だったというのも、十分に納得できる話しではありましたが、出所直後にすごいタイミングで売買が決まったものだとも思ってはいました。

つい2,3日前に他の捜し物をしていてたまたま見つけたのですが、平成9年の4月に買ったノートパソコンの領収書のようなものが見つかりました。やはり4月の初めでしたが、思っていたよりは数日、4月の初めの日付になっていました。あるいは10日に近い頃だったかもと思っていたからです。

探していたのは西宅建株式会社の上荒屋の建て売り住宅の広告を撮影した写真ファイルを記録したCDかDVDでした。けっきょく未だに見つけることが出来ずにいますが、不思議とそのファイルが他にバックアップしたデータの中からも見つからずにいます。

その写真というのは羽咋市に住んでいた頃、昼に公園の中でベンチなどの上に置いて撮影したものでした。当時はデジカメの性能も悪く、室内ではきれいに撮れないことがあったので、公園で撮影したのです。

その公園というのは買い物に行くとき裏道として利用していた町外れにある目立たない公園で、ほとんど足を踏み入れたこともなかったのですが、じっくりなかに立ち入ると縄文遺跡のような展示まであって、少々驚いたことも憶えています。

周りに建物というのもほとんどなく、知らずに通過してしまうような公園でもありましたが、ひとつの発見でもあったので、当日のことは印象的に憶えています。

今となって残念なのはその西宅建の広告についてもさほど価値も考えずに、ついでの一応という感じで撮影していたことでした。現物の広告も被告訴人OKNにもらった黒い鞄と一緒にあったはずなのですが、いつのまにか行方しれずになって見つからなくなっています。

その黒い鞄というのも、Nテックの仕事を始めた頃に被告訴人OKNがくれたものでした。他にスーツやカッターシャツのようなものもくれたと思います。N・K興産株式会社の西永ひろみの名刺は、金沢刑務所を出所直後の頃に他のものと一緒に御庁に郵送したものと記憶しています。

ひろみ、の漢字ついては忘れてしまったのですが、宏美ではなかったと思いますし、広美の可能性があるいは一番高いかもしれません。被告訴人OKNの手先となって親子共々、私に対して工作的な活動を仕掛けてきた可能性のある人物です。

<2014-03-27 木 03:51> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

<2014-03-27 木 09:14> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

項目の主題である若杉幸平弁護士の関与ですが、清水建設の弁護士という辺りから、おおきく別の説明にずれていったかと思います。宇出津小学校の盆踊りのときの話しに戻るのですが、そのとき撮影した写真には小木の二つ上の先輩YMさんの姿があったと思います。

私自身、カメラというのは所有した記憶がなかったです。小学校の5年生か6千世の頃に白黒のカメラを買ってもらい、珍しくてしばらくは使っていたのですが、ほとんど使わなくなって、そううちどこにしまったのかも忘れてしまったように思います。

当時はデジカメが世に出る遙かに前だったので、撮影したフィルムはカメラ屋で現像してもらう必要もありました。フィルムを借りて現像に行ったという記憶もないので、出来たものを好意でもらっていたのだと思いますが、誰からもらったのかも記憶には残っていません。

昼に写した写真には被告訴人OKNと彼女、私と私の長男の姿が数枚の写真になっていたと思います。夜の盆踊りの会場で撮影した写真には既に書いたように姫のDM、そして小木のYMさんの姿が写っていて、被告訴人OKNらの写真もあったとは思います。

夜の盆踊りの会場で小木のYMさんに会ったことは、私自身の記憶にはっきりとは残っていないのですが、一人で写っているYMさんの写真が家にあったので、その場にいたことも間違いはないと思っています。

私の記憶にはっきりと残っているのは昼のことでした。当日の可能性が高いと思いますが、場所は崎山の店の前に停めた車の中でのことでした。その車の中でしばらくの間、小木のYMさんと話しをしていたのです。

崎山というのは私が小学生の頃に造成された新興の住宅地でしたが、崎山台地とも呼ばれ海から見ると宇出津の港の左側にある台地で、昔から台地の崖の上に灯台も設置されています。

住所は能登町崎山となっているはずで、能登町宇出津とは別になっていると思いますが、宇出津の町内に含まれ3丁目まではあったと思いますが、各町内が宇出津のあばれ祭りにも参加しています。

ゴミ収集日お知らせサービス53cal(ゴミカレ) ゴミの日メールをお届けします:

能登町[能都]宇出津B地区(川原町、新村本町、新村浜町、昭和町、音羽町、小棚木、大棚木、たなぎ団地、城山、城野町、下岩屋町、上岩屋町、漆原、梅ノ木、平体、大平、源平、崎山1丁目、崎山2丁目、崎山3丁目、崎山4丁目)のクリーンカレンダー http://bit.ly/1hYYfds

取得したURLのタイトルが長すぎたのでツイートする関係で2行に分けましたが、この情報によると崎山は4丁目まであるようです。私自身、崎山の何丁目がどこへんかということも知らずにおりますし、用事もないので崎山に行くことは気まぐれだけで年に数回程度です。

崎山は住所も能登町崎山になっているはずですが、上記のような宇出津の町内というのは住所の記載にないもので、たいていは宇出津新や宇出津山分に番地がついているものと思います。厳密に言えば平体や源平は、祭りも宇出津とは別になっていました。

源平を「げんだろう」と読める人は地元でも今は少ないかもしれません。「おおでら」を大平と漢字で書くと言うことは私自身、たまたま知ってからまだ一年も経っていないぐらいです。

石川県鳳珠郡能登町崎山 - Google マップ http://bit.ly/1rCIhMI ← こちらをみればわかりやすい範囲かと思いますが、谷のようになったところなど高低差もあるので、見ただけではわかりにくい面があり、全体に範囲が狭くも感じました。

Googleマップですが、驚いたことに能都中学校の場所が以前のままの四明ケ丘の場所になっていました。昨年の夏頃だったと思いますがたまたまバイクで行ったとき、跡形もなく校舎がなくなっていたのは驚きました。

以前、宇出津高校があった場所に能都中学校の新校舎が完成し移転したと言うことは知っていましたが、取り壊しになると言う話しは聞いたこともなく、ずいぶんと早い間に完全な取り壊しになったようです。グランドのあった場所にはソーラーパネルの設置の工事をやっていました。

現状のGoogleマップを見ていると、宇出津新港に「クスリのアオキ宇出津店」があることは確認できましたが、ホームセンター橋本の建物には名前がついておらず、ホームセンタームサシ能登店になっていることは確認できない状況のようです。

クスリのアオキが出来てから3年ぐらい経つのかなと思いますが、はっきりとは憶えていません。ホームセンタームサシがオープンしたのも去年の春だったような気もするのですが、これもはっきりとは思い出せなくなっています。ホームセンター不在の時期は不便でした。

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資料写真/能登町周辺 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム

今後もGoogleマップの状況は変わっていく可能性もあるので説明の整合性を保つため、画面をキャプチャーしたものをPicasaウェブアルバムにまとめました。必要に応じて参考にしていただければ処理もいくぶんはスムーズに進むのではないかとも期待します。

能登高校とあるのが石川県立水産高校本校のあった場所でもあります。その後は宇出津高校と合併したり、北辰高校などという校名の変遷もあったかと思います。

参考にしたGoogleマップの航空写真では四明ケ丘の能都中学校の校舎が残っていますが、体育館の裏にあった第二体育館が存在しなくなっていたということも初めて知りました。

その能都中学校の学校から崎山を通って水産高校に行く道は、ほとんど一本道なので、ざっとみておわかりいただけると思います。何度か書いていると思いますが、相撲部の練習に通っていました。その時の人間関係は社会に出てからの人間関係にも多少影響を与えていると思います。

崎山の中心部には50メートルぐらいか間を挟んで2軒の店がありました。小さな個人商店でしたがパンやアイスも置いてありました。買い食いをすることがありましたが、手前の店に入ることの方が多かったとも思います。水産高校に向かって手前の店です。

その懐かしくもある店の前、車は水産高校の方向を向いていたので左側車線で、店の前からは道路の向こう側になりますが、そこに車を停めて話しをしていました。

車には4人かあるいは3人が乗っていたように思いますが、小木のYMさん以外のことは思い出せません。たぶん当時交際していたと思われる宇出津で私の一つ年下のTHという女性がいたので、はとは思われます。

ついでに書いておくと昨夜書いた白菊町のアパートに、THが遊びに来ていたことがありました。神野の同級生KMが連れてきていたのではないかと思いますが、あるいは他の友達関係であったかもしれません。

私としては友達の友達というような関係の一人でしたが、宇出津のO兄弟の家では何度か顔を合わせたことがあるものの、金沢ではそのとき一度だけだったような気もします。会う回数も少なかったです。

あるいは姫のNKさんの女友達の関係で遊びに来ていたことも考えられます。この私の一つ年下の年代の女子というのは男子に負けないぐらいに不良化してもいたのですが、近い世代との交流は乏しい感じで、ずいぶんと年の離れた世代の男子とも交際していたようです。

少し具体的に説明すると、確か私より3つ年上からの世代が「能都ピエロ」という暴走族グループの世代でもありました。私が16歳の頃の昭和56年夏の時点で、グループの最年長者は24歳だと聞いていたと思います。被告訴人OSNの整備工場で働いていた時期も割と長かったように思います。

特徴のある改造車が整備工場というか自動車工場にいつも停めてあったのでよく憶えてもいるのですが、昭和56年の秋になるとやめていたと思います。その後も多少の付き合いは被告訴人OSNとの間にあって、一緒に自宅に遊びに行ったこともありました。

当時は暴走族が全国的な流行の時期でもありましたが、ピークは過ぎていましたし、警察の取り締まりも強くなって活動もやりにくくつつあるという過渡期であったと思います。同時に、暴力団による干渉も増えつつあるという時期でした。

「暴走列島」というバイブルのような写真の本が被告訴人OSNのところに置いてありましたが、全国的にはブラックエンペラーやスペクター、極悪という関東の暴走族が有名で、ピエロというのもその一つでした。

宇出津のグループの一人が船員で横浜の港に行っていて、そこで横浜ピエロという暴走族のステッカーなどをもらったことで、宇出津でピエロという暴走族を立ち上げたと聞きましたが、それは私が中学生の時期でもありました。

世代も離れていたので詳しいことは知らないのですが、解散することになったのは輪島の海士町の連中が干渉してきたのが原因とも聞いたことがありました。なにかトラブルがあったような話しも小耳に挟むことはありましたが、詳しいことはわからないです。

グループのメンバーでも年が上の方の人は24歳の人を除けば、名前を聞くだけで顔も全然知らない人が含まれていましたが、幼い頃から顔見知りという人も何人かいました。

年代が離れるほど知らない人が多くなると言うのも当然かと思いますが、名前や顔をしているという人は3つ上の世代ぐらいまでで、それより上となると個人的に多少の接点があった人に限られるという感じであったと思います。名前だけはちょくちょく耳にすると言うのもその上の世代でした。

私の場合は小学校4年生まで宇出津ではなく辺田の浜に生活していたので、なおさら年の離れた人との付き合いは少なかったと思いますが、人付き合いや交際範囲は広い方だったとは思います。割と抵抗なくいろいろと付き合いをしていました。

姫のNKさんと一緒に金沢市場輸送で市内配達の仕事をするようになったK村さんもそのような離れた世代の人でした。それぐらい年が離れているのか被告訴人OKNから具体的に聞いたことはあったように思いますが、正確には覚えていません。

<2014-03-27 木 13:18> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

*** 平成4年傷害・準強姦被告事件の控訴審における私選弁護人としての木梨松嗣弁護士の対応について
**** 拘置所の接見室のアクリル板に張り付けて見せた平成4年4月2日付北國新聞夕刊の事件報道、という内容を書く予定だった項目
<2014-05-01 木 17:25> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

<<<MARK-ID-5>>> [[#LINK-ID_5]] 資料写真/平成4年4月2日付け北國新聞夕刊 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム

これは特に重要な資料なので上記のように「参考資料」扱いをしましたが、説明にあたっては今からアップロードするTwitterの画像を使います。

Picasaウェブアルバムにアルバムを作成したものは相対パス名を含めて添付するDVDに保存するデータと同期をとっていますが、Picasaウェブアルバムのファイルを使うよりはTwitterに画像投稿したものを使ったほうが何かと好都合なのです。

不十分な点としてはTwitterでは画像のファイル名を保持しないこと、画像サイズが縮小されるらしいこと。普通にはダウンロードできないことがあります。Picasaウェブアルバムだとファイル名もそのままにダウンロードの機能があるので必要に応じてお願いします。

使っているパソコンの画面の大きさによっても違いがあるのですがTwitterの画像は拡大してもさほど大きくはならないので、細かい文字だと識別がしにくい場合もあるかと思います。

また最近になってTwitterで指摘を受けたのですが、iphoneだとPicasaウェブアルバムの画像が見れないそうです。自分の使っているAndroidのスマホでは見れています。同じGoogleのものなので当然かとは思いますが、iphoneで見れないとは意外でした。

今からアップロードすると書きましたが、そういえば先に済ませていました。Twitterはパソコンだけでなく、スマホなどのタブレット端末での使用を配慮した作りになっていると見受けられるので、私自身、活用を強く意識するようになりました。

Twitter / s_hirono: 2014-04-30_11.18.50.jpg ... https://twitter.com/s_hirono/status/461770365937537024

2014-04-30_11.18.50.jpg pic.twitter.com/66CvZ2a1gg

最近気がついたことなのですが、picで始まる部分を他のツイートに含めるとそのままリンクとして再利用ができるようです。ブラウザのURLにそのまま使っても表示されましたが、最近のブラウザはhttpのプロトコルを省略できるものが多いようです。そのまま検索もできたり。

スマホで撮影した写真をそのままパソコンに自動で同期するようにしているのですが、自動で撮影時刻のファイル名をつけてくれています。ただ、日付と時刻の間が半角スペースになっているので、これは自分でアンダーバーに変換しました。前にも説明済みかと思います。

Picasaウェブアルバムの方には一緒に撮影した他3枚の写真もあるかと思いますが、新しくなった宇出津の図書館に初めて入って、北国新聞の縮小版がそのまま棚にあるのに驚きました。

図書館は公民館と同じ建物にありますが、つい先日、4月26日の土曜日にオープンしたようです。「コンセールのと」という名称になっていますが、廃線になった宇出津駅のあった場所にできた建物です。

土日は全然見に行かなかったのですが、月曜日に行くと休館だったので、水曜日に行きました。前の公民館は宇出津小学校の近くにあったのですが、新聞の縮小版は2階の倉庫にあって、係員に頼んで持ってきてもらう必要がありました。

私が福井刑務所を出たばかりの平成9年の頃の係員の人は、わりとのんびりしたような人で、自分で2階の倉庫に行って探してくればよいと言ってくれたので、手間もかからず助かったのですが、時期がはっきりしない探しものとなるといちいち頼むのも嫌で余り利用しなくなったのです。

時刻は5月2日9時52分になっています。STAP細胞の論文疑惑などもあるのでなるべく作成日時を特性するようにしていますが、ずっと前からの私のスタイルでもあるはずです。ずっと後になってからの確認に役立つことも経験しています。

すでに本書において書いてあることもあるかとおもいますが、おさらいをかねて流れを説明したいと思います。正直けっこう記憶が薄れているので、おおまかな説明になるかと思います。

