かばん2017年1月号

思い出しますねえ僕はむらさきで君がなみだと呼ばれたころを

飯島章友



にんげんの時間ぬぎすてて夕映えに揮発してゆくなつかしさかな

(「時間」に「とき」のルビ)

コトハラアオイ



満月で、話したことのない人がいなくなった日とてもかなしい

百々橘





新春題詠のお題は「お互い様」。「お互い様」は、文脈によりかかった言葉そのものという感じで、その意味でそういえばとっても短歌っぽい。2、3年、いえ、1年後にこの新春題詠のページを読んだら、ずいぶん不器用なお互い様だと感じたり、おずおずしているように感じたり、過敏だと感じたり、自己防衛のバランスや、、「こんな時代だったんだな」などと思うかもしれない。


なぞなぞのようなひとこととその背景の巨大な白い空間。お題を出した2016年度のながや編集長がかばんブログで語っていた、オノ・ヨーコの〈天井の絵〉の話。そこに「YES」しかなく「YES」を引き受ける感覚は、これはお互い様であるよな、と思う。ブログではレイヤーの話が出ていて、優しい顔・分かる顔をしていないことでこそ持ち得るレイヤーのことを、思いもする。



惹かれる歌に会った時、なつかしい気持ちになる。わたしは知っていた、この感覚を。と思う。だから気をつけないと、同じやり方で同じ愛し方をしては理解をできずまた壊してしまう。自分が自分でなくなることで、そこへ会いにいきたいと思う。

思い出したり悼んだりなつかしんだり、自分にとっての〈そこ〉への行きたさ、という欲望を、人は手放さない。

〈それ〉を簡単に理解した気にならないように、それが唯一のものであるために、それがいつまでもそれであるために、わたしがそこへ行けないように。そのために、流れてしまったなみだがぜったいに同じ姿ではここへ戻ってこないこと、なつかしいと感じる感覚そのものが揮発していくこと、いつかあなたと会話を交わすことがあるかもしれないという可能性が断たれることは必要だ。



息せき切っているような、溢れ出たような「思い出しますねえ僕は」。

「ぬぎすてて」いる前に「ぬぎすてられた」「すてられた」という目に見えない別れがあったのではないか。

「満月で、」しかも、いなかった人がいなくなった。いいえ、いた人がもっと心に棲みつくようになってしまった。



歌を読むと自分の欲しいものが分かり、それが手に入らないことも分かる。そういうふうにして手に入れているということも分かる。ただその感覚は、手に入れる前よりもっとずっとよそよそしく、この、これが欲しかったわけじゃない、とも思い、気づけば励まされたりして、また離れていく。





読み捨てているようでもったいないので、今みぢかにあるものを読んでメモしておく感じ。

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