マジョリティは差別される対象であるか?

2019年12月12日、川崎市の定例市議会本議会において「差別のない人権尊重のまちづくり条例」が可決された。ヘイトスピーチに対して刑事罰が科されることは全国で初めての試みである。様々な属性が混在する川崎市だからこそできたものだろう。

私はSNS上でこの件を知った。Twitterで様々な声が飛び交うことは日常であるが、この件については否定的な文言が多かったように見受けられる。いいね数やリツイート数という数字が目に見えてわかる分、批判が大きく見えるということはそれだけ世間がこの条例の存在を危惧しているからだろう。

実際に見た彼らの反応は様々な言い回しがあった。

「川崎市は日本じゃなくなったのか?」
「ふるさと納税で打撃を与えよう」
「もう川崎は支配されいる」

これらのツイートに対してそれなりのレスポンスがあり、偏りがあるにしろ一定数の世論として捉えることに差し支えはないように思う。

話を進める前に、ヘイトスピーチの定義を明文化する。

ヘイトスピーチとは特定の人種や国籍、主義や思想、性的指向や身体的特徴、あるいは社会的地位などにより特徴づけられる人々に対する、主観的で一方的な憎悪や敵意に基づく差別的・侮辱的かつ攻撃的・排斥的な言動。のことである。(weblio辞書より)

この定義を踏まえて、世間がこの条例に対して何を危惧しているのかを考えたい。私がTwitter上での意見を見ていて感じた争点とされているポイントは「ヘイトスピーチの対象に日本以外という明記があるため、逆差別が起こるのではないか」という意見だ。特定の属性の人間がこの条例を利用して「日本人を差別する」可能性を憂いているということがわかった。

では、その“逆差別”とは一体何を指すものなのだろうか。日本に限った話ではないが、この国では日本人以外の属性は毛嫌いされる風習が根強く残っている。在日韓国人、フィリピーナ、朝鮮人。これらの言葉には嫌悪する意味合いが強く付加されている。特定の属性であるだけでいじめられたり、劣悪な労働環境で働かされる人たちがいることを想像するのは容易いだろう。

彼らはこの国において圧倒的に不利な立場である。自分の母親の国籍によって人生が左右されることは、私だったら耐えがたい。“平等”や“人権”はどこにもないのだ。知らん顔して生きている私たちは差別に加担している当事者であることに気付かず、生活を送っている。差別される側は無視して生きることが出来ないにも関わらずだ。そのような、差別を無視して生きる術がなく権力もなく人数でも劣る属性をここではマイノリティと称することにする。

差別されている人の存在を知っていながら、手助けせず他人事に考える私たち(と定義すること自体がマイノリティを別種のものとして捉えているようで好きではないのだが、敢えてそう表現させてもらう)はマジョリティであることに普段から意識することがない。自分が窮屈することなく他者と“当たりまえ”を共有できているからだ。これはマジョリティに属するものの要素と言えるだろう。

世間一般で言うマイノリティが自分たちの自由を訴えた時、数や権力で弾圧して排除し、透明化しようとするものをマジョリティというのではないかと今回のTwitterでの様々な発言を見て感じた。個人的に、フェミニズムを訴える人たちに対する中傷的な批判を日常的に目にしているため、これは共通する要素ではないかと思った。

一方で、全く相違した意見としてマジョリティを単なる“人数での多数派”と定義し逆差別の例示に「アパルトヘイト」を持ち出す人が何人か見受けられた。しかし、白人という属性だけで人数に関わらず黒人を虐げることができる点から考えて“マイノリティ”とは言えないのではないだろうか。

今回、川崎市がヘイトスピーチに刑事罰を科す条例を制定したことで日本のこれからを憂いている人たちが真に憂いていることは、「自分が差別の対象にしてきた彼らから復讐されるのではないか?」「彼らが力を得ることで自分たちの地位が危ぶまれるのではないか?」という恐れではないだろうか。(前者に関しては明記していた争点と類似する部分がある)

そしてもうひとつ言いたいことは、「属性によって待遇を変えることは差別的で平等ではない。違憲ではないか。」という意見だ。私はこの意見を拝読した際、ここまでユートピア的で無責任な話はないよ、と落胆した。

もちろん日本人に対する差別はよくない。そもそも”差別“が善ではない。これは前提として述べておきたい。しかし、その理想を語る前に実際に属性によって差別されている人間がいることを認識できていないのではないだろうか?“平等”も“人権”も約束されない人間がいるこれまでの状況こそが“違憲”ではないだろうか。その部分は目を瞑って「彼らだけえこひいきするなんてずるい!」と叫ばれても、そんな虫のいい話があってたまるかと叫びかえしたくなる。

つい先日、トランスジェンダーを自認する男性が女子トイレで女児に性的加害をした事件があった。このニュースを受けてインターネット上ではトランス全体を拒絶する意見で溢れかえっていた。たしかにトランスを利用した事件であり、彼らに警戒心を抱くことは当然であろう。しかし、トランスジェンダーは女子トイレを使うことを禁止することに繋げてはいけないと思う。これこそユートピア的と思われてしまうかもしれないが、結局、マイノリティが我慢を強いられる世界に逆戻りするだけだからだ。せっかくここまで様々なマイノリティが力をつけようと努力を重ねてきたのに、全く違う属性の人間が利用することでその活動全てが無駄になるなんて、あってはならない。この事件はある種のテロのように思う。

異なる属性のものをそのまま受け入れなくてもいい。ただ、彼らの邪魔をする権利は誰にもない。マジョリティに属する私たちは「嫌悪感」的な自分たちの感情を使って集団を動かせる力を持つ。それを弱者に向けてはいけないだろう。だからこそ、私はマジョリティは差別される対象ではないと考えるのだ。

いつまで経っても他を排除して自我を保つことに精一杯では、現状維持もままならないだろう。国民の意識改革にどれだけの時間がかかってでも取り組む意義はあると信じている。