ちょっと脇にそれますが、半月ほど前になるでしょうか平成4年の4月に買ったノートパソコンを起動しました。3年ほど前にも一度は起動していたと思いますが、もう正常に動かないのではと思っていました。

ブラウザのバージョンが古すぎて仕組みも変わっているためか、外部のインターネットには接続できませんでしたが、ローカルのネットワークには接続出来ました。

一つのファイルを見つけたのですが、内容を少し読んだところ、平成10年の11月ころのことが書いてあり、わりとわかりやすく丁寧に書いたあるなと思い、枯れかかった花が水をえたように自然に記憶が活性化するようなところもありました。

本当の目的はパソコン内のデータより、フロッピーディスクのデータを読み込みたかったのですが、FDの機械のほうが壊れた様子で、異音が出てとても読み込めるような状態ではなかったです。

ノートパソコン自体は、比較的最近というか遅くても胚性14年ころには再インストールしていると思います。再インストールのあとほとんど使わなくなっていたので、目ぼしいデータが残っていないことは、その後起動した時にも確認していました。

本当はロータスオーガナイザーのファイルなど欲しかったのですが、私自身の手元にはあるのかもしれないけれど、見つけることができない状態です。金沢地方裁判所には提出していると思うので、御庁にはデータも保管されている可能性はあると思っています。

事件を起こしたのが平成4年4月1日の夜で、その夜のうちに金沢西警察署に出頭しました。翌日か翌々日ぐらいの谷内孝志警部補の取り調べでは、出頭した時刻を教えられ、20時30分と聴いたような気がしますが、現在は少し記憶があいまいで、あるいは20時15分かと思います。

当夜に作成された自首調書では別の刑事さんが取り調べでした。二人いたと思います。翌日からはずっと谷内孝志警部補でしたが、ずっと一人だけの取り調べで、一対一でした。

ちょっとスマホで投稿してみたいと思います。スマホでの文字入力は苦手なのですが、練習もかねてやってみたいと思います。

org-modeには後でコピペすることになります。

家の玄関を開けた時、ちょうど能登町役場からの12時の音楽が聴こえてきました。スマホからツイートしたのは2件でしたが、org-modeにコピペをすると、手間がかかった割に文字数の少ないことに驚きました。

HootSuiteのいうWebアプリで確認するとスマホの投稿は「11:36am via Twitter for Android」のようになっていました。

普段の投稿は私自身が登録したアプリ名になっています。「12:42pm via 告訴状-2013-金沢地方検察庁御中_API」のようになっています。

直前にAコープ能都店で買ってきた刺し身をスマホで撮影してテレビをつけると12時3分になっていました。テレビには画面左下に時刻を表示するように設定しています。大阪の方でストーカーの殺人事件があったというニュースをやっているところでした。

50代の加害者というのはわかったのですが、途中から見たので被害者の年齢や年代もわからず。気になるニュースを見落とした時のために、毎日、12時と19時のNHKのニュースは録画をするように設定しています。録画が失敗することもあるのですが、今回は大丈夫でした。

ストーカーはすっかり社会問題として認識されるようになりましたが、私が初めて知るようになったのは自分が福井刑務所を出てすぐの頃でした。刑務所でも2級生の自由チャンネルだったので、比較的よくテレビは見ていたのですが、出る前は知らなかったように思います。

録画したNHKニュースには今日から始まった小木港の「とも旗祭り」も紹介されていました。その後には同じ石川県内ニュースで金沢港の大型客船入港に関するニュースがあって、終わりの方に金沢港付近の航空写真のような映像が出てきました。

テレビの画面をスマホで撮影し、Twitterに写真投稿しました。

2014-05-02_13.10.58.jpg pic.twitter.com/ueQFQZfQCJ https://twitter.com/hirono_hideki/status/462082824304992257

2014-05-02_13.10.58.jpg pic.twitter.com/ueQFQZfQCJ

文字数が少なかったのか今回はツイートの本文が省略されずにタイトルとして取得できたようです。この金沢港は私の事件の舞台でもあります。金沢港の航空写真自体は今までにネットで見たことがありました。海保提供の写真資料のようなものであったかもしれません。

時刻は5月3日10時02分を過ぎたところです。昨日は小木港の、とも旗祭りを見に行き、アジ釣りをしてきました。アジングです。

月曜日に、コンソールのと、に行った時、ウミネコの鳴き声が聴こえてきました。上空を見るとウミネコが飛び回っていました。町中なので珍しいような気持ちで見ていました。

昨日の2日に行った時も、建物の前に行くと同じくウミネコの鳴き声が聴こえてきて、空を見上げると今まで見たことがないぐらい、はるかに高い上空を旋回するように飛び回っていました。

2014-05-02_10.29.54.jpg pic.twitter.com/WbZDF6jpEr

Twitterにアップロードするした写真です。Twitterだとリンクになっているはずです。前にも説明していると思いますが、picで始まる部分をブラウザのURL入力欄に入れてエンターキーを押しても写真付きツイートを開くことができると思います。バージョンの古いブラウザではダメかも。

スマホで空に向けて撮影したものですが、自動でピント調整が入ったのか鳥が割と近くに見ていますが、実際は見たこともないぐらいはるか上空でした。ウミネコの姿をみると観察したり、写真にすることが多いです。

2014-05-02_18.44.21.jpg pic.twitter.com/Bt4wrLchgR

こちらは夕方の小木港ですが、小木から姫の方に向かうウミネコの群れが、どれも海面すれすれの低空飛行をしていました。南西の風だったので向かい風に近かったとは思いますが、余り見たことのないウミネコの集団行動でした。朝や夕方に移動するのはいつものことです。鵜の群れは割と低空飛行が多い。

同じ日にNHKの県内ニュースで金沢港の航空映像をみたこともありますが、鳥瞰、俯瞰というのはこのことかと思いましたし、なによりウミネコがあそこまで上空を飛ぶとは意外でした。上空を旋回することが多い、トンビでもあそまで上空を飛んでいるのは見た覚えがなかったです。

ウミネコは2012年に2回、アジ釣りをしていて釣り上げたことがありました。Twitterのアイコンに使っているのもその時の写真です。

2012年5月5日小木港カモメ・尺アジ - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/114099790846205945578/2012#

2012年6月5日小木港・ウミネコ - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/114099790846205945578/201203?authkey=Gv1sRgCLWLuYusyPvfYg#

デジカメが普及してインターネット上の写真などで、ウミネコがすごい形相をしていることは知っていたのですが、間近で見たのは初めてで、その色の鮮やかさにも驚かされ、まるでこの世の生き物ではないようにも思えました。そもそもウミネコとカモメの区別も考えてことがなかったです。

少し離れたところから見ているとは全く印象が違います。海の近くで生まれ育ってきたので、小さい頃から見ている鳥だとは思うのですが、2010年の秋にアオリイカ釣りを初めて海に立つようになる前は、ほとんど意識をすることもない存在だったような気もします。普通に海にいるカモメだと。

2012年6月5日小木港・ウミネコ - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム http://bit.ly/1ugr7Wz

この精悍で尋常でない目を見た時、能登警察署の大家刑事に言われた「神様の目線」というのを思い出しました。鴻鵠という言葉がありますが鳳凰も想像上の鳥だと聞いていました。鳳凰は神輿の飾りにもなっているのではと思いましたが、身近にそれに近いものを感じました。

天衣無縫という言葉もありますが、綺麗な毛並みとその軽さにも驚き、色も鮮やかで、極彩色とはこのことかと思いました。ありふれた身近な存在で、間の抜けた声にも聞こえる鳥なので、なおさら不思議に思いました。

ウミネコもカモメ科ウミネコということなのでカモメの仲間と思いますが、カモメといえば「カモメの水兵さん」を思い出します。知らない人がほとんどだと思いますが、私の場合は次の明治時代の曲も思い出すことが多いです。平成3,4年ころ、トラックを運転しながらちょくちょく聴いていました。

勇敢なる水兵 - YouTube http://www.youtube.com/watch?v=zPekYvk-LVs

この曲を聴くと決まって能都町出身の久田船長の話を思い出します。時代も同じ明治だと思います。Twitterでは何度か触れているのでTwilogで検索すれば、いつ頃どのように触れていたのかもわかると思います。

廣野秀樹(@hirono_hideki)/「久田船長」の検索結果 - Twilog http://twilog.org/hirono_hideki/search?word=久田船長&ao=a

2013年11月20日(水)が初めに取り上げたツイートになっているようですが、もっと前にも取り上げていたことがあるような気もします。検索というのも機械的な処理なので完全ではないのかとも考えますが、Twilogの検索機能は他のブログなどの検索機能よりしっかりしているという印象です。

Twilogの検索精度について気になったので次のように「ミニブログ」で試してみました。これは私が2010年4月2日にツイッターを初めて2件目の投稿に含まれた文字列です。ほとんど使っていない用語かと思いましたし、事前にダウンロードしたcsvファイルでも確認しました。

廣野秀樹(@hirono_hideki)/「ミニブログ」の検索結果 - Twilog http://twilog.org/hirono_hideki/search?word=ミニブログ&ao=a

% wc -l hirono_hideki140503.csv というダウンロードファイルの行数を調べるコマンドを実行したところ、69540 という結果が出ました。ファイルサイズは16Mあるようです。

告訴状の参考資料_2014-05-03_12:19:57_Screenshot.png

この撮りたてのスクリーンショットではツイート数が65,059になっていました。Twilogはリツイートした他人のツイートも含まれていることを思い出し、確認もしましたが、最初からはそのような設定にしていなかったかもしれません。

久田船長のに関しては宇出津小学校の5年生か6年生の頃に先生に話を聞きました。授業の中のお話だったと思います。同じ能都町の鵜川の出身だと聞いていましたが、その頃の宇出津小学校の校長先生の名前も久田という名前でした。久田というのは最近は聞きませんが、宇出津にもある名前でした。

私が3歳ぐらいの時に死んだと聞く父親の姉と聞いていたと思いますが、そのおばさんが鵜川に住んでいて、何度か母親に連れられてその家に行った記憶があります。おばさんの顔もどんな家だったかも全く記憶には残っていないのですが、鵜川には他の用事でもよく連れて行かれていました。

ある日の昼、鵜川のおばさんの家にいて、なにか文房具が必要になり、小さな店に飛び込みで入ったのですが、その時、久田校長が出てきたのでとても驚いたことも覚えています。温厚そうな学者のような雰囲気の高齢の校長先生であったと記憶しています。

昭和63年の12月から平成1年の3月ころにかけ、金沢港でイワシの運搬の仕事をしていたことは、これまでに何度か説明をしていると思います。初めてのイワシの運搬の仕事の時でしたが、その時は浜田漁業の平井ボディ車も2台は参加していました。

一人は若い人でしたが、小木の漁師と聞いていたかもしれません。話し言葉はいかにも珠洲の人という感じであったと記憶しています。3つか4つほど年上だったようにも覚えていますが、名前も憶えておらず、話をすることも多くはなかったという記憶です。

その人は平ボディ車でしたが、もう一台はダンプだったような気もします。植木職人をやっているという人が暇な時期ということでイワシの運搬をやっていたようです。この人物は2回めのイワシの時期にいたような気がします。竹林や小林健一がイワシの仕事をしていた頃です。

この2回めのイワシの時期というのはだいたい平成1年の12月から平成2年の3月ころということになると思いますが、前回とは仕事の規模が倍以上になっていました。北陸ハイミールができていたからで、北海度の釧路市の愛国運輸のダンプもけっこうな台数が来ていました。

北陸ハイミールのことをどれだけ書いたか思い出せないですが、ミール工場としては日本海側最大規模と聞き、一日に1600トンの処理が出来ると聞いていました。浜田漁業金沢工場の方は600トンと聞いていたように思いますので、3倍ということになりそうです。

一台に30トン運ぶとすると53台分という計算にもなりそうです。ミールの工場は一度機械を止めると、動かすのに数十万円の費用がかかるとも聞いていました。具体的な数字は忘れましたが、高くて80万円と聞いていたように思うし、安くても50万円だったように思います。

浜田漁業金沢工場の工場の方は屋内プールのような溜めてある場所にイワシを降ろすものでしたが、北陸ハイミールの工場は違っていました。うまく説明はできないですが、ゴミ回収の車のような粉砕する場所に降ろすもので、それが直角のコンベアのような階段で10メートルほど上へと。

とにかく落ちたらひとたまりもないという感じでした。その落とす場所には必ずギリギリのところで、後ろのバッタリとか呼ばれた荷台の板を外す必要がありました。開けた瞬間に26トンぐらいのイワシが流れるように飛び出すのです、こぼれないようにするためにギリギリ以上にバック。

とにかくいったん溜めてから処理するのではなく、落としたところから処理が始まるという構造になっていました。ミールというのは魚粉のことです。焼いて粉にするようにも聞いていました。あの機械に落ちてしまえば、人間も粉になるのかと想像したことはありました。

イワシの運搬では必ず台貫に乗って積載量を記録していました。金沢市場輸送の2台の大きなダンプだと30トンを超えることもあったように思いますが、平ボディ車では多くて28トン、26,27トンが多かったと思います。潰れてぐたぐたになったイワシほど、重く積めました。

新鮮なときは本当に捕れたてのイワシで、金沢港の堤防を出た先で30分ほどの漁場だと聞いていました。実際に、船に乗ってイワシの漁を見学したこともありました。イワシがいないときは佐渡ヶ島の近くや、京都の舞鶴沖まで行くとも聞いていました。運ぶ時間が長いと揺れで潰れていました。

イワシがほとんどでしたが、サバなど他の魚も混じっていました。大きなアンコウを見つけたこともありますが、そういう変わった魚を見つけるのは楽しみでしたし、イワシを含め積んだ魚は持ち帰りも自由でした。魚は余り食べなかったので、余り持ち帰ることはなかったのですが。

潰れて腐ったような魚も運ぶので、けっこう汚い仕事でもありましたが、寒い時期だとそれほどに気になるものでもなかったです。トラックの洗浄には工場でもらった苛性ソーダというのを使っていましたが、取り扱いに注意はいるものの、ものすごくよく落ちるので、さほど大変でもなかったです。

私は羽咋市にいる5年前まで、鋳物工場で1600度の溶鉱炉の仕事もしていました。落ちるとそのまま足が消えてなくなるとも聞いていましたが、作業をしている時の緊張感というか危なさは、北陸ハイミールの工場のほうが上だったと思います。他に危ないとかいう話をする人もいなかったのですが。

イワシというか魚は海水を含むので常に現場が濡れているというのもあったのかもしれませんが、安全策のようなものが全く感じられず、問題にされないような現場でもありました。何か手すりのようなものでもあれば、いざという時、掴まれるという安心感もあったのかと思います。

告訴事件と関連のある金沢市内の場所 https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zW8zvRyoSBg4.kcVzYakZOUcc&hl=ja

イワシの仕事に関しては上記のような説明のための地図も以前に作成しています。自分でもちょっとわかりづらい部分があるかと思うので余りお勧めをする気にはなれないのですが、「金沢市場輸送と市場急配センター」というレイヤーが表示され、目印が星マークになっているかと思います。

大野醤油の前の辺りの水揚げの岸壁では浜田漁業のプレハブ小屋がありました。1回目の時期の頃は、ちょくちょく利用していたというか小屋の中に入っていた記憶もあるのですが、2回目の時期は、ほとんど中に入ったような記憶もなく、皆、トラックや車の中に待機していたように思います。

