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1-1.BEACONまえがき:ブルース・リーの考えるな 感じろ!に続く言葉


まずお断りしておきます。
冒頭画像の右には「航路標識」と書いてありますが、
左には「行路標識」と書いてあります。

これは誤植ではなく、意図して変えました。
「行路」には「生きていく道すじ。世渡りの道」
と言う使い方もあります。その意味を込めました。

読者の行路が「真っ直ぐ上がり風にも強い」
狼煙のようであって欲しいと言う期待も込めました。
この記事(マガジン)が、読者のBEACONビーコン(世渡りの道標みちしるべ)に
なる事を願っています。

余談ですが・・・。
ここまで入力して一休みと花束みたいな恋をした
観始めてしまいました。
(まだ230文字ちょっとしか入力してないのに一休みかよ!?
 と言わないように…)

と言うのも2度目!のベイビーわるきゅーれ2ベイビーを観ていたら、
バイト疲れのちさと(高石あかり)とまひろ(伊澤彩織)に、
渡辺 哲がこんな台詞を言う

「じゃあ、あれ観た? 坂元裕二脚本の『花束みたいな恋をした』。
 いや~あれ素晴らしかったよね。あれ観てないのは人生半分損している
 みたいなもんだよ」

人生半分損している!?
こっちは、もうとっくに半分超えているぜ(多分、いや絶対)と思ったが、
今年74歳の渡辺 哲に言われたら、観ない訳にはいかない。

(つづく渡辺 哲の台詞「菅田将暉が『パズドラしかやる気が
 起きないんだよね』って言ってるシーン。あれ良かったよなぁ」はパス)

実は、このnoteのターゲットをどういう読者層にしようか
悩んでいたのです。そこに、この「花束みたいな恋をした」が
突如として現れました。

「花束みたいな恋をした」は、山音 麦やまね むぎ(菅田将暉)と
八谷 絹はちや きぬ(有村架純)の5年間の恋愛模様を描いた映画です。

学生時代にひょんな事から出会い、趣味嗜好が合うので付き合い始め、
社会人となってから微妙にズレ始め、やがて別れるまでを描いています。

しみじみと丁寧に、奇を衒わず、ほとんどの人と等身大に
重なるようなふたりの描写は、普遍を獲得していると思います。

(完璧にピュアじゃないのは、絹の転職先のイベント会社社長、
 オダギリジョーの登場で分かる。匂わせるだけにしているのも
 上手な演出だと思う。深く描いたら麦と絹のほぼ直線的な関係性から
 観客の眼が逸れてしまう。最後の方で絹がさらっと触れるのもニクい。
 麦がえっ!?と言う顔をするが深掘りしないのも良い)

麦は自分だ、絹は自分だ、と観る者にほろ苦い共感と回顧と反省が
立ち上がる。しかし明日に向かって明るく歩いて行ける映画。

考えてみれば、離ればなれになっていたアンドロギュノスが、
ようやく本当の半身はんしんを見つけたと信じた物語。そんな風にも思えます。

ところで最初の方で麦は、Googleストリートビューに自分が映っている事を
発見し、学友に見せては驚く彼らに奢りまくります。

ここで、この記事の作者である遊海ゆかい(私ね)は、
思い出したのであります。つい一月前、通勤の途中で
Googleストリートビューカーにすれ違った事を。

まさか!?と思って検索したら、何と通りを駅に向かって歩く自分が
映っているのです!!

これはもう シンクロニシティセレンディピティ としか思えない。

これでもう、対象読者は麦と絹のような人たちに決まりです。
学生と社会人、理想と現実の狭間でジタバタウロウロ、
マゴマゴキナキナしながらも真摯に生きていく人たちです。
間違っても、ちさとや、まひろではないのです。ありえません!!

ついでに書いておくと、まひろ役伊澤彩織の高速弾倉交換ハイスピード・マガジン・チェンジは、ジョン・ウィックキアヌ・リーブスより速い!!

