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本を聴く ~本の森でひなたぼっこ~

 Audibleの会員になったのは一昨年のことだ。要はお定まりの、最初の三か月は無料という文句につられたのだ。
 最初は本当にお験しのつもりで、はたしてAudibleとはどういうものか、という軽い気持ちだった。気に入らなければ、三か月の間に解約すればいいのだ。まぁ私の場合、解約するのを忘れてずるずるといってしまう可能性もなくはないのだが。

 そんな軽い気持ちで始めたAudibleだが、これが思いのほかハマってしまった。
 Audibleを利用するのは、家事の時間と移動時間。
 当たり前のことながら、家事をしながらは本を読めない。洗い物をしながら、掃除機をかけながら、料理を作りながら本を読むことはできないのだ。だがフルタイムで働いていると。家事は仕事以外の時間のうちの結構な割合を占めている。
 Audibleを使えば、そんな時間も読書の時間となるのだ。

 そして移動時間。これは私自身の体質や体調によるところが大きい。
 電車で本を読むのはまったくもって平気なのに、バスで本を読むと三分と持たずに気分が悪くなる。
 私はもともとほんの少しでも隙間時間があれば本を読んでいたいタイプの人間だ。出かけるときにはたいてい鞄の中に文庫本を一冊か二冊入れている。旅行のときには、一泊二日でも三冊は必ず持って行く。
 通勤時間も読書をするのが当たり前だが、2022年の異動で通勤に使う公共交通機関がJRからバスに変わってしまった。
 せっかくの貴重な読書の時間が、まったく使えなくなってしまったのだ。
 それを救ってくれたのがAudibleだ。

 Audibleはサブスクとしては決して安くはない。だが、月にハードカバーを一冊、文庫本なら二冊か三冊で簡単に元は取れてしまう。検索してみると、いつか読もうと思って結局読んでいないオールタイムベストもあるし、刊行点数の多さにすっかり遠のいていたラノベもある。
 私の手元にある本は早川書房と東京創元社に偏っているが、早川書房は結構な点数が登録されているし、東京創元社も少しずつ増えているらしい。
 そういうわけで、私は無料期間の三か月を待たず、最初の一ヶ月で早々に今後も契約を続けることを選んだのだ。

 Audibleを始めた決め手は確かに三か月の無料期間ではあったが、もうひとつのきっかけは『同志少女よ、敵を撃て』(逢坂冬馬/早川書房)が収録されていることだった。2022年の本屋大賞受賞作だ。
 なぜこれが気になったのかというと、理由は三つある。

 ひとつめは、本屋大賞ノミネート作であること(聴き始めた当初はまだノミネート段階だった)。
 本屋大賞にノミネートされた作品は、私好みのお話が多い。もちろんノミネートされたからと言ってすべてが好きな話とは限らないが、比較的好みに合った作品が多いように思う。

 理由のふたつめは、Twitterでこれは良い百合、というつぶやきが散見されたこと。
 当時の私は百合がマイブームだった。正確には、いわゆる百合と言われる界隈の作品ではなく、それがテーマではないが登場人物が実はそういう関係性と読み取れるような話が好きだったのだ。
 私は男女、男同士、女同士に限らず恋愛ものはあまり読まない。だが、ブロマンス(ブラザーフッド)やロマンシス(シスターフッド)と言われる作品は大好きだ。友情と言うには濃い関係がどうやら私は好みらしい。
 Twitter(当時はまだTwitterだった)で散見されるこの作品の感想からは、そういった私の好きな要素があることが読み取れ、それもこの本を読むきっかけの一つとなった。

 以上ふたつの理由は、正確にはこの本が読みたかった理由であって、Audibleで聴きたい理由というわけではない。Audibleで聴きたかった理由は、みっつめのものだ。
 それは『同志少女よ、敵を撃て』が現実の戦争を舞台としていること。
 たとえばファンタジーやSFのように、それが架空の世界ならば、私は戦争の話を読むことにまったく躊躇はない。現実世界の話でも、歴史上の、つまり戦国時代やその前の時代のように、ずいぶんと昔の話ならば大丈夫。
 ただ、第二次世界大戦は少しばかり近すぎる。この本を読み始めてすぐに、この話の舞台であるロシアが戦争を始めたのだから、なおさら。
 つまり実際の戦争のことに思い至り、ページをめくる手が止まってしまうのではないかと私は常々思っていたのだ。
 この本は発売前から、第11回アガサ・クリスティー賞受賞時の評判を聞いたときからずっと気になっていて、なのに発売後一年近くたってもまだ手に取っていなかったのは、それが理由だ。
 けれどAudibleで聴くのなら、自分で実際にページをめくることはない。停止ボタンを押さなければずっと流れ続けるだけだ。
 家事をしながら、移動しながら聞くのであれば、停止ボタンを押したくてもすぐに押せるとは限らない。
 そういう状態なら、そんなふうに少しためらっている本でも最後まで聴けるのではないかと思ったのだ。まるで映画館で映画を止めることができないように。
 その考えは当たっていた。たぶん本を読んでいたら手を止めてしまっていただろう凄惨なシーンや、共感性羞恥を呼び起こしてしまいそうなシーンでも、Audibleならばそのまま続けて聴くことができたのだ。