2回目の時期は、市場急配センターの小林健一が現場の監督のような立場になって、こまめに連絡を入れていてくれたので、小屋の事務所に顔出す必要もなしに済んでいたのかもしれません。1回目の時は数人の浜田漁業の幹部社員のような人の姿があって、小屋の中にいることが多かったと記憶しています。

小林健一はポンコツのワゴン車の中にいることがほとんどでした。かなりポンコツのワゴン車で、ウサギの絵が書いてあり、ラビット号などと呼ぶこともあったと記憶しています。荷台の後部の方はなにか板張りのようになっていて、座席もなかったように記憶しています。

ガスコンロを持ち込んでラビット号のなかで、バーベキューをすることもあり、小林健一はいつも大樹氷の焼酎のペットボトルを携行していたように思います。当時はまだ4リットルというサイズはなかったように思いますし、焼酎の大きなペットボトルというのも世の中に出始めた頃だったように思います。

仕事っぷりは真面目て、明るく素直な好青年だったというイメージが今でも強く残っている小林健一ですが、改めて考えても、最高裁判事の息子だったとか、石川県警の元機動隊員の白バイ隊員だったとか、加賀市内で派出所勤務をしていた警察官だったというのは、違和感の大きい話です。

事故処理に向かった事故現場で、ソープ嬢と鉢合わせになったという話をしていた時は、山城の交番と行っていたような気もしますが、話の内容では山代温泉に近い、国道8号線上の事故という説明であったように印象に残っています。潜水道具の話の時は、小松市の警察にいたような話でした。

久田船長の話に戻しますが、浜田漁業の若い運転手がプレハブ小屋で、船が沈没し船長が久田船長のまねをして船と運命を共にした、というような話をしたことがありました。蛸島丸船団のことだったと思いますし、会話の流れとしてもそれ以外は考えにくいように思います。呆れた話のような語り口でした。

蛸島丸というのは石川県珠洲市蛸島町に本社を置く浜田漁業のお抱え船団でした。運搬船は一番大きいので400トンと聞いていたように思います。調査船というのもいました。イワシをとって運ぶのが運搬船でした。よく覚えていませんが全部で7,8隻の船団だったように思います。

蛸島港は珠洲市では一番大きな漁港ですが、蛸島丸の船は大きすぎて港に入れないと聞いていました。近くの飯田港に入ることがありましたが、その時は金沢からイワシを積みに出向いていました。珠洲市の中心部が飯田です。自分が中学生の頃は、新潟県の佐渡ヶ島に行く汽船も出ていました。

北陸ハイミールのお抱えとなったのは輪島丸船団でした。輪島市の漁港では海士町と輪島崎町があって仲が悪いとも聞いていましたが、輪島丸はその輪島崎町の船だと聞いていました。現在でも小木港で見かけることが多いです。佐渡方面の漁に出るときは、小木港に停泊するとか聞きました。

蛸島丸はもう長い間見たことがないです。飯田港でも大きな漁船が停泊するという姿は見たことがないですが、めったに行くことのない場所なので実際のことはわかりません。浜田漁業のトラックも4,5年前に一度見かけたような気がするのですが、もう長い間一度も見かけたことがないです。

主要道路だと金沢から珠洲市への行き帰りに、宇出津は通らないのでそう不思議はないのですが、たまに珠洲の方に行くことがあっても、見かけたことはないです。思えばネットで調べたこともないので、ちょっと検索をかけてみようかと思います。

大型倒産速報 | 帝国データバンク[TDB] http://www.tdb.co.jp/tosan/syosai/3909.html

こちらの情報によると倒産したようです。2013年の1月では売上が7億円にまで落ち込んだとか書いてあるので、割と最近になって倒産したようですが、その前から業務自体はかなり縮小されていたのかもしれません。倒産していたことは今日まで知らずにいました。

将来的にデータがなくなるかもしれないので、スクリーンショットを撮りました。URLとタイトルも固定化されたものにはなっていない可能性もありそうです。

告訴状の参考資料_2014-05-03_16:46:44_Screenshot.png pic.twitter.com/S85t0cmzKi

5月2日の金曜日の日付が書いてあって、最終営業日の情報なのかと思ったのですが、気になって北陸中日新聞で確認したところ、今朝の朝刊の記事になっていて驚きました。虫の知らせがあったとは思わないですが、初めて調べた日に前日の倒産情報に出会うとは、すごい偶然です。
また中断があって、時刻は5月6日午前10時06分を過ぎたところです。テレビをつけてNHK連続小説ドラマ「ごちそうさん」の総集編を観ているところでもあります。

中断している間に色々あって、たまった宿題が一杯あるような状態ですが、前よりも方向性が定まってきたようにも思っています。事実や問題を無理に整理してまとめていくのはやめておこうかとも思っています。そう思っていたところですが、総集編というのも参考になるなと思いながらテレビを観ています。

NHKの連続小説ドラマというのは自分が子供の頃からあったのだと思いますが、昨年の6月ぐらいまでほとんど見たことがなく、無関心でした。たんに無関心というだけではなく他に理由もあったのですが、そういうことも説明をしておきたいと思います。

正確な時期を確認するためTwilogでツイートを調べておきたいと思います。「あまちゃん」と検索すれば出てくると思います。

告訴状の参考資料_2014-05-06_10:21:53_Screenshot.png pic.twitter.com/rKdsoQL25q

告訴状の参考資料_2014-05-06_10:23:48_Screenshot.png pic.twitter.com/J5dWNqIKLe

上記2点は、非常上告-最高検察庁御中_ツイッター(@s_hirono)のアカウントの写真付きツイートの本体部分のコピペです。picで始まる部分関してURLとして機能することなど説明済みかと思いますので、これからは一行表記で済ませたいと思います。

本書の記載は「参考資料」という大見出しの部分など例外を除けば、一行ごとに告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(kk_hirono)のアカウントにツイートしています。APIの投稿なので送信エラーで失敗する可能性があること、確認はいちいちしていないこともこれまで説明済みかと思います。

画像を含めた写真付きツイートに関しては、ちゃんと送信が成功しているか確認をするようにしています。

picで始まる部分は告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(kk_hirono)のツイートでも投稿された写真のように表示がされ、リンクにもなっているはずです。次のように。

告訴状の参考資料_2014-05-06_10:53:32_Screenshot.png pic.twitter.com/TDFkWo7Qoi

上記画像のブラウザのURL欄にはhttps://twitter.com/kk_hirono となっています。これは最新のツイートから順番に表示するもので、内容は常に更新されるのが通常です。個別のツイートのURLは次の例によれば3分の部分がURLになっています。

告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター @kk_hirono · 3 分

3分のリンクを開くとURLは次のようになります。

https://twitter.com/kk_hirono/status/463495593357103104

URLだけでは内容がつかめないので、以前はHTMLヘッダのページタイトルを取得するようにしていました。前にも説明していると思いますが、Twitter社の現在の仕様だと次のようになります。独自のフォーマット(書式)ですが、ツイートと一見してわかりやすくもあります。

Twitter / kk_hirono: 本書の記載は「参考資料」という大見出しの部分など例外を除けば ... https://twitter.com/kk_hirono/status/463495593357103104

これはTwitterの本家とも呼ばれますが、twitter.comのことです。私もちょっと前々は他のアプリでTwitterを見たり投稿していたのですが、色々と改善された部分もありますし、個別のアカウントのツイートを見るときはやはりtwitter.comを使うことがおおいです。

twitter.comの部分は全角英数字にしています。半角英数字だとエラーが出て投稿できないからです。セキュリティ上の理由だと思いますが、これもTwitterの仕様の一つだと思いますが、私は経験をしてたまたま知りました。

ここでちょっとTwitterの仕様についていくつか説明をしておきたいと思いますが、HTMLの基礎でもあります。

上記のURLで説明をしますが、https://という部分は通信に使用するプロトコルの指定です。これも半角だと思わぬ問題が生じうる場面があるので一部に全角の記号を使いました。プログラムを使った処理では半角の記号は要注意です。場面によってはエラーが起こりますし、対処も必要になります。

HTTPSとは 【 HTTP over SSL/TLS 】 - 意味/解説/説明/定義 : IT用語辞典 http://e-words.jp/w/HTTPS.html ← こちらにも説明がありますが、暗号化されたブラウザで扱うHTMLデータの通信です。

https://twitter.com/kk_hirono/ の部分までがドメインです。それより後ろの部分は通常だとWebサーバのドキュメントルートからのファオルダの/で区切った階層になるはずですが、恐らくはWebアプリでプログラムを処理するためのキーワードやデータになっているはず。

前にも説明したと思いますが、httpのプロトコルはWebサーバの80番ポートに接続してリクエストを行います。ドメインのみの場合は通常はドキュメントルートに存在するindex.htmlというファイルをhtmlの文章として表示することが基本かと思います。

Webサーバの設定によってはindex.phpが呼び出されるはずです。phpはWebアプリでよく使用されているプログラム言語です。ただのHTMLファイルが静的と呼ばれるのに対して、プログラムを使ったWebアプリは動的サイトとも呼ばれているはずです。

新聞社のWebサイトの記事によくあることですが、動的なページにリンクを貼ると、内容がすっかり変わってしまってリンクを辿れなくなることがあります。ツイッターでの弁護士にもよく見られた傾向ですが、最近では見かけなくはなっています。

Twitterでアカウントを作って情報の発信をするような人はそれなりの経験や知識もあることと推察はされますが、それでもわかっていない人もいるようなので、改めて注意点を明示しておきたいと思いました。

基本的な事柄なのであえて取り上げるまでもないとも思ったのですが、これから私が今日初めて気が付き経験した大きな誤解を生じそうな問題の説明の基礎として、書いておくべきかと思ったのです。

本気か事実かも確認はできませんが、平成18年10月に実際に対応を受けた金沢中警察署の山出警部補も、ホームページ(たぶんWebページやWebサイトのこと)の閲覧は若い衆(たぶん部下のこと)にやらせている、と力強く語っていた警察官、捜査員の人もいました。

もう一例をあげると、三井環という人がいました。最近は名前を見かけなくなっていますが、検察の裏金問題を告発しようとして逮捕され実刑判決を受けた人です。余り簡単に説明を書くと誤解も生じそうなので、一つインターネット上の情報を紹介しておきたいと思います。

三井環 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/三井環

ウィキペディアの情報の信ぴょう性は、実際の裁判や検察官の扱いとしてもこれまで問題にされている例をみていますが、客観的な立場からの記述である程度の裏付けや信ぴょう性はあるものと、私は考えていますが、個人差もあるところかと思います。

確認のためざっとですが目を通したところ、いくつか初めて知るような情報もありました。同期より昇進が遅れていることに不満を募らせていた、というのは初めて見た情報と思えますし、全体的な印象にもいくらか影響を与えそうな気がしました。真偽の程もわかりませんし、具体性も今ひとつです。

元大阪高検公安部長という肩書は確認できましたが、並べてある経歴では次関検事の経験はあるものの検事正の経験というのはないようです。読みながら気になっていたところに、昇進の不満のことが出てきました。

なにかの記事で読んだと思いますが、三井環氏は検察を批判、追求するような運動をされていて、連絡のためのメールの管理や処理は事務員の女性に任せている、というような紹介のされかたがされていました。私の現在の記憶のみで書いたので表現を含め、多少の誤差も混じっているかもしれません。

そういうこともあるので私は客観的なデータを記録するようにしています。もっと前からやっていたはずですが、方針やスタイルが固まったのは次の2つのブログからで、それ以前のものとなると作った私自身ですら把握は難しくなっていると思います。

2013-告訴事件に関する司法・社会・世相・時代の参考情報/金沢地方検察庁御中 http://hirono2013sk.blogspot.jp/

2014-告訴事件に関する司法・社会・世相・時代の参考情報/金沢地方検察庁御中 http://hirono2014sk.blogspot.jp/

記事の件数も多いので年ごとに別のブログにしました。公官庁の年度は4月1日からスタートだと思いますが、普通に1月1日からをその年度にしています。Bloggerのブログのサービスは100ぐらいのブログの作成はできたかと思いますので、毎年1件作ったところで、まだまだ余裕があります。

しかし検索でしらべるのに複数のブログを対象にすると手間も掛かりますし、ブログの検索というのは私自身精度にも疑問の経験がありますし、Webサーバの負担も大きいのではと思ってきました。Bloggerではないと思いますが、エラーが起こったりやたらと時間のかかること、結果が読みづらい。

そこで私はGoogle+ページを活用することにしました。上記2つのブログの記事は、手作業でのミスで漏れはあるかもしれませんが、全件をリンクとして登録しました。Googleは検索サービスなので、処理も早く精度も期待できます。

Bloggerも同じくGoogleのサービスの一つにはなっていますが、昔読んだ情報によると、買収した会社のサービスを受け継いだというような話もありましたし、ブログと検索サービスというのも、本質的な違いもあるのではないかと考えています。

実際に試した体感としてもGoogle+が良かったです。Google+は後発のSNSでTwitterとFacebookの中間的な特徴もありますが、他のSNSと同じくアカウント個人に紐付けられているので、より客観性のありそうなGoogle+ページを私はより活用しています。

告発/告訴_金沢地方検察庁御中 - Google+ https://plus.google.com/b/100408804474159646499/100408804474159646499/posts

上記がそのGoogle+ページです。「三井環」と検索をしてみましたが、該当はなかったです。URLのタイトルをリンクにしているので、タイトル中にキーワードが含まれている必要がありそうです。言い換えれば本文中の文字列は存在しないので対象にもならないわけです。

ほかにこのGoogle+ページにはHootSuiteというWebアプリのサービスを使ったTwitterの投稿で同じ内容の同時投稿も行うように設定していますが、こういうのも完全な同期にはなっていないのではと考えていますし、投稿後の確認もしてはおりません。

添付資料のディレクトリで「 % grep -r '三井環' ./*」とコマンドで検索をしてみたところ、以前にダウンロードしたTwilogのcsvファイルの内容だけがヒットしました。パイプで「メール」をキーワードに絞りこみを掛けてみたのですが、該当はなかったようです。

Googleで「三井環 事務員 メール」などと検索もしてみたのですが、探す情報はみつかりませんでした。時間と手間を掛けて調べれば探しだせるかもしれませんが、これまでにもこういう調べ物で時間を使った経験があり、紹介した2つのブログのようなものを作りました。

普通のブログへの記事投稿ではなくAPIのプログラムを独自でスクリプトにしたものを使っているので、投稿の手間も出来る限り省力化しています。まともにやっていたら倍以上の時間がかかるかもしれませんし、Web上のブログサービスでしかデータを管理、把握できないことになります。

落合洋司弁護士(東京弁護士会)が高検つまり高等検察庁の検事のことを、出世街道から外れた廃棄物処理とブログで発言していたことも印象に強く残っているのですが、Hatena::Diaryのブログで色々と検索をやってみましたが、該当は出なかったです。次のブログです。

弁護士 落合洋司 (東京弁護士会) の 「日々是好日」 http://d.hatena.ne.jp/yjochi/

告訴状の参考資料_2014-05-06_13:26:07_Screenshot.png pic.twitter.com/BumE3aZmNM

Hatena::Diaryのブログはサイドメニューにあるカレンダーの日付部分のリンクを開くと上記のツイートの画像のように、一覧でカレンダーが系譜のように確認できるという特徴があります。

私自身Hatena::Diaryの管理をやっていたので知っているのですが、知らない人や気づかない人が多いと思います。他のブログで見ない特徴ですが、日記スタイルの独自仕様になっているので、一般的なブログとは似て非なるところかと思います。

