0117 思う存分やる

何かに打ち込んで
時間や食べることを忘れるくらい
思う存分やり切る

そんなことができる人を
羨ましいと思うことがある。

そんな人いるのか知らないけど。

なんかとにかく、
何かに打ち込んで
時間も関係なくやり尽くしたい。

何をしていても、
いつも限界や期限みたいな

範囲があると思い込んでしまっているのかな。

例えば


誰かと楽しく話をしていても、
お迎えの時間だからまたね〜とか

次の予定の時間なので終了とか。

これ以上は明日に響くからとか。

そう考えると、
バイキングやビュッフェなんかで
好きなだけ食べていい!
ってのは割とやり尽くすことができるかもしれない…?

いやでも、子どもたちが飽きちゃったら
あんまり長くはいられない…
もしくは、体が持たない🙈悲しき加齢

これ以上はもうどこも直すところがないってくらい
こだわって資料を作るとか

ハンドレタリングの練習を
もういいやって思うくらいやりきるとか

何かについて語り合うことも、
時間を気にせずにとにかく納得する結論が出るまで
やり切るとか。

ジャーナリングでもいい。
もう書くことないやってくらい
スペースにも時間にも制限されずに
書いてみるとか。

なんでもいい。

とにかく、
やり切るとか、
没頭して周りが見えなくなる
くらい集中してやる
みたいなことがしたい。

その感覚を得るにはどうしたら
いいのだろうか。

瞑想?
アリかもしれない。

瞑想も、つい時間に追われてしまう。

瞑想しているなら、
手を動かした方がいいのではないかとか。

1日中もういいやってほど本を読みたいとか
少しでも読んでみたいと思った本を
片っ端から全部買うとか。

なんか極端なことをやってみたい。


こんな風に考える背景には

何があるんだろうか。

自分の中の満たされない何かがあるのよね。

やり切る、やり尽くす
没頭する、集中する
周りを気にせずに自分に集中する
自分に向き合う
自分を大切にする

…ここかな?

そもそも、やり尽くしたいとか
思う存分やり切りたい

という気持ちがあるということは、
今現時点で、
やり尽くしているとか、
思う存分やりきっているという感覚がないということ。

じゃあ何に対してそう思っているかというと、
例えばお料理。

毎日の晩御飯作り

いつも、冷蔵庫にあるもので
何かを作るということをしている。

それもそもそも、やりきった感を持てない
原因かもしれない。(私の場合)

これが、自分の満足につながる時もある。

こんなに限られた材料の中で
こんなに作れたわーい!って。

だけど、
そうじゃない時には、
本当はあれが欲しいのにない、
これがあったらもっと見栄えがいいのに。
あのスープが飲みたいけど材料がない…

とか
これって実はわたしにとってすごく
ストレスかもしれない。

自分が使いたい食材が揃っていないことが
不満。

そのせいで、
作りたいものを作りきれていない。

うん。
これ大いにあるな。


他には

このnoteを書くこともそう。

満足いくほどかける時と
書けない時がある。

でもnoteで満足できるほど
かけることって稀。

って書くと
今までの記事が不完全に思えてくる。

完全とは何かって話もでてくるけど…
でも書いた当時の自分のベストではあった…のかな。

いや。
そうでもない。

妥協してこんなもんかって
出していることが多い気がする。

それってよくない!!!

妥協せずに書こうぜ!!!!


と思ったけど、
そんな風に妥協せずに
書ききって満足したものだけ出そうぜ
ってしていたら、私は一生記事を上げられない気がする。

私はここにはありのままの自分、
脳内晒しをしているから
ここでは今の本当のありのままを書く。

それは不完全でいいのかもしれないなぁ。

けどそれが読んでもらうもの
という立ち位置だとまずいか…
自分で紙に書き出したり
非公開で書けばいいじゃんってなるよね。

読んでもらえたら嬉しいし
読んで欲しいし、
読んだら反応してもらえると
さらに飛び跳ねちゃいそうなほど
嬉しい。

けど、
読んでもらうってことを考えすぎると
私は途端に上手く書けなくなる気がする…

この辺にも葛藤がある。

人生は葛藤の連続である

私はなんだか常に葛藤しているなぁ。

なんて、名言チックなことをいったけど
「思う存分」って話からずれてしまいました。

ほらね、私の頭の中を晒すとこうなるのよ。

だからもう不完全でしかなり得ないの。
不完全で、完全。今の私の。


で?

