2020.4.15

南森町まで歩く。家にいて、歩きたくて歩きたくてたまらなかった。自分がこんなに歩きたかったのだと知らなかった。自分の住んでいるところから南森町へ行くには南へ下ることになる。信号待ちのときに時間の流れがゆっくりになる。ゆっくり動いて、自分の手のなかから今がなくなっていくのが分かる。未来へ向かうのも過去へ戻るのも同じようなもの。わたしはあまり未来へは向かいたがらない性質なんだと分かる。きのうまで夢中だったことに何の興味もなくなる、きのうまで信じていたことを遠くの世界のことに感じる、それを今までも毎日繰り返していただけだと思うと虚しいような、ふわっと軽いような、時間から抜け出せそうな気分にもなる。1年前の感覚で大丈夫だろうと思っていたかよわい芽はもうとっくに踏みにじられ自滅してしまった。南へ下りながら見る飲食店のテイクアウトの貼紙、休業の貼紙の数々はかなり見応えがあった。昔見た遠くの土地の感じは体のなかに入っていて、その記憶が反応して疼く。人の顔を前のようには見ることはできず、心はいつも互いにまる見えだと感じることが多い。ここ1、2週間…ここ1、2か月は人とよく電話をした時期だと思い出すのかもしれない。

人やものが眠っているときの顔つき、おでこのあたり、ものがあまり動かない時空間に、人やものの賢さのようなものが漂っているように感じて心が奪われるときがある。



君ねむるあはれ女の魂のなげいだされしうつくしさかな


秋の朝卓の上なる食器らにうすら冷たき悲しみぞ這ふ   食器=うつは


秋の夜のつめたき床にめざめけり孤独は水の如くしたしむ


(前田夕暮『収穫』より)


自分のからだも、自分と人やもの、自分と時間や世界との境界もぜんぶバラバラになり、手も足も動かせなくなったものたち。動けないからだでそこにじっとしたもの同士、裸の目で見つめ合う風景。



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