落合洋司弁護士(東京弁護士会)は2004年の6月からそのブログを始めたらしいことが確認できました。古い記事は検索処理の対象外になっているのかもしれないので、実際に本文中にある特徴のある文字列を使って試してみます。

告訴状の参考資料_2014-05-06_13:36:23_Screenshot.png pic.twitter.com/HXunBtjs8c

最初と思われるエントリの本文に含まれていた「ワークショップ」という余り聞きなれない言葉で検索をしてみたところ、上記ツイートの画像にあるような結果で、ぞろぞろとたくさん出てきて最初らしいツイートも含まれていました。すべての記事が検索の対象になっている様子です。

ブログ内検索を詳細と一覧のオプション選択で切り替えることが出来るのもHatena::Diaryの特徴ですが、他のブログでは不思議なぐらい見かけない機能であって、ほとんどは記事の本文を含めてぞろぞろと出てきます。本文の長いものが含まれているとページ送りにもなって甚だ効率の悪い検索。

改めて同じHatena::Diaryの現在プライベートモード中の自分のブログを確認したのですが、最初の投稿が2005年12月になっていました。次のブログです。

日暮れて途遠し http://d.hatena.ne.jp/hirono_hideki/

当時はブログというサービスの存在自体を知ったばかりでした。最初に始めたのはgooのブログだったと思いますが、Hatena::Diaryのブログを始めたのは長くてgooのブログを始めてから一月後だと記憶しています。

2005年11月であった可能性はありますが、10月であったことはなりえないはずです。ちょうどブログというものを知り自分で始めた頃に、出会ったのが落合洋司弁護士(東京弁護士会)のブログでした。

元検事の弁護士がブログというかたちで個人的な情報発信をしていることには驚きましたが、2004年の6月から始まっていたとすると、少なく見て1年3ヶ月間は、その存在すら知らずにいたということになりそうです。草分け的な存在とも思いますし、現在も継続しています。

ツイッターとの掛け持ちでやっているということも一因かと思いますが、以前ほど記事の更新頻度は高くないと思います。私もブログの記事のことはツイートの紹介で知ることが多いです。ブログの方でTwitterとの連携の設定をしているのかとも思われます。

落合洋司弁護士(東京弁護士会)に関しては、私の3つのツイッターアカウントのすべてをブロックされていますので、どのアカウントを使ってもリツイートはできません。そんな不便もあって、ブログで記事として残し管理するようにもなりました。

ツイッターのブロックという機能については実際にアカウントを持って使っていないとわかりづらい部分もあるかと思いますが、ブロックに関するTwitterの仕様もこれまでかなり変遷してきました。今後も仕様変更がないとは限りません。

具体的なやりとりがあってブロックをされたわけではないですが、私の方からメンションは送ったことがあり、それを含めご本人の解釈と判断によって、ブロックという対応をしたのだと思います。視界から遮るという意味もあるのではと思いますが、解釈も運用も個人差が大きいという感じです。

ブロックというTwitterの機能に対する解釈や運用ということですが、落合洋司弁護士(東京弁護士会)に関しては、「田んぼの草刈り感覚でブロック」とツイートしているぐらいなので、推して知るべしところはあるかと理解しております。

ブロックをされたので逆恨み的に遠巻きに粘着していると、あるいは理解されているかもしれませんが、ブログをはじめその発言は現実的な理解を超えて看過しがたいものが多いです。とりわけ、警察、検察に対する批判は凄まじいとも言える内容が散見されます。

時刻は5月10日18時28分を過ぎたところです。今回もかなり長い時間記述の中断が続いていましたが、技術的な前進もあり理想的な態勢に近づけたと思っています。これまでは後々不便も出るだろうという不満もあり、中途半端な状態で進めて来ましたが、比較的早い段階で対処出来たと思います。

技術的な前進というのは、パソコンのスクリーンショットの自動化とデータの管理体制のことです。Twitterの写真付き投稿とも連動しているのですが、この辺りは前提に及ぼす影響もあるので、趣旨を理解してもらうためにも項目を分けて説明をしておきたいと思います。

この項目は次の金沢港の航空写真に関する説明から横道にそれたり中断を繰り返してきたと思いますが、書いておきたいことがまだいくつか残っています。横道にそれたといっても無関係なことを書いたわけでもありません。関連付けとしての説明ということも意識しています。

2014-05-02_13.10.58.jpg pic.twitter.com/ueQFQZfQCJ

非常上告-最高検察庁御中_ツイッター(@s_hirono)の投稿として探したのですが見つからず、廣野秀樹(@hirono_hideki)の投稿になっていました。写真ファイルもスマホで撮影したものようです。

写真は5月2日の13時10分に撮影されたもので、投稿時刻は「13:15 - 2014年5月2日」となっているようです。10日も経過していないのに、忘れたというか勘違いしていたこともあり、探すのにも多少時間がかかりました。

写真をコピーして別名とし、それを非常上告-最高検察庁御中_ツイッター(@s_hirono)の方に写真付き投稿しました。書式はスクリーンショットのファイルとはことなっており、スクリプトで定型的に書式を整えていますが、撮影日時はExif情報を使っています。

NHK石川県内ニュースでの金沢港の航空写真をテレビの画面として撮影_2014年05月02日13時10分58秒.jpg pic.twitter.com/6Fyhf6gyas

時刻は5月11日7時12分を過ぎたところです。昨夜は20時ころからずっとテレビを観ていました。久しぶりに2時間の刑事ドラマを観ましたが、そのドラマの内容に触発され、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に@付きのツイートをしました。

その関連情報をスクリーンショットとして保存したので、非常上告-最高検察庁御中_ツイッター(@s_hirono)に投稿したものですが、次にTwilogから写真付きツイートの内容を転載しておきたいと思います。

2014-05-11-000708_アクセスしようとしたページは表示できませんでした。.jpg http://pic.twitter.com/AMe18Q17eH

2014-05-11-001024_弁護士矢部善朗のメインブログです。.jpg http://pic.twitter.com/ar9MtOZhjA

2014-05-11-001249_http://yblabo。com/ 500 Internal Server Error アクセスしようとしたページは表示.jpg http://pic.twitter.com/Rm08uPn3NH

2014-05-11-001858_遠隔操作事件で最近警察のリーク報道が少ないのは、リークしたがる幹部連中が理解できないレベルの話で捜査が進ん.jpg http://pic.twitter.com/Ik490uXxXW

2014-05-11-055655_% locate 守秘義務.jpg http://pic.twitter.com/cMvxYFMYbP

2014-05-11-061426_モトケン (motoken_tw)さんはTwitterを使っています.jpg http://pic.twitter.com/JZWD9nHliD

思惑通りにTwilogからコピペしたものをそのまま流用出来たのですが、思わぬ処理も含まれていました。Twilogではhttp://がついたデータとして取得されるようです。

さらに、httpのプロトコルをつけたURLは、APIで投稿した告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(kk_hirono)のタイムラインには表示されず、個別のツイートを開いてもhttp のプロトコルをは除去されていました。

あたかも告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(kk_hirono)として写真付きツイートを行ったかのように見えますが、非常上告-最高検察庁御中_ツイッター(@s_hirono)の写真のリンクを使っただけなのです。うまい具合に共有化が図られているようですが、たまたまの発見でした。

気になって調べてみたのですが、"expanded_url"という変数の値が、非常上告-最高検察庁御中_ツイッター(@s_hirono)の画像データのURLになっているようです。

ブラウザからTwitterAPIを使ってツイートのデータを取得したのですが、初めて見つけたサービスを使って取得したもので、スナップショットをTwitterと共有することも出来ました。次のURLがそれです。APIで見ると一件のツイートにはこれだけの情報が本来あります。

Apigee Snapshot https://apigee.com/snapshot/twitter?snapId=apigee-console-snapshots-1398920400000_dbebf43b-af0a-4e5f-8a28-c43acb1c4f53

昨夜見たのは次の番組です。

5月10日「監察官・羽生宗一」土曜ワイド劇場 http://www.tv-asahi.co.jp/dwide/contents/nextweek/0308/

上記リンクですがこれはホームページの構造上、時間が経つとリンク切れになるか内容が違ったものになる可能性もあるかと思います。タイトルも本来「土曜ワイド劇場」しか取得できませんでした。

初めは余り見たい感じではなかったのですが、なかなか興味深い内容でした。

その前の夜つまり金曜日の21時からも2時間ドラマを見たのですが、こちらの方はほとんど偶然のような感じで、たまたまテレビをつけたところに気になる場面が出ていて、チャンネルを変えずにそのまま終わりまで観ました。全く知らなかったドラマで、タイトルも変わっていました。

お家さん|読売テレビ http://www.ytv.co.jp/oiesan/

上記はドラマ専用のホームページになっているようです。ただ、放送が終了した番組なのでいつまでホームページが公開され続けるのかも不明です。観た番組の雰囲気でも残しておきたいということでスクリーンショットを撮っておきました。

2014-05-10-095048_お家さん|読売テレビ.jpg http://pic.twitter.com/FqKBmYKddG

このツイートと画像のURLは次のようにコピペしました。

2014-05-11-101103_このツイートと画像のURLは次のようにコピペしました。.jpg pic.twitter.com/zDnIh3xLlG

ファイル名はaですが、次のようにコマンドを使って作成したファイルです。一時的に作成した作業ファイルのようなものです。

% tac s_hirono140511.csv |cut -d',' -f3 | sed 's/"//g'|grep jpg > a

ツイログ(Twilog)の元のデータは次のようになっているので、それを加工しています。tacは逆順、cutでコンマを区切りに3番目のデータを取得、余分は前後のダブルクオーテーションを除去、jpgをキーワードに絞りこみをしています。

2014-05-11-102427_ツイログ(Twilog)の元のデータは次のようになっているので、それを加工しています。.jpg pic.twitter.com/OseccbgKqa

ツイログはコンマで区切られた3つのデータにわかれていますが、例えば一番目の"465238691036676096"というデータはツイート固有のIDになっていて、次のようにURLとして扱うこともできます。

https://twitter.com/kk_hirono/status/465254528728563712

同じく2番目のデータは"140511 061522"という形式ですがこれは投稿日時だと思われます。つまりこの場合、2014年5月11日6時15分22秒になるはずです。3番めがツイートの内容ですが、一部にエスケープで違ったものに置き換えられる文字もあるようです。

特殊な記号の扱いというのは何かと問題になるもので、自分で作るプログラムでは留意も必要になりますが、全く同じ文字列ではいと検索が失敗する可能性があるということで、説明しました。問題になるのは半角の記号の一部です。プログラム言語によっても違いがあります。

「お家さん」という金曜日の夜に観たドラマについては、感想だけでなく本件事件に関する事実にも触れて書いておきたいと思います。

テレビをつけた時の時刻が21時01分だったのでほぼ最初から観ていましたが、食事の用意でテレビから離れることもありましたが、物語の筋を見失うようなことはなかったと思います。少しして録画も開始しましたが、録画はまだ再生していません。

なんの先入観もなく始まったドラマでしたが、観ながらインターネットで検索をして情報を得ることはありました。「鈴木商店」というのも知らなかったと思いますが、以前は日本で一番多い苗字でもあったかと思いますので、ありがちな名前とも思います。

このドラマで金子直吉という人物を初めてしりました。たぶん、何かの機会に名前を見ることはあったのではとも思いますが、取り立ててクローズアップするようなものには出会うことがなかったように思います。

同じ土佐藩の出身ということで岩崎弥太郎と比較される情報も調べて読むことが出来ましたが、一般的な知名度としても岩崎弥太郎とは大きな違いもあるのではと思います。

岩崎弥太郎で思い出すのは、被告訴人大網健二が漫画の本で見たという、交渉相手に若造だと侮られないため自分の髪の毛を抜いたという逸話を、ものすごく感動した手本にしたいと熱く語っていたことです。

私もその漫画の場面は見ていましたし、彼から話を聞く前に見ていたように思います。最近は名前も見かけなくなりましたが、本宮ひろし、という自分たちの世代にはお馴染みの漫画家で、子供の頃は少年ジャンプの連載が多い人気の漫画家でした。

私自身、成人になった頃には少年ジャンプや少年マガジンのような漫画は全く見なくなっていたのですが、コンビニにおいてあるような週刊誌のような漫画はよく目にしていました。例えばビックコミックスピリッツとか。

「本宮ひろ志 岩崎弥太郎」というキーワードでGoogleで検索をしてみました。「本宮ひろ志」という名前が正確だったということもこの検索で思い出しました。

猛き黄金の国 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/猛き黄金の国

全然記憶になかったのですが、上記のタイトルの漫画だったようです。「1990年から1992年まで、集英社「ビジネスジャンプ」に連載。」という記載もあったので、間違いはなさそうです。

平成2年のいつ頃から連載が始まったのか記載がないのが残念ですが、平成1年ではなく平成2年からというだけでも、とても参考になる情報です。岩崎弥太郎のことは最近でもちらほら思い出すことがありましたが、取り上げて言及することはなかったと思います。

はっきり時期の特定ができていないのも被告訴人大網健二の本陣不動産株式会社への入社時期ですが、仕事を初めてしばらくの間は、片町での接待で長時間運転手として車の中に待機をさせられているとか、愚痴のような話をしていました。

そのしばらくの間が、半年であったか長くて1年ほどであったか、そういうことも正確には思い出せなくなっていますが、俄然仕事に熱意をもって取り組むようになったのも、その漫画の岩崎弥太郎の話をした頃のことであったことは間違いないと思います。

彼の長女が生まれた時期についても思い出せないのですが、神戸から戻って金沢で生活を始めたあとであった可能性がはるかに高いと思います。

すでに触れたこともある被告訴人大網健二の結婚式ですが、そのとき長女は2歳以上にはなっていたはずです。式の中で長女の紹介もされていましたが、しっかり自分で立って歩き、周囲の状況も理解できるような年頃になっていた姿を記憶にしています。

結婚式があったのは平成2年の秋で、夜はけっこう寒かったという記憶もあるので冬に近い頃、それでも雪が降るような時期ではなかったような気もするので11月ころの可能性が高いと考えています。

その場に姫の出身で大網兄弟の父親と兄弟分という人物がいて、東京でヤクザをやっていると被告訴人大網健二から話を聞いていましたが、平成3年の春頃には被告訴人浜口卓也が事務所開きのお祝いだと言って、お祝い金を集めていました。

いくら出したか覚えていないですが、少なくとも1万円以上の金額で、それが相場にも近いような話だったと思います。しばらくして記念品というのかお返しとして灰皿をもらったように記憶しています。大きめのサイズで事務所のテーブルに置くようなものであったと思います。

ヤクザ者として事務所を開くということは、独立というか独り立ちして組長になるということ、というような説明も聞いたように思いますが、それは被告訴人大網健二の話であったかもしれません。

東京でヤクザというか暴力団をしているということは被告訴人大網健二から聞いていましたが、組の名前や系列については、なるべく関わりになりたくないということもあり、質問もせず聞いていなかったと思います。記憶にもありません。

被告訴人浜口卓也からの直接の連絡だったと記憶していますが、それは珍しいものでもあったので、よけいに印象的に記憶に残りました。

そういえばということで今思い出したのですが、被告訴人浜口卓也が市場急配センターで仕事を始める前、私のアパートに電話を掛けてきたらしいのですが、取り次いだ妻が姫のNKさんと勘違いして説明したのか、私はNKさんの電話と思い込みながら連絡方法も思いつかず放置していました。

