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分裂しそうな日々

「日に日に言葉を失っていく感覚がある」ということを去年末の記事にで触れていた。

この感覚はここ2・3年ずっと自分の目の前を薄ぼんやりと漂っているものの、ある程度の波はあり、最近はほんのちょっとだけましだった。

ただその波はある日突然やってきたりする、ちょうど今。

基本的に感覚は支離滅裂なのだけど、こういう支離滅裂な感覚は残しておいても、振り返った時何かになるんじゃないか?というわけで、支離滅裂に文章を書いてみる。

原風景の話

最近自分の原風景には、「空が広いこと」があるんだろうなぁと思う。

この原風景に気付いたのは、半年前くらいに滋賀に行った時だったと思う。
滋賀の道路を走っていると、なんだか急に地元に戻ったような感覚に陥った。

今住んでいる場所や、京都市内や南大阪と、自分が住んでみたり滞在した場所でなんとなく感じていた違和感、それと滋賀での感覚を照らし合わせると視線の先にそびえたつ山の存在の有無が浮かび上がってきた。

どこまでも空や地平線が広がっていて(広がっているように見えて)、どこまでも行けるような感覚。

地元を走ったり、中央線に乗りながら遠くの景色を見ているとそんな感覚に吸い込まれそうになる。

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移動の話

まちづくり・地域づくり、といった領域の中で活動しているが、会社がない土日は用事がない限り、住んでいる地域を出て、他の地域に移動している

基本的に自分の住んでいる町にいない。

住んでいる場所が嫌いなのかと捉えられたりすることもあるが、自分の中ではあまりそんな意識もない。ただ本当に一つの場所にじっとしていることができない、もうそういう性分だからしょうがない。

ただ、これは本当に嬉しく、本当にありがたいことに、最近色んな人が自分の住んでいる地域を訪れてくれる。その時は住んでいる地域に留まり、観光案内をしたりするのだけど、地域の案内をする中で、地域を知って楽しんでもらえたり、また自分も知らなかった住んでいる地域のことを知れたり、そして何より今までになかった人の流動が生まれていることがとても楽しく、あぁ自分はそういったことに楽しみを見出すんだなぁという発見があった。

またもう一つ発見が。

一つの場所にじっとしていられなくて、他の場所に行ってしまうのは性分もあるけれど、上記の観光案内的な部分でいくと、「自分が赴かない限り、向こうから来ることはない、から行く」という信念が自分の中にあるんだなぁと最近気付いた。

最近ちょっと分かってきたけど「移動」という行為はまぁまぁ腰が重い作業だなぁと。わざわざその腰が重い作業をしてもらいたいのなら、まず自分から。

だからなぜその場所にいるのか、という意義を考えてしまう。

そこがぼやぼやすると精神と行動と、いろんなものが分裂して、よく分からない感覚になる。

日々暮らす話と人間生活を送る上で必要ないものをつくる話、バランスの話

日々暮らしている。今日は家の掃除をしていた。そして絵を描いたり、立体を製造したりしていた。

人間が生物として暮らす上で必需な衣食住を満たす行為と、生物として暮らす上で全く必需ではないけれど、なんだろう自分の心とか内面を表現するための創作活動的な?行為、そのバランスが難しい、というか自分はそのバランスがあまりうまくとれてないんだろうなぁと思う。

立体を製造する前に、食べ物を口に入れるべきだし、絵を描く前に、洗濯物を畳むべきである。なんだかその辺のバランス感覚がとれていない。最近とれなくなったのか、昔からこうだったのか?20数年間このことであまり悩んだことがなかったのが急にここ数年で表出してきている。

最近暮らしていて結局ある程度色んなことをバランスよくこなすことが大事なのかなぁと感じることが多い。

ここ数年はそのバランスをとろう、と頑張っている、が急にどっと疲れた。

最近、よく行動を共にする人達(=近くにいる人達)を見ていると、自分は今まで割と偏ったコミュニティにいたんだなぁと思うし、上記のバランスのことも今まで自分は全く意に介していなかったけれど、それが最近めっちゃ顔を出してくるなぁと。

何が言いたかったんだっけ?


色々と言葉をつらつらと並べた。頭の中の支離滅裂をとりあえず出した。

目的やゴールのない文章を書きたかったのも。

おわり



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