閑話休題それはさておき
で、最初は見出しを「眼鏡屋になろうかなと思っている新社会人へ」に
しようと思っていたのですが、偏光(違う!)変更です。

花束みたいな行為しごとをしたい人へ。
さて、始めましょうか。長いまえがきは終わりです。
第1部は社会人について。
第2部は眼鏡屋について。


第1部 花束みたいな行為しごとをするために

ブルース・リーの「考えるな、感じろ!」に続く言葉

日本では1973年12月に公開された「燃えよドラゴン」で、
ブルース・リーの人気は爆発的に高まり広まりました。

すでに故人であったにも関わらず、ジェームズ・ディーンや
赤木圭一郎のように伝説的神話的な存在になりました。
今でも、当時を知らない若い人の中には、この映画を観て
信奉者になる人がいると言う希有な存在です。

この映画に出てくる有名な台詞が小見出しの「考えるな、感じろ!」です。
英文では"Don't think! feel!"です。

これから眼鏡屋になろうかと想っている人だけでなく、
新社会人になろうとする人に、一番大事な贈る言葉は何か?
そう考えた時、ブルース・リーの名台詞が浮かびました。

この台詞を「考えずに動け!」「とにかくやれ!」と
理解している人も多いようです。
しかし、実はそうではありません。
その事を、これから詳解していきます。

※ ちなみに、自分が入社した眼鏡の量販店は
 「いいからやれ! とにかくやれ! さっさとやれ!」( ̄∇ ̄)

さて、この名台詞にはつづきがあります。
直接的には語られない言葉があります。

そう考えるようになった経緯を書きます。

新人からベテランまで、延べ2,000人以上の研修を通じて感じた事です。
特にベテランの場合、人によってやり方が違う事に気がつきました。
これは、新人時代にも感じた事です。

新興の企業でしたから、先輩社員は他の同業他社か
異種企業からの中途入社がほとんどでした。

元企業で受けた研修も違うし、入社してからの環境も
違うので、人によって新人に教える内容も、よく言えば多岐、
悪く言えばバラバラ、統一されていませんでした。

人は個々違うものですから、違っても当然なのですが、
教わる新人にとっては、下手をすると混乱の元でした。

やがて、やり方を決めるのは何だろうかと考え始めました。

やり方を決めるのは考え方。考え方を決めるのは感じ方。

やり方が違うのは考え方が違うからだと気がつきました。
そして、考え方が違うのは、人によって感じ方が違うからだ。
そう気がつきました。

(感じ方に働きかける研修技法については別のメンバーシップで)

次には、もっと大事な事に気がつきました。
やり方は同じなのに成果の高低どころか、
成否さえも決めるのは何だろうかと考え始めました。

やる力を決めるのは考える力。考える力を決めるのは感じる力。

何と、感じる力の強弱が考える力、ひいてはやる力の強弱を決定している。
仕事の成果、成否を左右している。そう思い至ったのです。

生まれつきの敏感とか鈍感ではないのです。
三年目のフォロー研修の時に気がつきました。
三年間で成功体験を積み重ねている新人と
失敗体験を繰り返している新人がいました。

近況報告を聞くと明らかに受け止め方が違うのが分かりました。
所詮、新人の彼らの経験する事は、似たり寄ったりです。
しかし、受け止め方、感じ方が違うのです。

成功したら何故成功したかを考える。
失敗したら何故失敗したかを考える。
そう前向きに感じ取っている新人と。

成功は偶々良いお客様に当たったから。
失敗は偶々変なお客様に当たったから。
その程度にしか感じ取れない新人と。

何より驚いたのは、仕事が終わって呑みに行った時、
その日のお客様自慢をする新人たちがいると知った時です。

仕事後の呑み会が、愚痴の言い合いではないのです。
感じ方の違い、感じる力の違いがこれほどまでの差を生むとは!?