思えば被告訴人安田敏からの電話に対する同じく伝言で妻から、「内灘の砂浜に車がはまって動けないので助けに来てほしい。」というのを聞いたこともありました。深夜の連絡だったと思いますが、これも放置したことを記憶しています。その場にいなくてよかったとも思っていました。

NKさんと勘違いした連絡のことがあってから、会社で被告訴人浜口卓也本人と会うまでは、けっこう間があったように思います。半月から一月ぐらいはあったように思います。

市場急配センターの仕事をするかどうか迷いがあって相談のために連絡をしたような話をしていたと思います。なるほどと理解しながらも、なぜ妻が勘違いして行き違いになったのかも合点がいかないとは思っていました。

妻は両者に面識があるものの、被告訴人浜口卓也の方により直近の面識があったとも思いましたし、声もタイプも印象もずいぶん違うはずなので、おかしな間違いはしないと思ったのですが、釈然としないまま追求することはなかったと思います。

平成3年の春というのは被告訴人大網健二の引っ越しを手伝った頃でもあったと思います。正直、事務所開きの祝い金の連絡とどちらが先であったか思い出せないのですが、どちらも天気の良い日ではあったと記憶には残っています。

引っ越しの手伝いは春でも5月か6月に入っていた気もするのですが、私がまだ市場急配センターに移る前であったとは思うのですが、どうも記憶のはっきりしないこともあります。

一つ印象に残っていることは2トンのトラックを金沢港の近くの倉庫の駐車場に被告訴人大網健二と一緒に返しに行ったことでした。往復ともに無量寺の被告訴人大網健二のアパートから向かったように記憶しています。

その倉庫というのはたぶん「ひまわりチェーン」という小型スーパーの物流倉庫でした。北都運輸の市内配達をしていた頃、そこにも荷物を運んでいた記憶がありましたが、近くにあるリョーショクとかいう倉庫の方が大きく、扱う荷物が多かったこともよく覚えていました。

「ひまわりチェーン」と似たものに「Kマート」というのもあったような気がします。どちらもコンビニのような小型のスーパーのチェーン店という感じで、記憶がやや混同しているところもあるかと思います。

2014-05-11-161448_北陸リョーショク本社.jpg pic.twitter.com/iMK9zqFjKu

Googleマップの画面をスクリーンショットにしましたが、リョーショクという物流倉庫の場所は変わっていないと考えられます。かなり大きな敷地で金沢港に前の道路に面していたので、簡単に移転もしないと感がられるからです。

トラックを返しに行った倉庫というか、配送センターと言ったほうがいいかもしれませんが、そちらはリョーショクの敷地の裏手のほうで、隣接していたかどうかも記憶にはないですが、上空からみて左手にあったように思います。

ざっとGoogleマップの地図をみたところ、次の地点の可能性が高いように思われます。広い道路に面した敷地であったようなこともおぼろげながら記憶に残っています。

2014-05-11-162540_石川県金沢市湊4丁目7.jpg pic.twitter.com/37s5GHSZUf

港のカナカンにも配達に行っていたような気もするのですが、ただカナカンとなると西金沢の大きな葬儀場の近くの倉庫での荷物の扱いの量が多かったことがより印象に残っていて、金沢港ではリョーショクがやはり扱う荷物の量が多かったという印象として残っています。

Googleマップの地図を見てもわかるとおり湊と無量寺は隣接しており、被告訴人大網健二のアパートともすぐ近くでした。

私の記憶には奇妙な点があって、引っ越しを手伝いに行ったことはその時の場面も含めて記憶に残っているのですが、引越し先であるはずの大場町東の一軒家での作業の様子というのがまるで記憶に残っていないのです。

ただ、荷物を運び入れる前か、ほとんど物がないような状況での大場町の一軒家の家の中や、家の周りの状況に関しては、割と印象的に記憶に残っています。

トラックを返しに行ったのは、引っ越しの作業が終わってからのことであったと思うのですが、午後だったとは思うもののまだまだ明るい時間帯でした。改めて考えると手伝いに車で向かった先が無量寺のアパートだったので、作業が終わったあともそちらに戻っていたのかもしれません。

借りた2トンのトラックは宇出津のK村さんのものだと聞いていました。青色の古いトラックだったと思います。初めに見た頃の2トントラックよりはポンコツではなかったような気もするのですが、塗装も純正のままのような当時でもかなり古いタイプのトラックと色でした。

荷物を運ぶので箱はついていたか幌がけだったとは思いますが、まるで2トンのダンプでよくみかけるような感じのもので、トラックとしてはけっこう珍しかったと思います。普通の緑ナンバーの運送会社であれば、それなりの塗装もしてあるのがほとんどだったと思います。

そういうタイプのトラックは市場急配センターでも他にいたとは思いますが、いずれも持ち込みのトラックだったと思います。持ち込みのトラックは通勤も兼ねていて、見かける機会というのもそう多くはなかったような気もします。

そのトラックを返しに行った時点で、K村さんと姫のNKさんは、春に市場急配センターをやめて直に仕事を請け負ってやっているとか、不義理なやめかたをしたとも聞いていたと思います。珠洲市大谷のYSさんも行動を共にしたと聞いていたように思います。

Kマート - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/Kマート

調べてみたのですが「Kマートは日本にかつて存在したコンビニエンスストアとスーパーマーケットのひとつ。」とありました。金沢市近郊に限ったチェーン店かと思っていたのですが、そうではなかったようです。ただ、長距離の仕事でも他県で見たという記憶はほとんど残ってはいません。

一方、「ひまわりチェーン」を調べたところ、こちらは現在も営業しているチェーン店のようです。ざっと見たところ、金沢市近郊というより金沢市内のみの店舗にもみえました。将来変動があるかもしれないのでスクリーンショットを撮っておきます。

金沢市 ひまわりチェーン - Google マップ http://bit.ly/RyVHvt

2014-05-11-170916_金沢市 ひまわりチェーン - Google マップ.jpg pic.twitter.com/typEalAv0o

前から思い出せないことがあったのですが、ようやくだいたいのところを思い出すことができたようです。それは金沢市長土塀3丁目の交差点から金沢駅方向の小路に入ったところであったと思います。

自分の記憶によるとその一角は田舎町のちいさな商店街のようになっていて犀川の方向のほうから小路に入ってくると、左の角にひまわりチェーンの店があったように思います。

余り行くことのない配達先だったので余計に記憶にも残っていたのですが、ある日、配達中にそのひまわりチェーンの近くで、NKさんかYSさんに出会ったと思います。それだけでなくM田かS田、あるいはその二人が一緒に仕事をしていました。

S田とM田についても前に書いていると思いますが、肝心要のことはまだ書いていないと思います。前に書いたのはS田がアルトワークスのことで被告訴人大網健二とトラブルになり、S藤を連れて金沢港のイワシの現場に来たということで、平成1年12月ころのことです。

車のトラブルの話は先に被告訴人大網健二から聞いて知っていたと思います。まだ雪が降りそうもない秋頃に聞いていた話のように思います。被告訴人大網健二はたいへんな不義理を受けたと大いに怒りまくり感情的になって、配達の仕事中のS田を追いかけまわしたような話もしていました。

なぜなのかよくわからないのですが、配達の仕事中のS田を追いかけまわしたという話を聞いた時、私はその場の状況として六枚交差点の近くの中橋陸橋の下の側道の辺りの情景を頭で思い描いていました。それに近い場所の話があったものと考えられます。

六枚の交差点は金沢駅に近く、その駅前からの道路と金石街道が交差する大きな交差点でした。交差点を横切って野々市方向にもう少し行くと、左手に職業安定所があって、その向かいに婦人会館とかいう割と大きな建物がありました。

その婦人会館からもう少し行った辺りで右に入って行くと大和町があって、被告訴人大網健二が昭和55年ころに住んでいたアパートの場所でした。長土塀の商店街のような一角というのも、そこから歩いても近い辺りと思われます。

なにか昔の記憶が重なって、六枚の交差点の近くのことを思い出しただけなのかもしれませんが、被告訴人大網健二が住んでいたアパートからは金沢駅までも歩いてそう時間はかからない距離だったと思います。実際に歩いて行ったような気もします。

近くに古い紡績工場かその跡地があったようなことも記憶に残っていますが、めったに通るような場所でもなかったです。

ついでに書いておくと中橋の陸橋にはもうひとつ思い出があります。さきほどGoogleマップのストリートビューで見たところ、陸橋は跡形もなくなり、高架下になっていました。

中橋の陸橋の付近というのも滅多にというかほとんど行く機会もなかったので、町並みの記憶も薄いのですが、S田を追い回したと聞いた情景では金岩方面に向かって陸橋の右側にその場所があったことになるかと思います。

もうひとつの方は、記憶も新しく具体的にはっきりしているのですが、夕方の遅い時間すっかり暗くなってから被告訴人松平日出男社長が、その場にいた10人ほどを食事に連れて行くと言い出したことがありました。あるいは7,8人だったような気もしますが、メンバーの顔ぶれはさほどはっきりしません。

人数からして最低2台の車には分乗して向かったと思いますが、その時最初に向かったのが、中橋の陸橋の真下付近、金岩方面に向かって左側の場所にある焼き鳥屋のような店でした。赤ちょうちんが出ているような店でしたが、店内の席に空きがないとかいう話で松平日出男は戻ってきました。

そのあと行ったのは、金沢駅東口のできたばかりの飲食店街の中の店でしたが、行きずりで適当に選んだような店でした。いろいろと気になるところはあったのですが、考え過ぎかとも思い。わからないまま引っ掛かりをを引きずるような出来事というか、その場の雰囲気でもありました。

平成4年の1月か2月のことでしたが、前後の状況に照らしても時期を絞り込むことができずにいます。その場には、被告訴人東渡好信の姿もあったように思いますが、東渡好信の精神病者を装うような不可解な行動が始まったのも、そのすぐあとであったように思われます。

まず東渡好信は会社に出てこなくなりました。会社をやめるような話もしていたようですが、東渡を親身に気遣い、心配する話もしながら、東渡好信に関する話を聞かせてくれたのも輪島のHさんでした。

輪島のHさんは平成2年の秋頃、東渡好信とほぼ同時に金沢市場輸送に入ってきた運転手でした。東渡好信の紹介というかたちでの入社とも聞いていました。会社で姿をみるようになったのは、ほとんど同じ頃だったと思います。

すでに書いているかもしれませんが、東渡とは運転手仲間で同じく材木を運ぶトレーラーに乗務していたという話でした。チューとも呼ばれたWも同じ仲間だったと聞きましたが、Wの場合はトレーラーではなく10トン車乗務だとも聞きました。

輪島のHさんは輪島でも海士町の人と言っていましたが、漁師という雰囲気は全くない人で、スナックのような飲み屋を経営していたこともあると話していたように思います。

よりはっきりと記憶にあるのは、本人が売春で刑務所に入ったことがあり、加古川刑務所に服役していたと話していたことです。1年か1年半という短い刑期だったと思います。なぜそんな話をするのか多少不思議には思っていましたが、ごく自然にに話していました。話は一階の休憩室が多かったです。

輪島のHさんのことで印象的だったのは平成3年11月25日の夕方のことでしたが、これはまだ本書では書いていないように思います。

Hさんは、東渡好信に同情的で、東渡好信の妻を批判することもあり「鬼のような女」と言っていたこともありました。平成4年2月の後半か同年3月中のことであったと思います。

私はその東渡好信の妻という人に会ったことがありました。休日の午後だったと記憶していますが、会社裏駐車場の一番奥、入り口から入って右側の位置で、声を掛けられました。七尾市から探しに来たものと思われましたが、なぜほとんど人のいない休日なのかとは不思議に思いました。

当時の休日というのは日曜日だけだったと思います。それに近いのが水曜日でした。中央市場の休日に定められた日です。たぶん月に一度かあるいは2度の水曜日だったと思いますが、第二か第三の水曜日という話だったと思います。

私の記憶にある中で初めのその中央市場が休日という水曜日は、平成3年9月のことでした。% cal 9 1991というカレンダーのコマンドによると11日か18日ということになるかと思いますが、休憩室の工事が途中ではありましたが、正直どちらか判断がつきかねます。

calコマンドの結果をスクリーンショットととして次に掲載しておきます。

2014-05-11-194350_ % cal 9 1991.jpg pic.twitter.com/Xlm4GZuIag

気になって調べたところ、次のような情報を得ることが出来ました。どうも金沢市市議会の公開資料のようです。PDFファイルになっています。

2014-05-11-200011_平成25年金沢市中央卸売市場の臨時休開市日について.jpg pic.twitter.com/m4N4cu8fyw

平成3年当時は月に1回だったように思うのですが、原則は第2,第3の水曜日となっていました。とても気になるところで正確な情報がほしいと調べてみたのですが、月に1回となると、事情も異なりそうです。

その水曜日は中央市場が休みということで、会社もずいぶんと暇そうで運転手の姿も少なかったですが、事務員の被害者AAさんと被告訴人池田宏美は出社していました。それでもずいぶんと暇そうで、早めに退社していたようにも思います。

東京都中央卸売市場 | 市場開場日・休業日年間カレンダー | 平成26年 http://www.shijou.metro.tokyo.jp/calendar/

平成3,4年当時、中央市場は土日が休みだったのか確認のため調べてみたのですが、上記リンクの東京の市場のカレンダーを見たところ、現在においても基本的に土曜日は休みではないようです。

市場急配センターで長距離の仕事をしていたのも平成3年8月の終わりから平成4年4月1日までと長くはなかったですが、その水曜日の市場の休みをはっきりと経験したのは9月と10月だけでした。会社内がいつもと違った雰囲気であったので、強く印象にも残っているのだと思います。

平成3年でも市内配達をしていた7月、8月というのは、水曜日の臨時休市という記憶は全くないので、たぶん9月から始まったものだと思います。

平成3年10月の水曜日の臨時休市では、けっこう多い人の姿がありましたが、市内配達の運転手の姿というのはなかったと思います。普段の退社時間は17時ということになっていたと思いますが、その日は16時ぐらいには退社というか解散していました。

印象的に覚えているのは、会社前から車に乗って出て行く、被告訴人池田宏美と被告訴人東渡好信の姿でした。計画が思いの外順調に進んでいるような満足そうな、それでいて注意深い顔に見えましたが、その顔を見たのもかなりの偶然で、二人とも私の視線があったことには気づいていない感じでした。

その日はまだ人の少ない時に、被害者AAさんに10色入りぐらいの油性のマジックペンをあげたことも覚えています。マジックペンを借りてかなり使ったことのお礼に買って、車かトラックに置いてあったものだと思います。

また、その時も車のフィルム貼りのようなことをやったと思います。あるいはトラックのフィルム貼りだったかもしれません。いずれにせよ、前回のようにAAさんは手伝いには来てくれず、なにかとても申し訳なさそうな顔をしていました。

ちょっと記憶が弱くなっているので自信が持てないのですが、解散という感じで会社に人がいなくなったあと、私は大阪府の高槻市の市場に向けて出発したように思います。積み荷は馬鈴薯だったと思います。当時多かった仕事ですが、高槻の市場というのは馬鈴薯では初めてだったように思います。

馬鈴薯と言ってもメークインなどの他の品種の芋も積んでいたと思いますし、あるいは玉ねぎを積むこともあったかもしれません。中央市場の裏口の、道路を挟んで向かい側にある倉庫でイモは積んでいました。

