藤田千鶴『白へ』
小野さんが中指たてて風向きをはかるしぐさでじっとしている
君はいま眠りの中を歩みゆきシャガ咲く水辺にたどりつくころ
晩白柚に深くナイフを刺しいれて月の破片を月より剥がす
晩白柚=ばんぺいゆ
おしまいの長さがわかる手花火が好きで見ていた光ゆくさき
耐えきれぬ火の粉はとある瞬間に火より離れて夜空へ向かう
カーテンをあけて眺める温かい雨がわたしの中に降るのを
落ちる、小さい火だね、声だけの線香花火の録画を見ていつ
近づけばしんとなりたり賑やかに木の内側より聞こえいし声
ああぼくが愛した白いブランケットに今年の秋の光が積もる
ひとも水もやさしいほうへゆるやかに蛇行してゆく半夏生あおし
ねむりつつこの世にやってきたようなスノードロップひとつ咲きたり
読み返すたびどの一首もよく思えてきて、どの一首もその歌のなかに引き込まれそうな感覚になる。深く足をとられそうな危うい底があってそこに引き込まれそう、というのではなく、底というもののない、なかを巡り巡る運動そのものに誘われる。歌の前で言葉少なになる。いつでも帰ってこれる。
自分の経験ではない。けれどこの感覚を知っている、自分もまた別のかたちで小野さんの立ち姿や火の感情を知っている、感じたことがある、と思える。たぶんほかの人もそうなのかもしれない、とも思える。具体的に自分のものだとして思い出せるものは何もなく、自分がそれらの記憶を眠らせつづけていたことに思い当たり、歌に呼ばれ絡み合いながら自分のなかを巡りはじめる。歌集を読んでこんな感覚になった。
前半では「なか」「中」という言葉がたくさん出てきた。描かれているこの「なか」「中」というものは、〈抱えている〉という状態のことで、なかに何があるのか、ないのか、よく分からない陶然とした気持ちにさせる。なかにあるものは書かれていないのかもしれない。よく分からない、陶然とした気持ちのなかを巡る。いったい何のなかなのか、なかにあるだろう空洞を指したり照らしたりするために巡ったり揺れたりする運動のようなものが生まれる。どこを指せばそれが見えるのか、どういう角度で強さで照らせばそれが浮かび上がるのか、気配以外に何も頼りになるものがないから、身軽になってゆらゆら揺らぎつづけ、巡りつづける。
ものごとを、風景を、そこに流れる時間の巡りのままに書き写されたような歌たち。抵抗なくすーっと自分のなかに入ってくる韻律や意味が、実は「なか」の世界への通路になっている。スノードロップや雨は少しだけその世界と通じており、「なか」をこちらに見せている。
どうしてか、「なか」にあり生きているものやその生き方を神聖なもののように感じるし、それは自分のなかに巡るもののようなのに自分ひとりのものではなく、自分ひとりの記憶でもないと感じる。死の状態、ねむりの状態、もう触れないし過ぎてしまった、今この外側にいる自分に対して抵抗しようのない無防備で裸の、言葉少なな命のありようのように感じる。
同じ「白」という色をテーマにした本から。
私の母国語で白い色を表す言葉に、「ハヤン(まっしろな」と「ヒン(しろい)」がある。綿あめのようにひたすら清潔な白「ハヤン」とは違い、「ヒン」は、生と死の寂しさをこもごもたたえた色である。私が書きたかったのは「ヒン」についての本だった。
ハン・ガン 斎藤真理子 訳『すべての、白いものたちの』(河出書房新社)
『白へ』が指す白はどんな白だろう。
私はあなたの目で見るだろう。
引用した同じ本では、こう書かれた言葉にこそはっとした。
ここを裂いたらハヤンへ行ける。『白へ』の歌や童話の「白」のありようは、そういうギリギリの地点に足を置いている歌のようにも思えるし、白というもののもつ意味や印象が複雑すぎて言葉にしようがない。
私ではないもの、私のようなものたちの悲しみを淡々と写し取り、巡りや揺れそのものをしずかに呼び起こす歌たちが、その巡りや揺れに呼吸を合わせていく者のなかに悲しみを接続する。軽くて、すぐに忘れてしまって、いつでも帰ってこれるさびしさのなかで。このさびしさだけが今自分がもっているもので、ほかのすべてが遠くにいってしまったもののようにも思う。
藤田千鶴『白へ』(ふらんす堂・2013年)
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