クロストーク「文語短歌は生き残れるか」吉川宏志×大辻隆弘

・「文語」「口語」の厳密な定義は置いておいて、また、タイトルはタイトルとして、「今、文語で短歌をつくるとはどういうことか」。ということを、実作者自身のなかに厚く繊細に蓄積された経験や感覚をもとに語り合う。そんなクロストークだったと思う。

(いわゆる)「口語短歌」があっという間に増え、(アララギっぽい)「文語短歌」を見かけると、ああ、文語なんだと思う。

俵万智『サラダ記念日』は約30年前に出た。その頃「今、口語を短歌にとりこむことはどういうことか」ということがつよく意識されていた感覚が2019年現在、「今、文語で短歌を詠む/読むことはどういうことか」になった。

・文語を読む/詠むことで自分の体に取り入れること、歌をよむことは、過去の言葉とつながること。歌の言葉のなかでもとくに(文法的にいえば)「助詞・助動詞で細やかなニュアンスや時間の手ざわりを示すことの出来る」文語と自分がつながると、その歌の世界にある言葉の世界観を、今自分がいる場所に立ったまま、こことはまるで違う(と感じていた)世界を認識することが出来る、そういう感覚がある。

ただ、文語にせよ口語にせよ「書かれる」言葉、歌の世界の言葉は日常語とは別物。だから、このことはほんとは文語、口語の違いにそこまでよらないのだろう。また、「細やかなニュアンスや時間の手ざわり」はあくまで文語の世界感でいうそれ、ということと思う。

・文語で表現される世界との一体感、「陶酔」をめざして使われる文語と、異和感として歌のなかに投げ込む文語と。扱うひとによって、歌によって、ひとくちに文語といってもいろんな文語がある。近代の(またアララギの)文語は西洋の感覚を日本語として取り込むために編み出された文語、とも。

・「陶酔感」が行き過ぎると危うい、戦意高揚につながることもあり得るとはよく言われること、ただ「陶酔感」というより意味と文体の「しっくり感」のことを語られていたようにも思うし、メタ過ぎる視線はニヒリズムにつながるといえるのかもしれないし、とも思う。

・歌をよむときに、テーマを読んでいく方法、その文体や表現方法から読んでいく方法がある。どちらの方法も大事にしたい。

・「口語短歌」の成熟について。たとえばふっと差し込まれる副詞によってその歌に流れる時間感覚がじわっとにじんでくる感じ。韻律について。

・「文語」「口語」の厳密な定義は置いておいて、というところがスタートだったこともあって、そこの境目が聞いているうちに、また聞き終えてからだんだんはっきり連続体として感じられてきた。大事にしたいことは、文語のなかの口語性や、口語のなかの文語性を感じながら、今、自分にとって、韻文の世界観によってものを見ようとする時間をもつこと、韻文の感覚をもとうとすることはどういうことか、というようなことだと思う。

10年、30年、ひとむかし前の表現方法って、たしかにそこから離れた今にとらえられながら読むことでほんとうにしみ入るように美しく新鮮にほんとうらしく感じる、と思う。ゆっくり読むというのはほんとうに難しいことだと思うけれど、帰って読み直した歌集がその日はほんとうにゆっくり読めた。5首ほど読んで満足してぱたんと閉じる、そういう時間の繰り返し。こういうことを自分のうちそとにあるあらゆる散文的なものと切り分けず連続体としてとらえようとすることは、どういうことだろう、どういうふうにしていくのがいいのだろう、と思う。


2019.12.7(土)/難波市民学習センター/吉川宏志さん×大辻隆弘さん


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