他の運転手が嫌がる仕事であったので余計に回ってきていたのだと思いますが、とりわけ平成3年の秋は多い仕事でした。初めの頃は、東京の市場にも3回ぐらい行くことがあったと記憶していますが、大田の市場ではなかったかと思います。そこから古河の市場に向かったことも記憶しています。

馬鈴薯の行き先として多かったのは名古屋の北部市場と大阪の本場(ほんじょう・福島区)市場と、北部市場でした。名古屋の北部市場は小牧市だったと思います。ほとんどが降ろしてすぐにとんぼ返りで夜中のうちに金沢に帰っていました。

時刻は5月12日10時を過ぎたところです。書いておくことが沢山あるので、とりあえず書いていきたいと思います。昨日の続きになります。

被告訴人東渡好信の妻のことから馬鈴薯の仕事について書いていたところでした。この馬鈴薯というのは石川県産ではなく、北海道から船で金沢港に運ばれてきたものを、中央市場の裏側にある倉庫で保管しているという話を聞きました。中央市場の敷地の中ではなく、道路の向こう側です。

平成3年10月6日、被告訴人安田敏のトラックに同乗して昼に名古屋の北部市場に行った時も、その馬鈴薯を積んでいました。

名古屋の北部市場よりは、大阪に運ぶことが多かったとも思います。名古屋で馬鈴薯を持っていくのは北部市場だけでしたが、大阪は北部市場と福島区の本場があって、どちらも同じぐらいの回数行ったように思います。北部市場は大阪市内ではなかったと思います。

近くには大きなトラックターミナルもあって、中西運輸商にいた頃は、九州西武運輸の荷物を運んでよく行ったという記憶もありました。結婚する前の妻を同乗させていたことも多かったです。

大阪も初めのうちは、名古屋の北部市場と同様に、空荷で戻っていたと思います。午後に馬鈴薯を積んで、夕方に出発、名古屋よりは多少時間も掛かったと思いますが、それでも夜中の2時か3時には金沢に戻ってきていたと思います。

そのうち大阪に馬鈴薯を持って行くと、決まって翌日に和歌山県の、かつらぎ農協からミカンを積んで戻るようになりました。このミカンの仕事は馬鈴薯の仕事以上に嫌われていたので、なおさら集中的に回ってきていたように思います。

私が初めて、かつらぎ農協にミカンを積みに行ったのは平成3年11月の17日か20日ぐらいではなかったかと思います。あるいは20日ころですが、以前は細かいことも具体的に記憶していたはずです。

それはちょうど、被告訴人浜口卓也が市内配達の仕事をやめて、市場急配センターで大型車で長距離の仕事を始めた頃でした。

同じく、津幡のYTも市内配達の仕事をやめ、大型車で長距離の仕事を初めていました。彼は市内配達の古参社員で頼りにされるような存在でもあったと思います。本人が長距離の仕事をしたいと言い出した時、会社からは反対されたそうですが、本人がそれならば会社をやめると突っぱねたと聞きます。

古参と言っても私が最初に市内配達の仕事をした庄和61年にはその姿はなかったと思います。年は私と同じでしたが寡黙な感じでもありました。それでも人当たりもよく笑顔で会話をする姿も見かけていました。被告訴人多田敏明とも仲良くしているという感じでした。

9月に被害者AAさんが2階から降りてきて私のフイルム貼りを手伝ってくれた時、その場にいたのも津幡のYTと被告訴人多田敏明でした。朝の9時か10時ころでしたが、二人は今から大阪府高槻市の市場に馬鈴薯を運ぶと言っていました。4トン車です。

津幡のYTが大型車に乗務したばかりの頃には、一度2台で能登の方に行ったことがありました。羽咋市内のもっと先で、当時は能登有料道路でしたが、余り降りた経験のないインターで降りて、その付近を走行していた一場面を記憶にしています。

能登で仕事によく行っていたのは七尾市ですが、七尾市には急ぎで行く時も能登有料道路の千里浜インターで降りて向かっていたと思うのです。これは羽咋市内の手前側になる場所だと思います。また二人で降りたインターは周りが少し山間になっていました。

能登有料道路は金沢からずっと海岸線沿いやその近くの平地を走り、羽咋市内の先の柳田インターを超えた辺りから、山間に入っていく地理になっていました。いずれにせよ記憶はそこで途切れています。

チューことWが市場急配センターに入ってきたのも同じ頃でしたが、被告訴人浜口卓也や津幡のYTが大型車に乗務するよりは、一週間から半月ぐらい遅れていたような気もします。あるいは11月の終わり頃ですが、同月の中頃からその月の終わりまでの間だったと思います。12月ではなく。

チューことWの姿を見たのはその時が初めてではありませんでした。それよりちょうど一年ほど前の平成2年の11月か12月ころも、しばらく金沢市場輸送のトラックに乗っていたからです。まだウィング車が入る前だったので平ボディ車に乗務したのだと思いますが、短い間でした。

その時は無口で目立たない存在で、一度も言葉を交わしたような記憶もなく、他の運転手と会話をする姿というのも見かけた憶えがなかったです。長くて半月もいたのでしょうか。もっとも長距離の仕事というのは運転手同士顔を合わせないことも多いです。長ければ半年合わないという話もありました。

市場急配センターには時期的にいくつかの区切りをつけることが出来るかと思います。もともとは石川日通、小林運送など数社の運送会社と共同で、金沢の中央市場の青果物の仲買の荷物を配達をするというところから始まったように聞いています。

数社と言っても私がその仕事に参加した昭和61年8月当時は、金沢市場輸送以外の運送会社は2トン車とそれに乗務する運転手が一人ずつだったと思います。それらのトラックは黄緑色に黄色のラインが入ったようなカラーであったと記憶しています。

中には塗装のない元からの紺色か青色のようなトラックもいたように思いますが、金沢市場輸送の大型車や4トン車と同じ、茶色とクリーム色のカラーの2トン車もけっこうな数揃っていたと思います。

昭和59年10月の時点では市内配達の仕事というのは全くやっていなかったので、昭和60年辺りから始まったものと思われます。

市内配達と長距離の区別というのもなく、事務所も同じでした。事務所は中央市場前の2階建てのテナントビルで、その2室が事務所で奥の半分ぐらいはアコーディオンカーテンのようなもので仕切られていました。その奥の方の部屋の事務所は丸ごと社長室で窓際に大きな机が一つありました。

実は、今日の昼に宇出津新港のアルプに行き、100円ショップでみつけたホワイトボードというのを買ってきました。これに簡単な図面を書いて、それをデジカメで撮影したものを説明に使いたいと思います。

昭和59年当時の金沢市場輸送の事務所の間取り_2014年05月12日15時04分42秒.jpg pic.twitter.com/so2OEJptPY

上記画像は、事務所内の大まかな間取りです。事務の机は向かい合わでで全部で6つではなかったかと思います。入って手前の左側の机には配車係の藤村さんが座っていて、入院後は被告訴人本恒夫が座っていたと思います。

左側の一番奥、窓際の机には小島という人が座っていた時期もありました。保険の事など担当しているという話でしたが、何をやっているかよくわからない人で、日通で事務員をしていたとも聞いたことがあります。見た感じ真面目なサラリーマンという人でした。

入って手前の右側の机には社長の奥さんが座っていましたが、常時いるわけではなかったと思います。いるときはメガネを掛けてうつむき、そろばんを弾いたり帳面をつけているような様子でした。周囲を見回すようなことも姿も見た記憶がありません。

ついでに書いておくと、昭和63年のクリスマスイブつまり12月24日だったと思いますが、被告訴人本恒夫の強い指示で、蛸島港にイワシのダンベを積みに行かされたことがありました。それが羽咋郡富来町の西海港での翌朝降ろしの仕事でした。

よく考えてみると次男も割と大きくなっていたと思うので平成1年のクリスマスイブだったかもしれません。いずれにせよ、その時私は具体的に本恒夫への不信感を持つようになりました。

他に年配で子供もいない運転手は暇そうにしていたのに、やたらと強く私に指示を出してきたのです。おまけに蛸島港の市場では、北浜太一さんに、いなくなるな、とか帰るなとか、かなり強く釘を刺されました。申し送りがあったような感じでした。

あえて家族関係に亀裂や波風を立てるような配車にしか思えなかったのです。そういうこともあったので、同じく年末に輪島のMYの代わりに九州に走れと本恒夫に言われた時も、私はきっぱり強く断ったのです。給料の差し押さえを被告訴人竹沢俊寿が小躍りするように喜んでいた時のことです。

私自身、クリスマスイブなどというのはずっと無関心でプレゼントをもらったこともあげたこともなかったのですが、子供も楽しみにする年頃になっていて、実際、戻った時は妻も平静を装いながらも、ショックを受けているような様子でした。

社長の婦人の隣の席には、配車係であった蛸島の北浜太一さんが座っていました。昭和59年のことです。その後やめて蛸島に帰り、浜田漁業の配車係になったと聞いていました。蛸島港にイワシを積みに行き、会ったこともあります。

被告訴人本恒夫は藤村さんが入院するため、代わりに配車係をやってくれと竹沢俊寿社長(当時。後に金沢市場輸送と市場急配センターの会長)と懇願されて、仕方なく引き受けた。給料も下がって大損だが、他にいないので仕方なく引き受けたと、何度も話していたのです。

被告訴人本恒夫が配車係をするようになったのは昭和61年の12月頃のことだったと思います。私は市内配達の仕事をしながら、東蚊爪の運転免許センターに大型免許の試験に通い、9回目だったかにようやく合格したのが11月27日だったのです。

日付をよく覚えているのは11月26日の誕生日の翌日だったからです。合格と同時に大型免許も即日の交付だったと思います。それ以来、受け持ちだった市内配達の仕事をすることはなかったと思いますが、2,3日は継続していたかもしれません。

受け持ちというのは、早朝のマルエーの配達とそのあとの青果の仲買の配達の片町・小立野コースでした。その時のマルエーの配達は魚だったと思います。松任店、根上店、寺井店の3箇所卸ではなかったかと思います。寺井が多少微妙ですが、たぶんです。

平静3年の時もほぼ同じ方面ではありましたが、朝のマルエーの配達は青果物で、寺井店がこれもちょっと微妙な記憶になっていますが、他は小松市内の、若杉店、今江店、本折店ははっきり覚えています。寺井がそうだとすれば4箇所卸だったことになりそうです。

その後の仲買の青果物の配達も、前と同じ片町・小立野コースでした。片町は金沢で一番の繁華街でもありますが、路地も狭かったり配達先も多いなど、もっとも難しい仕事という話も聞いていましたが、人の嫌がるコースということもあって、回されたようです。

仲買の青果物の配達は、午前と午後の2便がありました。平静3年の時は午前中と同じコースでしたが、昭和61年の時は全体的な荷物の量も少なかったので、コースに関わりなく荷物を運んで配達をしていました。例えば野々市や、羽咋郡の志賀町のスーパーに配達に行ったこともありました。

マルエーというのは金沢市近郊だけなく、石川県の加賀地方のほぼ全域に店舗があるようなスーパーでしたが、私は個人的に買い物に行ったこともほとんどなかったので、仕事だけのスーパーでしたが、たぶんテレビのCMも流していたように思います。

たぶん、現在もあると思うので検索で調べてみます。

各店案内 - スーパーマーケット マルエー http://www.s-marue.co.jp/tenpo.html

ざっとみたところ全部で27店舗ほどあるみたいです。私は平静11年の8月以来、金沢市内に住まいをしたことがなく、その当時でもスーパーで買い物をすることはほとんどありませんでした、子供や家族と一緒だった頃を思い出して気が重くなることもあり、足が向かなかったのです。

平静3,4年当時はもちろんインターネットなどあるはずもなく、このように店舗数を調べることも容易ではなかったですが、仕事で聞いていたような話では15店舗ぐらいと聞いていたようにも思います。住んでいる近くに店舗がなかったこともあり、利用する機会もなかったのですが店舗数は多いほうかと。

金沢市場輸送がマルエーの仕事をするようになったいきさつというのは聞いたことがありませんでしたが、一度取引を切られそうになった時、被告訴人竹沢俊寿が単身で乗り込んで、狂人のような振る舞いをやって危機を免れたというような話は聞いたことがありました。

狂人のような振る舞い、というのは適切な表現ではないかとも思いますが、要するにそれらしい非常識なことをなりふり構わずにやったという話でありました。誰から聞いたのかも思い出せないのですが、大げさに言えば自殺の道連れにするような脅迫的な行動をやったらしいです。

見方によれば体を張って会社を守ったということになるのかもしれません。また、マルエー側が取引を打ち切ろうとしたのは、おそらくですが腹に据えかねるだけの、運転手の素行の悪さや呆れ果てるミスが続いたことが考えられます。

これと似たような話は、被告訴人大網健二から被告訴人KYNについて聞いたことがありました。仕事の相手先に乗り込んで居直り暴れるようなことをやったと言っていましたが、被告訴人大網健二はそれを、気が弱いからだと不満そうにしみじみとした感じで、話していました。

被告訴人のうち考えるところもあって、被告訴人KYNに限っては実名の表記に切り替えず、当面匿名で行くつもりです。利用された被害者的要素も彼に限っては当てはまる可能性もあると考えるからです。具体的なことは折に触れても説明をしていきます。あちこちに飛ぶかと思いますが。

被告訴人KYNが乗り込んだ仕事の関係先について、被告訴人大網健二は津幡の会社と話していたような気もします。もっと具体的な話を聞いていたように思うのですが、どうもこの部分の記憶が薄れています。時期も今ひとつはっきりしませんが、Nテックのときの可能性が高いと思います。

時刻は5月13日9時52分を過ぎたところです。昨夜も夕方ころに記述を中断して、ほとんどなにもしないで寝てしまいました。書くことが沢山あるのに集中力も足らないようです。夕食もまともにとらず、袋に入った刻んだキャベツを少しと、メンチカツを一つ食べている間に寝ていました。

家の中の片付けもしたいところですが、書くべき予定のことが多すぎて気も滅入ります。少しでも前に進めるように、出来るだけのことを駆け足で書いていきたいと思います。

昨日はNテックのところにそれたところで中断になっていたようです、事実関係があちこちに飛ぶと、書いている方でも現状の把握が難しくなってしまいます。とりあえずNテックのことは後回しにして、市場急配センターの沿革について昨日の続きを書いておこうと思います。

昭和61年の12月ころのことを書いたと思いますが、これはちょうど被告訴人池田宏美や被告訴人梅野博之が入社してきた時期でもありました。当時の被告訴人池田宏美の名前は池田ではなく、少し記憶に自信がないですが吉村であったように思います。

私が金沢市場輸送に二度目に入社をして市内配達の仕事をするようになったことは、免許の点数がなく取り消し寸前であったこと、大型免許の取得のために運転免許センターに通っていたことなど、すでに書いていることだと思います。

その直前まで被告訴人安田敏と岐阜県海津町で山下工務店の仕事をしながらライスセンターの平屋の家で生活していたことも書いていると思います。

なお、そのライスセンターのの仕事というのは本来、9月から12月の10日ころまでと聞いていました。米の収穫時期です。ただ、ライスセンター側の要望があって、ライスセンターの仕事が始まる前の時期にも、工務店の仕事を手伝ってほしいという条件が出ていたと安田敏から聞いていました。

