とある日に思うこと。

なんてことない春の日。3月11日。
この日付、「3.11」がメディアやなんかで意味を持って使われるのを見る度に、「歴史って、こうやって作られて行くんだ」と実感する。

「あの日」から7年。
長いようで短く、短いようで長く、
あぁ、もう7年なんだ、ふぅん、と22歳の私は思う。

——この文章は、人生の節目の年と、震災の節目の年が偶然重なった今日の私が、あの日を振り返ったりしながらツイッターには長ったらしくて書けないようなことをつらつら書いた日記のような何かです。オチは無いです。
スマホで書いたのでPCからどう見えるかは分かりませんが、お時間と許容力の許す範囲でお読みいただけますと幸いです。


〜「あの日」を思い出した日〜

私は過去を振り返るのが好きだ。
記憶の整理と、自分がしたこと、思ったことの再確認は、これからの選択や挑戦の手助けになることが多いから。
そこから思考を発展させて自己分析みたいなものをして、己の性質や心理、行動パターンを認知することで、己の未来を選択してきた。高校や大学もそうやって自分で決めてきた。

おかげで就職もちゃんと決まって、今、こうして実家で残り少ない(おそらく人生最後の)春休みを満喫しているわけで。

でもそんな私でも、7年前の「あの日」の記憶を、改めて振り返って思い出せたのは、なんと、今から2年前くらいのことだった。

なんと、と書いたのには理由があって、
「あの日」の記憶を自分の中に封印して思い出さないようにしていたことを、私は、
思い出すその瞬間まで気がつかなかったのです!
というのも、普通に震災のことを周りの人に話すときの「自分はあの時ここにいて〜」という記憶は時系列順にちゃんとあった。だから私は「自分は震災の記憶がある。ショックで記憶を失くしたりとかはしてない」人だと思っていた。

思い出した瞬間のことは今でも覚えていて、寝る前に布団の中で何気なく今日起きたことを思い出してる時、ふとニュースか何かの震災の話を見聞きしたのを思い出した瞬間、ぶわわぁーー!ってあの日の記憶が蘇って、え??あっえ???って自分でも混乱して、怖くて、ずっと眠れなかった。
とにかくいきなり、思い出した。
あの日揺れてる時に鳴ってた防災無線の音とか、そのあとのショッキングなニュースの映像とか、ずっと外に出られず、テレビも新聞も刺激が強くて疲れ果て、情報をシャットアウトして部屋で1人で布団に包まっていたときの気持ちとか、
とにかく「どうしようもなく不安だった時の私の気持ち」が一気に自分の中に流れ込んできた。いつのまにか缶詰めのように密閉され保存されていたものが、急に、開いた。

「これが、所謂、フラッシュバックなのか…」

と、ひとりで本当にどうしようもない感情の波に耐え、「人間の脳ってすごい。忘れたい記憶は忘れてしまえるものなんだ。」と妙に感心していた。涙を流しながら。

そんなことがあって、今の私は、
ちゃんと「あの日」を思い出せる人、になってます。

〜空っぽの本棚と、崩れた焼却炉〜

7年前、15歳だった私はあの日、中学を卒業しました。卒業式の日でした。金曜日だったのも覚えてる。
震災があったから、卒業式の記憶があんまりないんだよね。
午前中に卒業式が終わった後、小学校が同じだった同級生みんなで、卒業証書持って小学校に行こう!って話になった。
じゃあ1回家に帰って、3時に学校集合ね!
…2時45分、そろそろ出かけるか。小学校まで歩いて10分くらいだし。
制服のまま、手には卒業証書を持って、
和室でテレビ見てたおじいちゃんに行ってきます言って、玄関で中学指定の白い運動靴を履いた、その瞬間だった。

数字なんかであの揺れが表せるとは到底思えない。
一言で言うと、身の危険を案じる揺れ。
縦揺れとか横揺れとか、そんなの考えてる余裕はない。動けない。
ずどーん!と鳴ってから数分間、ただ立ったまま壁に捕まって、座ることすら許されず、揺れに耐える。そういう揺れだった。
防災無線の緊急地震速報は、ほぼ同時か少し遅かったように思える。少なくとも玄関にいた私聞いてから外に出る余裕も無かったくらいの間隔だった。

幸い家は潰れなかった。
食器棚の中身はめちゃめちゃだった。
二階の部屋に戻ると造り付けの本棚が空っぽ。全部床に落ちていた。
揺れの瞬間部屋にいたら百数十冊の本の下敷きになって間違いなく怪我してただろうと思う。

人が心理的に大きなショックを受けるのは、
普段見慣れている人や場所、大切にしているものの変わり果てた姿を見た時だと私は思う。

15歳の私はその空っぽの本棚と、
家の前にある今は使ってない古い石積みの焼却炉が跡形も無く崩れ去った姿を見て、「これは只事ではない」と悟っていた。テレビの映像よりも何よりも、その2つで。

因みに後になって父が「俺の部屋の、あのすっごく重い古ーいタンス。あれが壁から10センチ浮いてた。あれを見た時これは只事じゃねえって思ったよね…」と語ってくれた。
やっぱりみんなそうなんだね。

その後のことは結構色んな人に話してるので簡単に。
翌日からの原発事故報道で避難指示対象地域が拡がってゆく恐怖に耐えたり、
震災後に畑で取れた農作物を食べるか否か家族会議したり、
私の高校の制服採寸へ行く為に父がガソリンを手に入れてくれたり、
弟の小学校の卒業式が無くなったり、
春から入学した高校の建物が倒壊寸前で体育館に仮教室を作ったり……

とにかく、とにかく本当に色々なことがあった。
でも、私にとってはそれが「高校進学の思い出」で、
その後の生活は学生を経験した人全員が持ってる「日常の学生生活」の思い出と同じ、普通のものだ。
今は、その延長線上の、普通の人生だ。

〜普通の日曜日〜

とある有名な物書きさんが「被災地の方々にとっての3月11日とは、震災の日であるより先に、たいせつな誰かの命日なのだ」という言葉を書いたのを見て、確かにそうだ、と思った。
あの日起きた大きな揺れは、沢山の人の命を奪い、生活を奪い、日常を奪い、本当に様々な変化を巻き起こし、それは7年経った今も続いている。
春のお彼岸より何週間も先に、スーパーや花屋に仏花や線香が沢山並ぶのは、みんなこの日に大切な誰かを悼むからだ。

亡くなった人を想う時、私達は未来に向かって歩くため、決意を新たにする。

今日は運転中だったので黙祷はしなかったけれど、
震災後に亡くなったひいおばあちゃんの仏壇にお線香とお饅頭をあげました。
震災後に生まれ保育所に通う弟と一緒に。

ちょっと特別だけど、普通の日曜日でした。
おやすみなさい。明日もまた、平穏な1日でありますように。

〜さいごに〜

最後まで拙い文章を読んで頂き、ありがとうございました。
普段はこんな長い文章ではなくツイッターで趣味のことを呟いたり、三十一文字で作品を作ったりしております。
https://www.utayom.in/users/5214

それでは、またどこかで。

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