この感じる力は、生まれつきではありません。
いわば、日々の修養によって錬磨できる力です。

唐突ですが、その時ブルース・リーの台詞を思い出しました。
「考えるな、感じろ!」
この言葉には、常々続きがあると思っていたのですが、
考える事より感じる事こそが大事。
そう捉えている人も多いのでは、と思っていました。

まずはこの台詞の場面を詳解していきます。
(宜しければ鑑賞をオススメします)

この台詞の出る場面は、こうです。

稽古の約束をしていたと思われる少年が、リーを訪れます。
(台詞は字幕を踏襲しています)

リー:蹴れ! 《Kick me!》
少年:(戸惑った顔をする)

リー:(再度)蹴れ!
少年:(力のないサイドキックを放つ)
リー:(薄く笑いながら)何だ それは見世物か?
   《What was that? An exhibition?》
    
   五感を研ぎ澄ませるんだ。
   《we need emotional content.》

※  映画の字幕は「五感・・・」になっているが、   
   直訳すれば「必要なのは感情的な内容だ」になる。

リー:もう一度。《Try again.》
少年:(先ほどより締まった表情になり、
    不服そうに唇を噛んでサイドキック)

リー:(軽くかわして)五感を研ぎ澄ますんだ。怒りではないぞ。
   《I said emotional content. not anger!》
    意訳「感情的な内容だと言っただろ。怒りじゃあないんだ」

リー:もう一度。《Try again, with me.》
少年:(さらに決死の表情でサイドキックを繰り出す。
    二発目がヒット。ピシッと効果音)

リー:(少年に駆け寄り、笑顔で)そうだ 何か感じたか?
   《that's it! How did it feel to you?》
少年:(顎に手を当て、左上を向き考え)そうだな・・・。
   《Let me think...…》

リー:(間 髪を入れず少年の頭を叩き、唇を尖らせ)考えるな、感じろ!
   《Don't think! feel!》
※  feeeeeel てな感じの発音がおかしくも、リーの真情を表している。

リー:(指を空に向け)月を指差すのと似たようなものだ。
   《It’s like a finger pointing away to the moon.》
  
リー:(少年が指先を見ているので、また頭を叩く)
   指に集中するんじゃない。その先の栄光が得られんぞ。
   《Don’t consentrate on the finger,
    or you will miss all that heavenly glory.》

リー:(少年に)分かったか? 《Do you understand?》

月を差す指等で検索すると、どうやらこれは龍樹菩薩りゅうじゅぼさつ大智度論だいちどろんにある指月の譬 しがつのたとえと言うものらしいのです。

人の指を以って月を指し、以って惑者に示すに、
惑者は指を視て、月を視ず。

人、これに語りて
『 われは指を以って月を指し、汝をしてこれを知らしめんとするに、
 汝は何んが指を看て、月を視ざる』
と言うが如く。

浄土真宗 長善寺の法話

ブルース・リーと少年のやりとり、そのままです。

もの凄く刈り込んで解説します。

しかし、この指( 言葉)がその意味を示しうるのは、
ひとえに月の明かりを受けているからなのである。
暗闇の中では指は見えない。

「指によって月が示されているが、その指はまた月の光沢に
 おいてこそ指月の指たりうるのである」
 
この譬は「 究極的な真実」が「言葉」を照らしている
ということを示している。

浄土真宗 長善寺の法話

月は真理です。指は言葉です。
指(言葉)に囚われず月(真理)を見よ。
しかし、月の光沢がなければ指は見えない!!

つまり、指(言葉)もまた月(真理)を示すはたらきなのです。

月がなければ指はなく。指がなければ月はなく。
指と月の二元論ではなく、心身一如、色心不二なのです。

※   浄土真宗 長善寺の法話(浄土と仏を考える)「指月の譬」
    参照しました。一部、文言を補足しました。
    また解釈に齟齬があるとしたら、それはひとえに
    筆者の力不足です。

言葉は十全に意味を伝えない。
伝えないけれど、真理をあきらかにするには、
言葉を尽くすしかない。

ブルース・リーの著作「截拳道ジークンドーへの道 」は、
単行本で310ページ。ざっと15万字です。

「考えるな、感じろ!」と言った人が、考えに考えて自分の考案した
截拳道ジークンドーを顕らかにするために綴った文字数が日本語訳
とはいえ15万字。

感じるだけで済むのなら、これだけの文字数は要らないのです。
(ちなみに仏典の数は八万四千あると言われています)

稽古の場面に戻ります。

リー:(再度)蹴れ!
少年:(力のないサイドキックを放つ)
リー:(薄く笑いながら)何だ それは見世物か?
   《What was that? An exhibition?》
    