被告訴人安田敏が初めにその海津町のライスセンターの季節労働というか出稼ぎの仕事に行ったのは、昭和60年と考えられます。安田敏が金沢市場輸送で市内配達の仕事をしていると聞き、金沢市場輸送の事務所の前まで行って声を掛けたところ、やめて岐阜に行ったと聞きました。

これもすでに書いていると思いますが、窓から顔を出してそう教えてくれたのは、金沢市場輸送で配車係をしていた北浜太一の弟でした。「おっさま」と呼ばれることが多かったようにも記憶しています。

彼は私が昭和59年1月に初めて金沢市場輸送に入社した頃、大型車に乗務して長距離を走っていましたが、長期の免許停止が決まっていたらしく、すぐに免停になって、荷物の積み込み作業などやっていました。

当時20代の前半だったと思いますが、正確な年齢は忘れました。なんとなくの記憶になりますが、24歳と聞いていたような気がします。その後付き合いがあった可能性は薄いと思いますが、被告訴人大網健二も当時はよく知っている人物でした。

当時私は11月の誕生日前で19歳でしたが、平静1年の初め内浦町松波の港で岸壁から赤色の買ったばかりの軽四で飛び込んで自殺したという蛸島のTSさんとは、改めて考えるとやはり年が近いようです。

ちょっと思い出したのですが、北浜太一の弟の場合も、免停ではなく免許取り消しだったような気がします。その後、免許を撮り直して蛸島で4トンの保冷車を買って白ナンバーで魚を運んでいるというような、噂話のようなものも聞きましたが、これは平静1年頃のことかもしれません。

私が昭和59年の1月に金沢市場輸送に入った時点で、北浜太一の弟は、3,4年かけっこうな年数、金沢市場輸送で運転手をしていると聞いていたように思います。記憶は薄くなっていますが、それでも2年以上とは聞いていたように思います。

その辺りから逆算しても蛸島のTSさんが被告訴人安田敏と同じく石川県立水産高校漁業科を卒業して金沢市場輸送に入社したと聞く、昭和56年の時点でも同じ金沢市場輸送にいた可能性はあるかと思います。

まだ書いていないと思いますが、その金沢市場輸送に入社したてのころの蛸島のTSさんは、当時の内浦町越坂の出身と聞くKSさん(以降、越坂のKSさんとも書きます。)と、一緒にトラックを走らせていたと聞いたことがありました。

私もごく最近になってたまたま知ったのですが、本来の小木というのは思っていたより限られた範囲になっているようです。小木駅のあったあたりが市ノ瀬であることは知っていましたが、もっと小木の街に近いところも市ノ瀬になるようです。

2014-05-13-104213_石川県鳳珠郡能登町小木 - Google マップ.jpg pic.twitter.com/HqbknGv10r

小木は松波同様に、平静17年だったと思いますが、石川県珠洲郡内浦町から宇出津や姫、真脇、鵜川と同じ能都町、そして柳田村が合併されて鳳珠郡能登町になっています。

2014-05-13-104912_石川県鳳珠郡能登町越坂 - Google マップ.jpg pic.twitter.com/JCd0X57l5T

次が能登町越坂のGoogleマップの地図ですが、今度は小木との比較対象をわかりやすくするため、航空写真を使いました。越坂は数件のホテルと漁村があって、私も近年知ったことですがキャンプ場もあるようです。

越坂は市之瀬と同じく九十九湾に面していますが、遊覧船の乗り場があるのも市之瀬のほうです。小木駅もその市之瀬にありました。越坂の子供は例外なく小木中学校に通っているとも聞いていました。地理的にも近いですし、地元でも小木の一部のような感覚でいる人が多いのではと思います。

越坂のKSさんは昭和59年当時、中西運輸商の大型保冷車に乗務していました。珠洲市三崎のHMとは中西運輸商の同僚でもあったはずです。

一度私は金沢市場輸送の4トン保冷者で珠洲市三崎のHMを同乗させ、一緒に山形県酒田市に行った帰りだったと思います。柿崎町から新潟県上越市の境辺りの国道8号線沿いに小さな中華料理店があって、そこで3人で食事をしたことがあったと記憶しています。

新潟市内方面から上越市内に向かっていると右側にある店でした。小さな店で本来はトラックが停められるような店ではなかったのですが、国道沿いの路肩に寄せて駐車していました。どちらかが脇に駐車をしていて、見つけたほうが後で店に入ってきたように思います。

それは保冷車の箱に「中西運輸商」と大書きした2台の10トン保冷車のうちの1台でした。その保冷車には私自身昭和62年の3月ぐらいに、一時乗務したこともありました。

2台はどちらも日産ディーゼルのトラックでしたが、1台は改造車で10トン車にトレーラーのエンジンとミッションがつけてあるというトラックでした。ギアは10速とも聞いていましたが、ギア比が低いため最高速度が80キロとか90キロしか出せないとも聞いていました。

保冷の箱の方も通常よりかなり補強した作りになっていると聞いていましたが、中が丸く膨らんでいたような記憶もあります。

それは中西水産輸送の社長ならではのこだわりで作られたトラックでした。主に宮城県の石巻港から養殖ハマチ用の餌(たんにエサと呼ぶことが多かったです。以降もそのように)を四国の宇和島市や九州の大分、宮崎、鹿児島の養殖場のある場所に運ぶ仕事のための特別仕様のあつらえでした。

このエサという仕事については前にも説明をしていると思うので、なるべく端折りたいと思いますが、昭和60年ぐらいまでは金沢市場輸送でも中心的な仕事であると聞いていました。私自身は昭和62年の4月に金沢市場輸送で大型保冷車に乗ってから一度も経験したことのない仕事でもありました。

私が大型車に乗務した頃は、雑貨と鮮魚が中心になっていましたし、保冷車の作りもかなり簡素というか薄っぺらいものになっていました。鮮魚が中心と言っても、それは九州や東北から積んでくる方の仕事が多く、定期便にもなっていました。

今はどうかしりませんが、当時、石川県の港から大型車でまとまった鮮魚を運ぶのは、例年6月から7月ぐらいの間の正味一ヶ月もなかったぐらいの期間で、それもスルメイカでした。最近人から聞いた話ですが、漁をする船も九州や東北から集まってくるそうです。

富山県氷見市に掘安という小さな運送会社があって、鮮魚を運ぶ会社でしたが、被告訴人本恒夫の傭車として金沢市場輸送の仕事をすることが多く、たまに仕事をもらって氷見港から魚を運ぶこともありました。東京が多かったですが、九州に行ったこともありました。

この傭車というのもひとつのキーワードですが、中西運輸商もその傭車を使って仕事を差配するのが中心のような会社でした。前にも書いているはずですが、自社のトラックの運転手は中西運輸商ではなく、中西水産輸送の社員だと聞いていました。なにか税金対策の目的だとも聞いていました。

昭和59年ころというのは社会全体としてもまだ不景気な時代で、雇用の条件とかも厳しいものがあったと思います。仕事内容でも経費削減のため高速道路の使用が大きく制限されたり、遥かにきついところがありました。加えて未開通の高速区間も多くて道路事情遥かに悪かったです。

関越道の関越トンネルが開通したのも昭和60年ころだったと記憶していますし、昭和59年の時点では富山県の朝日インターから新潟県の上越インターまでの高速区間がなく、国道8号線を通るしかない上、親不知付近ではなにかあったときの迂回路もありませんでした。

会社が強気で運転手が弱い立場という一面もあったかと思います。普通免許で乗れる4トン車では、求人での募集と採用も次々の入れ替わりがあり、大型車の方はトラックに乗務する運転手も決まっていて出入りも少なかったので、募集自体もあまりしていなかったようです。

まもなく訪れたのがバブル景気という時代ですが、それは過去を振り返った形で聞くようになった言葉だと思います。当時の自分は新聞もテレビもまともに見ていなかったので、なおさら無知ではあったのだと思いますが、余り意識しないままに仕事が増え、それなりに給料もよくなっていきました。

体感的な世の中の変化としては、ひょうきん族のようなバラエティ番組の登場や、おニャン子クラブの登場があったと思います。食に関する関心も高まっていき、グルメという言葉を聞くようになったのも、同じ過程かと記憶しています。

エサの仕事に関してはいい時はキロ20円の運賃と聞いていました。30トン積んで運べば60万円の運賃になるという計算だったと思います。昭和59年ころになると相場がずいぶんと安くなって割が合わなくなっていると聞いていました。

トラックの性能自体、現在とは比較にならないほど劣っていたと思います。4トン車でも昭和59年に私が乗務した頃の古いトラックというのは、昭和60年当時の新車に比較してもずいぶんと性能に違いがありました。

トラックのメーカーによる個性的な違いというのもありましたが、イスズ車はブレーキが強く、日野のトラックは弱いというのもありました。4トン車でも重量を積んでブレーキを踏んでいると焦げ臭くなって煙が上がり、とても危ない思いもしたものです。

10トン車の場合、ブレーキはエアーになっていましたが、重量を積んで余計にブレーキを踏んでいると、コンプレッサーのエアーがなくなり、ブザーが鳴るとともにブレーキの効きが極端に悪くなって、とても怖い思いをしたものです。

エサなど30トンも荷物を積んでいると、下手にブレーキが効き過ぎるのも恐ろしいことで、急ブレーキを掛けると保冷車の積み荷が箱を突き破って運転席(キャビンとも)に雪崩れ込んできて、運転手が圧殺される事故もあると聞いていました。

なお、丸太をワイヤーで留める木材の運搬の場合、そういう危険ははるかに高くて、死亡事故も多いとも聞いていました。現在では当時のように丸太を山積みにしたトラックというのも規制が厳しくなって走ってはいないのかもしれないです。

余談になりますが、北関東の方では栃木県の山の方から土砂などを山積みにして走る一発屋のようなダンプがいると聞き、60トンぐらい積んでいるとか信じられないような話を聞いていましたが、それらしい山盛りのダンプは、早朝に走っていました。平地でも超低速で。

昭和59年ころというのも、ちょうどトラックの性能が飛躍的に良くなりだした時期であったことも考えられます。チューブレスのタイヤが出るようになったのも昭和60年代だったように思いますが、4トン車にエガーブレーキがつくようになったのも昭和59年でした。

石巻から積むエサの仕事では、仙台港から名古屋港までフェリーに乗り、国道を走って大阪の南港や神戸港の方から南九州までフェリーに乗るとも聞いていました。フェリーに乗っている間は、運転をすることもないですが、名阪国道の天理の坂を下るのは神経が磨り減るとも聞いていました。

今はどうなっているのか知りませんが、平成3年の11月の終わり頃にも私は名阪国道を走ったことがあり、そのころも反対車線は急で長い下り坂が続き、止まるような超低速で坂を下る大型保冷車を見かけていました。

かつらぎ農協からミカンを積んで帰るのに時間帯的に近畿道辺りが渋滞しているかと思って、試しに西名阪、東名阪を走ってみたのですが、明らかに遠回りという感じで、それ以来は素直に近畿道を通って名神高速から戻っていました。

その時は関ヶ原インターから名神高速に乗ったのだと思いますが、北陸道に向かう米原ジャンクションの手前に伊吹パーキングエリアがあって、そのパーキングの公衆電話から被害者AAさんの自宅に電話を掛けたのです。

平成3年11月26日の夕方遅くには輪島のHさんと被告訴人多田敏明と一緒に会社を出発して北陸道に乗り、福井県の武生インターの近くのサービスエリアで落ち合い、そのあと私は大阪の市場に向かいました。馬鈴薯を積んでいたはずです。

翌日にはかつらぎ農協でミカンを積んだはずで、この日だとすると11月27日の夜にAAさんの自宅に電話を掛けたことになります。時刻は19時半ころだったと思います。

なお、今、武生インターの近くのサービスエリアをGoogleマップで調べたのですが、南条というサービスエリアがありました。そういえばそんな名前だったかと思ったのですが、武生インターの手前にあったと記憶にあるサービスエリアが、武生インターの先の位置になっていました。

改めてGoogleマップを見なおして気がついたのですが、手前に当たるインターは武生ではなく、今庄インターでした。国道365号線に通じるインターということは記憶にあったのですが、確かに武生の街からはだいぶん離れていました。

近道ではなかったですが、たまに気分転換で武生市から国道365戦を走って山越えをし琵琶湖の近くの国道8号線に出ることがありました。Googleマップで確認したところ、木ノ本インターのことも思い出しました。ずっと長い間忘れていたのに、スーッと自然に思い出した地名です。

% cal 11 1991というLinuxのコマンドで確認したところ、平成3年11月27日は水曜日になっていました。これも正確性を担保するためコマンド実行のスクリーンショットを撮っておきます。

2014-05-13-125806_% cal 11 1991.jpg pic.twitter.com/l7Grewj9LL

伊吹パーキングからの電話で私は休みの日に彼女をドライブにでも誘おうかと考えていました。それで休日の予定についても尋ねたように思います。

27日が水曜日だとすると翌日にはもう一度、大阪に向かっていた可能性も高いです。そうすると28日の金曜日の夜に伊吹パーキングから電話をしたという事実が成立しますが、そちらの可能性の方がはるかに高いと思います。

電話を掛けた時、彼女は少し困ったような様子ですぐに電話を切ろうとしていました。今から出かけなければならないと言っていたようにも思えます。

数日前の25日の夜の電話では、初めて電話を掛けてきても構わないというか、「だいじょうぶや」という返事をもらっていたのにです。この平成11月25日のことについても詳しく書いておく必要がありますが、日付をよく覚えているのは自分の誕生日の前の日ということもありました。

そしてその伊吹パーキングからの電話を最後に彼女はまったく自宅の電話に出なくなりました。次に電話に出たのは年が変わった平成4年1月12日の日曜日の夜のことでした。これも日付をよく覚えているのは、片山津温泉「せきや」であった泊まりがけの新年会の翌日のことであったからです。

地理的なことはさほど重要ではないと思いますが、地理的な位置関係も分かっていた方が理解も進むかと思うので、Googleマップでルートを表示してみました。伊吹パーキングに行った時は、三重県の桑名市から関ヶ原インターを経由しているはずかと思います。

2014-05-13-140409_Googleマップ 和歌山県かつらぎ町〜滋賀県伊吹パーキング.jpg pic.twitter.com/tZpQpdIQqx

時刻は5月15日23時20分を過ぎたところです。また中断をしていましたが21時30分過ぎに家に戻りました。その10分ほど前でしょうか、考え事をしていると、これまで以上に大きなこと事実を紐解くキーワードと思える問題が頭に浮かんできました。言葉を変えると認識の程度が違ってきたのです。

今夜は疲れていて、他にやることもあるので多くは書けませんが、それは平成4年の事件に置いて、初公判前の弁護人選任のことです。すでに岡田進弁護士が国選弁護人として決まっていたのではないか思うのですが、現在の記憶を手繰ると微妙なところもあるかという感じです。

私の母親は金沢西警察署にいる間に、13回面会に来たと聞いた覚えがあります。誰に聞いたとなると、裁判所の広汎に置いて聞いたように思うのですが、これも現在の記憶では正確に思い出すのが困難です。公判調書では記載を見かけていないようにも思います。

そもそも岡田進弁護士が国選弁護人として選任されたという通知がいつ頃届いかのかも思い出せないのですが、その前に弁護人選任の問い合わせのような通知が金沢地方裁判所から届いていたはずです。これは既に公開済みの書面で日付が確認できるかもしれません。