 そうしてAudibleをインストールして二年弱、今ではほぼ毎日、本を聴いている。最近では推しのナレーターさんもできたし、声優さんとナレーターさんに求められる技術の違いもなんとなく理解できるようになってきた。
 たとえば小説の地の文を読むには、感情がこもっているかどうかよりも、一定のリズムで読める方が世界に入り込みやすい。役柄の演じ分けは声色を変えることも重要だが、喋り方や抑揚のつけ方、話す速さがかなり重要になってくる。
 他にも、一度読んだ本をAudibleで再読すると、これまで見落としていた部分や、目で文字を追っていたときにはさらりと流していた部分が浮かび上がって来たりと、新たな発見があったりもする。

 入院していたときにAudibleと出会っていれば、ずいぶん助けになっただろうなと思う。
 なにしろ紙は重いのだ。開腹手術をしたあとでは、ハードカバーの本は重すぎる。文庫本だってずっと持つには結構きつい。タブレットで電書を読むのもやはり重い。
 きっと年を重ねて体力が落ちてきたときには、Audibleで本を聴く割合はもっと増えていくだろう。

 そういえば初めてAudibleを聴くときには、ちゃんと聞き取れるだろうかという不安があった。文字を読むのではなく、本を音として聴いたときにちゃんと言葉の意味が、文脈がわかるのだろうか、文意を汲み取れるのだろうかと少し不安だったのだ。
 けれど実際に聴いてみると、意外なほどスムーズにお話がするりと入ってきた。
 たまにわからない言葉があって調べたとしても、たいていはその作品における造語や固有名詞だった。少々同音異義語で迷ったこともあったが、ちょっと立ち止まって考えればすぐにわかるようなことばかりだ。
 どうしてこんなにするりと馴染んだのだろうと考えて、ふと思い至ったことがある。子供の頃よく聴いたカセットブックの存在だ。

 カセットブックというのは、カセットテープに録音された本だ。要はナレーターが本を読み、それを録音したカセットテープを私は子供の頃に何度となく聞いていたのだ。
 今ではもうカセットテープの存在を知らない方もたくさんいらっしゃるだろうけれど、要は声や音を録音することのできるアナログな機器と思っていただければだいたい合っていると思う。
 そういうものがかつては存在していて、私は子供の頃、何度も何度も繰り返し聞いていたのだ。
 録音されていたのは『灰かぶり』と『マレーヌ姫』。グリム童話だ。

『灰かぶり』はつまりシンデレラ。
 だけどこれはよく知られているシンデレラとは少し違う。魔法使いもカボチャの馬車もガラスの靴も出て来ない。けれど魔法は出てくるお話。
 灰かぶりにドレスと靴を用意してくれるのは魔法使いではなく、お父さんがお土産に持って帰ってくれたはしばみの木だ。灰かぶりはお父さんにもらったはしばみの木をお母さんのお墓の傍に植え、なにか辛いことがあるといつもはしばみの木の傍に行っていたのだ。
 舞踏会の日も一人だけ連れて行ってもらえずにはしばみの木のところへ行くと、はしばみの木は灰かぶりに銀のドレスと銀の靴を出してくれた。翌日には金のドレスと金の靴を。
 灰かぶりは金の靴を落としてしまい、王子様は金の靴を手に灰かぶりを探しにくる。

『マレーヌ姫』は国王である父親の言いつけに背き、七年もの長いあいだ塔の中に閉じ込められる。しかしその七年の間に戦争が起こり、国はすっかり滅びてしまった。
 塔からようやく出てきたマレーヌ姫は、とある国の王子に嫁ぐ姫の車に拾われる。姫は意地悪で醜いのだが、美しいマレーヌ姫を見て彼女を自分の身代わりにすることを思いつく。マレーヌ姫を結婚式に出席させ、その後、自分が成り替わろうとするのだ。
 マレーヌ姫は結婚式へ向かう道々、小さな声でこう呟く。
「扉よ扉、壊れるな。私は本当の花嫁じゃない」
 実は結婚相手の王子は国が亡ぶ前はマレーヌ姫の婚約者。結局、意地悪な姫の計略はバレてしまい、マレーヌ姫と王子が結ばれる。

『灰かぶり』も『マレーヌ姫』も、私はその後同じテキストの本を読んだことはない。グリム童話が出版されたと聞くたびに探すけれど、どうしてもあのカセットブックと同じ話は見つからないのだ。
 けれど私は子供の頃に聴いたお話を、今でもくっきりと憶えている。

 本を聴く。
 この二年間のAudibleでの読書と、子供の頃にずっと聴いていたカセットブックを思い返すと、本を聴くのも読むということの一形態なのだとつくづく思う。

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