   五感を研ぎ澄ませるんだ。
   《we need emotional content.》

※  映画の字幕は「五感・・・」になっているが、
   直訳すれば「必要なのは感情的な内容だ」になる。

※  ここで気になるのは、ブルース・リーは
   自分のコメカミ当たりを叩きながら、
   この台詞を言っているのだ。   
   つまり、言葉とは裏腹に考える事を求めている。

考えに考え、考え尽くしたと思っても考え、突き詰めたところにあるものが本質(究極の真理)であり、そこに至って初めて言葉と真理は一体になる。

感じる事が瞬時に考える事に直結し、間を置かずやり方を決定する。
見るまでもなく見て、情報が一瞬の間も置かず脳に到達し、
脳からの信号が神速で手足を動かす。

五感を研ぎ澄ませれば、第六感が発現する。
(字幕翻訳も、あながち間違ってはいないと思える)
特に武道の経験者なら、なお分かりやすいと思います。

さて「燃えよドラゴン」のプロローグは、実に精緻巧妙に作られています。

① まず、模擬戦(相手はサモ・ハン・キンポー)の場面。
 ブルース・リーが圧勝します。
 最後にトンボまで切って、ブルース・リーの戦闘能力、
 身体能力の高さを観客に見せつけます。
(実際にトンボを切ったのは、ブルース・リーのスタントマンらしい)

② 次は師との面談。ブルース・リーの到達した心技体の境地に
 師が同意します。同時に「像」の話をして、クライマックスにおける
 鏡の間の戦いを予言すると同時に助言もします。

③ 次に国際情報局のブレイスウェイト捜査員からの依頼がある。
 そこに稽古の少年がやって来て、前出のやりとり。

わずか10分(正確には8分半ほど)にも満たない時間の中に、
ブルース・リーの心技体の高さを紹介し、映画の方向(ストーリー展開)を
明示。さらにはブルース・リー自身の思想(截拳道ジークンドー)まで開陳している。

稽古の場面に戻ります。

リー:(少年に)分かったか? 《Do you understand?》
少年:(頭を下げて、お礼のお辞儀をする)
リー:(少年の後頭部を叩く)敵から目をそらすな 礼の時も。
   《Never take your eyes off your opponent, even when you bow.》

   去って行く少年とリーのやりとりを見ていた
   ブレイスウェイト捜査員は、得心したように肯く。

「燃えよドラゴン」の何度目かを視聴していた時、
この場面でチクッと刺さるものがありました。

それは何かと言えば、捜査官と稽古の約束をしていた少年と、
どちらを優先するのかと。普通なら、捜査官の方でしょう。
格下の少年は待たせておけば良いのですから。

しかし、そうなってはいない。
何故なら最後に、少年とのやりとりに同意する存在が必要だからです。
第三者の承認。客観的にも、ブルース・リーの思想は正鵠を射ている。
独りよがりではない。その承認者、同意者の存在です。

得心したように肯くブレイスウェイト捜査員の存在が必要なのです。
そのためにこそ、ブレイスウェイト捜査員の依頼を中断し、
少年と稽古をする必要があった。

では、ブレイスウェイト捜査員は、仕事の依頼をしに来て、
肯くだけの存在だったのでしょうか?

ブレイスウェイト(Braithwaite)と言う名字は、
あまり馴染みがありません。
アメリカ映画に限らず、洋画も結構沢山観ていますが、
この名字には記憶がありません。

アメリカ合衆国名字ランキングにも、100位以内に入っていません。
英国(イングランド)名字ランキングも同様です。

日本語で「ブレイスウェイト」を検索しても、
碌な検索結果がヒットしません。

英語で検索したら"United States 1,600 people in Family Tree"
(米国 :家系図には1,600人が登録されている)とありました。

希少な名字である事は間違いありません。
ついでに(本当はこちらが先ですが)"Braithwaite"と言う
名字の由来を調べてみました。

日本の名字もそうですが、外国の名字にも来歴があります。
ようやく見つけました。

※  過去50年間、この捜査官の名前に言及したレビューは、
  なかったと思います。

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