極めてはっきりしていることは平成4年5月28日に金沢刑務所の拘置所に移送されたということです。本来初公判という日にちでもあったので、これはしっかりと記憶しています。

時刻は5月16日9時30分を過ぎたところです。思ったほどぐっすりとは眠れなかったのですが、疲れはけっこうとれました。天気は良いですが風が強い様子です。昨夜の続きを書いていきます。昨日は気分転換もでき、帰り道では閃きのようなものを得ることもできました。

金沢西警察署での取り調べですが、自分の感覚としては全体の4割程度の間に調書の作成をともなった取り調べが終わり、あとは取り調べがないか、あっても短い時間の雑談のようなものではなかったかと思います。

その時は多少不思議にも思っていたのですが、起訴されると弁護権の侵害にもなるので取り調べはほとんど行われることがないとずっとあとになって知りました。たぶんですが、10日間の勾留延長を経た上での起訴であったと思われます。

起訴状の撮影写真も添付資料の中には含まれていたかもしれません。事件を起こして金沢西警察署に出頭したのが4がu1日の20時23分ぐらいと聞いたように思うので、4月の23日ぐらいに起訴されたものと思います。

おおざっぱに考えますと、起訴されてから一週間ほどで弁護人選任の商会があって、国選を選んだところ、次の一週間ぐらいで岡田進弁護士に決まったという通知が届いたのかもしれません。

早い段階から私は国選でいいと言っていました。肝心の被害者が意識不明の状態で、私選弁護人をつけることは被害者家族をいたずらに刺激し、不信を招き兼ねないと判断したことが大きかったと思います。とにかく被害者の意識が戻ることが当時は最大の関心事でした。

過去に何度も書いてきたことで以前はインターネットでも情報を公開してきたことと思いますが、谷内孝志警部補は取り調べをしながら今後の見通しとして、被害者の意識が戻れば執行猶予と言っていたように思います。

よりはっきりと印象に強く残っている谷内孝志警部補の話は、1年2,3ヶ月ぐらいの実刑で、2年以上行って来いということはまずない、ということでした。妙に自信たっぷりで軽快に話をしていました。

金沢西警察署における留置場の生活では藤井さんと坂井さんという看守のような担当が二人いて色々と話をする機会も多かったですが、運動という時間がありました。金沢西警察署では15分ずつの午前と午後の2回であったかもしれません。

平成11年8月の金沢中警察署の時は、30分で一日一回だったように思うのですが、どちらもずいぶんと前のことになるので、あまりはっきりとは思い出せない状態です。

この運動の時間というのは実際のところ体を動かすというよりタバコを吸うための時間でした。専用の外の景色もほとんど見えず、日差しもまともには入らない場所で運動は行われていましたが、必ず一人の立会の警察官はいました。

その運動の立会の警察官は藤井さんや坂井さんに限らず、他の警察官であったことが多かったように思います。なかには派出所勤務から応援に来たと話す警察官の人もいました。

金沢中警察署で暴力団の係をやっているという人もいました。ずいぶんと胸板が厚く屈強そうな人でしたが、森と名乗られていたことも覚えています。ブスの方がひねくれて性格が悪くなり、美人のほうが素直で性格の良い人が多いと、一般とは異なるような持論も展開されていました。

藤井さんは定年間近だとも話していたように思いますし、かなり年配の人でした。坂井さんは私より年下で当時25歳と言っていたと思います。一人旅で中国旅行に行ってきたとか、筆談でなんとかなるとか話をしていたことも憶えています。

坂井さんの方はまだ50前のはずなので、現在でも石川県警察で警察官をしている可能性は高いと思います。

主に運動の際の立会の警察官だったと思いますが、ほとんどが執行猶予の判決になると予想しているような口ぶりでした。相場も何もわからなかったのですが、初犯であったことと自首したことが大きかったようです。殺人罪でも事情によれば執行猶予になるということも全く知らない状態でした。

そもそも執行猶予という言葉も聞き慣れないもので、警察の人に何度も説明を受けながら、なっとなく理解したという感じだったと思います。実刑の方に傾いていたのは谷内孝志警部補ぐらいでしたが、緊張感を持たせるために厳しい見通しを示しているのかとも考えることはありました。

被害者の意識が戻るということは刑が軽くなるという意味もありました。なにより厳しい見通しを示す谷内孝志警部補ですら、意識さえ戻れば実刑のはずはないというような言い方もしていたように思いますが、執行猶予の可能性以上に、意識の戻る可能性は低いという態度でもあったと思います。

改めて思うと、谷内孝志警部補を含め金沢西警察署の警察官のほとんどは、意識が回復することはないという大前提で、捜査と取り調べをしていたと思います。それが杜撰でおざなりの対応になったのだと思いますが、それもガソリンをまいたが火はつけていない、という状況だったと言えそうです。

別の言い方をすれば、魂の入っていない人形のような状態と言えたかもしれません。国選弁護人となった岡田進弁護士は、公判において江村正之検察官が被害者の意識が戻ったと述べても、そのあと接見にも来なかったし、なんの話し合いもないまま判決が出ました。

その岡田進弁護士の弁護がどのようなものであったか、一言でいえば恫喝です。まさに形だけの話をして、「反省、後悔するぐらいなら初めからするな」と言い放って、睨みつけて帰って行きました。それは悪夢のような光景でもありましたが、まだ被害者の意識が戻らない絶望的な状況下でした。

岡田進弁護士の弁護に関してもこれまでに何度も書いていると思いますし、インターネットでも情報を公開していたはずです。今でも検索すればなにがしかの情報は出てくるものと思われます。正味10分程度の接見時間だったでしょうか。とても完結で短かったので、もれなく記憶し書いていると思います。

私も気弱になっていましたし、迷いもありましたが、弁護士との接見となると話を聞いて立場を理解してほしいとは思いました。そのような切り出しで話を始めようとしました。どんな言葉での切り出しだったのか、ちょっと思い出せませんが、それはボクシングで言うカウンターパンチのような対応に。

そういうことは弁護士としての経験からも場数を踏んでわかりきっているという態度で、すかさず言葉を遮られ、主導権を握られました。そして切り出したのは次の2点の確認のみだったと思います。

一つは、事件を起こす前被害者との間に合意のセックスはありましたか?、という質問。もう一つは、犯行時お酒を飲んでいてアルコールの影響はありましたか、というような質問。どちらも質問というよりは確認だったと思いますし、そのようなことは供述調書にも記載のある事項かと思います。

そのあと、5,6年は言ってくるでしょう。という言い方をしました。突き放すような結果の突きつけという感じでした。量刑を左右しうるのは、先の2点の事項のみという判断であって、他は全く問題にする余地もない全くの無駄という感じが、極めて強く言葉と態度に現れていました。

弁護士というのはすさまじい仕事、商売なのだと改めて思います。はっきり言って私は岡田進弁護士の姿を目の前にすると、自制の自信がありません。躍りだして殴りだしたら止まらず、本当に殴り殺してしまう可能性すらあるとずっと思ってきました。

しかし、それとは裏腹にずいぶんと感情を抑えて岡田進弁護士のことは控えめに書いてきたつもりです。感情論という弁護士がお家芸的に利用する印象操作で、むしろ希釈化される実際のことが伝わりにくくなるだけと考えたからです。歴史的に弁護士が作り上げてきた社会基盤の一つだと現在は考えています。

また、これは岡田進弁護士という個人の人間の問題だけではなく、刑事弁護というものに根ざす反復継続性の高い問題だとも思いました。言い換えれば広汎的に出来上がった市場相場のようなものです。私の問題に目を向けた弁護士はゼロではないかもしれませんが、ほとんどいないという現実もあります。

そういう意味では諦める部分もあったと思います。岡田進弁護士は信じられないような必要最低限の接触しかしなかったので、それ以上のなにかをつかむという取っ掛かりもなかったのです。判決という結果を出したのも裁判所。それもまた弁護士という伝統と文化でしょう。神格された無謬性です。

弁護士が過去にいささかなりでも非を認め、謝罪し、見直しをはかった例があったでしょうか。私は寡聞にしてしりません。相当の情報量を得て注意深く観察してきたつもりですが、どうな問題でも非があるのは裁判所か検察、警察というのが一貫した弁護士のスタイルです。

私にとって弁護士というのは魑魅魍魎というのか悪霊的な妖怪のたぐいです。そう解釈する他ないのが、岡田進弁護士、木梨松嗣弁護士による対応の実体験です。とにかく想像を超えていました。言葉で尽くせない卑劣さと厚かましさです。それは社会に対する背信でもあると私は信じます。それ故の告発です。

客観的にみれば、一審の国選弁護人であった岡田進弁護士と控訴審の私選弁護人であった木梨松嗣弁護士は、同じ金沢弁護士会所属の弁護士であるという以上の、つながりを見つけることはできませんでした。おそらく探偵にでも頼まないと知ることのできない事実かもしれないという諦念もありました。

探偵に頼んだとしても地元であれば、弁護士の利益になるように動く可能性が高いとも考えました。

そういう雰囲気は、被告訴人大網健二に紹介された若杉幸平弁護士にも見て取れました。あの初対面の時の居合の気合をも漂わすただならぬ雰囲気は、岡田進弁護士のそれとも似ていると感じました。

岡田進弁護士の場合も、初対面なのにどうしてあそこまで攻撃的だったのかと、あとあと考えましたが、金沢西警察署の谷内孝志警部補が作成した供述調書の人物像によれば、そうなのかという諦めもありました。

その表現はおかしいと言っても、薄ら笑いを浮かべ同じ意味や、と言ってまともに取り合わなかったのも谷内孝志警部補ですが、当時は取り調べにおける問題が社会問題として表面化するようなこともなかったと思うので、戸惑いと諦めしかなかったです。

そろそろ昨夜、小木港からバイクで帰る道すがらひらめいたことを書きますが、木梨松嗣弁護士が一審での私選弁護人を断った真の理由のことです。

京都の母親の兄弟の親戚がお金を工面してくれるので弁護士をつけろということは、わりと早い段階から説得を受けていたと思います。当時は起訴という言葉も知らなかったので、その意味することの大きさの認識もなかったのですが、刑事裁判となれば弁護士ということは世間並みに理解していました。

やったことに間違いはないので言い訳など必要ないとも考えていましたが、そもそも私は理由を被害者に求めて事件を起こし、それでも満足な答えをもらえないまま、被害者は話のできない意識不明の状態となって、自分は留置場に囚われの身となったのです。

同時になにより事実を知るのは被害者の家族であって、その理解を得ることが最善の方向性だと考えていました。

伊吹パーキングからの電話以来、彼女つまり被害者AAさんが、まったく自宅の電話にでなくなったことは2,3日前にも書いていると思います。平成3年11月30日の土曜日が事実上の始まりだったと思います。

伊吹パーキングからの電話はその前日のことであったと思いますが、会社において不思議な光景を目にしました。午後であったとも思いますが、その場面だけは印象的に記憶に残っています。初めはまた何かの工事が始まったのかと思っていました。

自宅の電話に出なくなったことと同時に始まった会社で彼女が車を会社の裏にあるトラックと運転手の車を停める駐車場(以降、単に裏駐車場とも)での駐車のことです。

彼女が裏駐車場での駐車をやめたのは平成4年2月3日のことでした。ちょうど私が24トンのミールを積んで九州の福岡市に向けて出発した日のことです。

その日は月曜日でしたが、ミールの荷物は土曜日の2月1日に積み込んでいました。休日前に荷物を積むことは「積み置き」と呼んでいましたが、よくあることです。ただ普通、この場合、荷降ろしまでの時間的な余裕が大きいので、経費削減のため一般道を多く利用するのが普通でした。

九州への運行は金沢市場輸送の時に多く経験していましたが、積み置きではなくても翌日降ろしではない中一日の余裕があると、一般道を走り、福井県の敦賀から国道27号線、京都府の福知山で国道9号線、鳥取、島根と一般道を走って、山口県の山口インターから高速道路に乗るのが普通でした。

金沢市場輸送では山口インターか小郡インターから九州の高速道路の利用が認められていました。他の運送会社だと関門トンネルを走って全線下道の会社もあると聞いていたので、その点はまだ恵まれていたとも言えそうです。

下関で重量オーバーの冷凍物を積むと、台貫に引っ張られて捕まる可能性を避けるため、島根県の益田市まで海沿いの国道を走ることがありましたが、一部でも高速道路を使うのとでは倍ぐらいの時間が掛かったような感覚があります。時間帯にもよると思いますが。

市場急配センターでは金沢市場輸送より高層道路の利用も緩やかに認められてはいましたが、全く長距離の経験のない松平日出男社長が指示を出すこともあったので、そのあたりもかなり緩やかだったと思います。本恒夫とはしばしば衝突することもありましたが、自腹で高速を使うことはほぼなかったです。

その時も会社の指示に従ったのですが、土曜日に積んだ荷物を月曜日の朝に会社に出社してから出発しました。大阪か神戸の夕方のフェリーに乗船することが決まっていました。

その時は考え事が多かったので気が付かなかったのですが、敦賀から高速を降りて一般道を走るつもりでいました。それが時間的にかなりキツイかもしれないということに気がついたのです。会社を出たのは10時ころになっていたようにも思います。

大阪のフェリー乗り場といえば南港だと思いますが、たぶんその時は神戸の魚崎からフェリーに乗ったのだと思います。敦賀から一般道を走るのは、米原バリアでの検問を避けるためでした。

フェリーの時間に遅れて国道2号線で一般道を走ることになれば、重量違反で捕まるリスクも高まるし負担も大きいので、そのまま北陸道で米原バリアを通過したのですが、ちょうど検問をやっていて重量違反で反則切符を切られました。

一度捕まると、社名やトラックのカラーを記憶されて狙い撃ちにされる可能性もあるので、なおさらへこみました。反則切符を切られたのも数年ぶりだったと思います。

冷静に普段通りに考えていれば、昼間に敦賀から国道161号線や京都市内を通って、フェリーの時間に間に合うことがきついことは計算できていたのですが、その時は仕事にも集中できず、現実的に物事を考えるのが難しくなっていました。

そういう経験というのはそれまでにも多少はありましたが、自分一人で運転するしかないので、判断ミスの負担も大きく自分に跳ね返ってきます。

取り乱すほどではなかったですが、集中できない状態になっていたのは、出掛けの彼女の駐車のこともありますが、2月1日の夜に被告訴人安田繁克に会ったことが大きかったです。彼女に対する不信感というより得体の知れない恐怖心のようなものを感じる状態になりつつありました。

どれだけ手紙で頼んでも話にすら応じなかったのが控訴審での木梨松嗣弁護士の態度でしたが、上告審になるとあっさりと東京で国選弁護人になった斐川雅文弁護士から郵送で差し入れられてきたのが、被告訴人らの甲号供述調書でした。

縮小版でした。とにかく選任されてすぐに送ってきたと思うので、木梨松嗣弁護士から申し送りがあったのかとも考えました。木梨松嗣弁護士の場合は控訴審の判決が出る前も出てからも、さっぱり連絡がなくなって事実上の音信不通になっていたので、理由を考える取っ掛かりも見出だせない状況でした。

出たのは公訴棄却という判決だけでしたが、拘置所に戻ってすぐに問題を起こしたので、そのまま保護房に入れられ革手錠を付けられました。49時間ぐらい革手錠を付けられ、外されたあともまる一日ぐらい保護房に入られていました。物凄い判決に対する不服がありましたが、挑発的な母の言葉が原因でした。

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