辰巳泰子「虚空蔵」(「月鞠」第19号)

水打ちてここの通りの街灯りしら骨のようにハンカチが落つ


踏むなとも踏めよとも下陰りして秋つゆくさの路地に張り出す


持ち方を変えてみたればえのころはしずくの光り手花火のよう


なじられてわが方丈に月を見るなじるひとにも寂しきかこの世


おおぞらに北斗のかたち見しひとは入れ物あらず水掬しや


年々の姿のありて莢の口渇ききり、ひらき、月かげを呑む


娶らざる男の仕事見ておれば紡ぐようなり息詰めて見ん


お父様に切られて両手のない娘 グリム一編まざまざとあり



辰巳泰子「虚空蔵」



もうだめかと思う、見放され、捨てられ、踏まれるものに自分がなると思う、自分にみえている相手はこうだと思い、思いがつよくなる、こうしてあげたいと思う、実際にしようと思ってもじりじりとしか進まない、思うようになどならない、だめだと思い、思っていたのとぜんぜん違う話になり、巻き込まれ、ここが当面の自分の場所と受け入れることになり、ここからが長い。自分がうつむいていてもものごとは進み、遠いあなたが笑っているとほっとする、どこかから大きな手がやってきて心をさすってくると思う。救われたと思う、自我が救われてまただめと思う。

自分のするべき仕事があり、自分が適任ではなくともとりあえず自分の目の前にあり、それはまったく駆け引きだと思う。駆け引きといっても人の心を操るなどという意味はなく、ここで自分が駆けられるところまで駆けなければだめになり、がんばって駆けてもだめになるものはだめになる。それしか手持ちがない。もうだめ、と分かるときに自分の手がこんなに年をとって見える。どんな手も勝手に年をとる。手しごとする手があり、何かしらのために働く手になり、そのとき手を動かす脳とからだ、こころが慰められる。いちばんきらいな人のために、いちばん自分に向いていない働きをすることを積み重ねるのだと信じたり、悔やみ、落ち込むうちに、その手はおそらくたしかに自分の手なのに何者の手か分からなくなったようにほんとうに見える、そういうときが、ある。ハンカチが落ちて輝く、手花火のちゃちな光が噴き出す、月が見える。これらを、自分の手をもたないものたちが見てきて、見ていると思う。ああ、また。手が自分のものに戻ってしまう、人の手を切ってしまわないように、しなければ。

呼ぶなら愛や祈りと呼びたいものは何か、ということはいつも、思わないように動かない手や声をのみこんだのどもと、身体をかけて考えられ、張り出してくる。いつもそうだったように。百首、百回かけて。


辰巳泰子「虚空蔵」(「月鞠」第19号より)

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