そう、思う存分なんかをしたいという気持ちの
裏側には
今満たされていないという気持ちがある。

今日学んだことの一つに、
人は欲求を満たすためにしか行動しない
ということがある。

その欲求というのは、
生理的欲求(肉体的でわかりやすい)と
心理的欲求(わかりにくい)。

心理的欲求については、
自分ではそんな欲求があるということに
気づいてないことすらある。

自分が隙間時間でやっていることや
気づいたらやってた…みたいなことは
心理的欲求を満たすために
やっている、らしい。

私が隙間時間、気づいたらやっていることは
スマホを手に取って、
インスタをみて、メッセージが来ていないか?
いいねがついたか?を確認する。

その確認が終われば、メールの確認、
Facebookの確認、公式ライン、
チャットワークス…

またインスタを開いて、
ストーリーズをみて、
リールがシェアされていたらそれをみて、
次のリールも見て…

と、沼に落ちていく。。。


あかん。


わたしゃなぜこんなにインスタに
沼って落ちていくのか…


あと私が最近ハマっているのは、
YouTubeの北原さんの動画。

学んでいるとも言えるけど
その学んだことをやらねばどうしようもないよね。


で、この観るという行為にしても、
満足いくまで見ていないのかもしれない。

「あーこんなの見てる場合じゃないのに」
とか思いながら、
他の作業もちらっとしながら、動画を見る。

どちらも中途半端だから、
どちらもやりきったと思えない。

あれもやらなきゃこれもやらなきゃと思いつつ
動画も見たいしやるべきことも
終わらせたいからどちらも並行したら
どちらも煮え切らないという…

いーみなーいじゃん!

どちらかに集中するとか、
ここまではこれをやるとか
区切りをつけたらいいのよね。


いやしかし今日もみごとな
話題の飛びっぷり。

ひどいもん。

最近YouTubeって面白いなって
思っている。

ダンス動画も好きだし、
歌の解説動画とか、
THE FIRST TAKEとか。

夜寝る前に、
子どもたちといくつかのミュージックビデオを
観るってことが習慣になりつつある。

それが終わったらすぐ寝てくれるから
とってもありがたい。

それに、私も音楽が聴ける、
ミュージックビデオが見られるのは嬉しい。

ただ、子どもたちが大声で歌うから
動画の音が聞こえず、
黙って?とも思っちゃうけど🙈

やー本当頭の中がとっ散らかっている。
それが文章に本当に出る。

今日は、とっても素敵な本を読み始めた。

「百冊で耕す」という本。

まだまだ読み始めたばかりだけれど、
好き。

私は読書が好きだなぁ。
読書が好きなことに高揚する。
そんな感覚を得ている本。

これからまた読むのが楽しみ。

あー。本を読みたい。
没頭したい。

そう、本が好きな理由の一つは、
没頭できること。
なんだよね。

昔、学生の頃
夢中になって読んでいたら
眠るのを忘れて朝になっていた
っていうことがあった。

そーゆーのをやりたい。

夢中になってて、
気づいたら朝だった、ってやつ。

ちなみにその夢中になって読んだ本はこれ。

本を読むようになったばかりの頃で、
東野圭吾さんの作品を読み漁っていた。

その時に、
ハードカバーで買ったもの。

私的に怖くて、ドキドキして、
だけど読み進めるのをとめることができなくて
最後まで一気に読んでしまった本。

あの感覚。

また没頭したいなぁ。


だけど本を読んでいるときは、
割とその没頭の状態になりやすい。

そうか、だから本を読みたいんだなぁ。

言葉が好きだし、
知識が増えることも嬉しいし、
自分の考えと一致することがあると
興奮するし、
これはこういうことだったのかって
原因と結果が結びつく、みたいなことがあると
嬉しいし、
本はいい。

なんて素敵な言葉を紡ぐんだろうって
感動することもあるし。

本って素敵。

そうか、
私が没頭できるのは本か。

本を読む時間を確保しよう。
改めて。

今日の結論。
本を読む。

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