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幸せになるために必要なこと

幸せであると思えば幸せである

 これを読む皆さんは、幸せでしょうか?
 そうであればいいな、と思いながら書いています。

 幸せになるためには、何が必要なのでしょうか?
 「幸とは一体何なのか?」というそもそも論もありますが、しかし、幸せとは何なのかを知ったところで、幸せになれるとは限りません。
 それの答えを追求した結果、
「私は幸せの定義に属していないじゃないか!私は不幸だったのだ!」
と気付いてしまうと、本末転倒ですから。

 それに、そんな定義に惑わされる必要もありません。
 あなたが幸せかどうかは、あなたにしかわかり得ないことです。
 定義に該当するかどうかで判断できることではありません。
 幸せになるために唯一必要なのは、
「幸せである」
という認識だと言えるでしょう。

「ここにあなたがいないのが淋しいのじゃなくて、ここにあなたがいないと思うことが淋しい」
と大事MANブラザーズバンドが歌っていたのは1991年のことです。
 この歌詞は、淋しさを覚えるのは「あなたがいない」という事実によってではなく、「あなたがいない」と思う心持ちによってである、と言っています。なんだか哲学的な歌詞で、心に残りました。

 さらに遡るならば、デカルトが、
「我思う故に我あり」
と言ったのは17世紀のことです。
 「思う」ことが「存在」を証明することだ、と言っているのです。

 肉体が存在する人間ですら、「思う」ことでしか存在を証明できないとデカルトは言うわけですから、まして物質としての形のない「幸せ」という漠然とした概念は、認識しなければ存在しようがない、ということになるでしょう。
 だから、「淋しいと思えば淋しい」というのと同じように、「幸せだと思えば幸せである」と言えるのです。


不幸だというのは思い込みである

 「幸せだ」という認識を持てば幸せであると同時に、「不幸である」という認識を持てば不幸です。
 どちらも「思い込み」でしかなく、どうせ思い込むのであれば「幸せだ」と思い込んだ方が良いですよね。

 幸せを感じられない人は、少し考えてみましょう。
 「これを失ったら不幸だ」と思うものをいくつか挙げてみてください。
 家族でしょうか、
 お金でしょうか、
 仕事でしょうか、
 友達でしょうか。
 いくつか思いつくでしょう。
 しかし、そう思いついている今、それらは失われてはいません。
 「失ったら不幸だと思うものを失っていない現状」は、「幸せ」だと言っても差し支えないのではないでしょうか?

 認識によって幸せか不幸かが変わるとすれば、どういう認識をしたいですか?


お金があれば幸せなのか

 幸せの議論において、「お金があれば幸せなのか」というのはよく挙がる議題です。
 確かにそうかも、と思う人も多いことでしょう。
 また少し考えてみましょう。

 たとえば、子供の頃、
「10万円や100万円があれば、幸せになれるに違いない!」
と思っていた人もいるでしょう。
 しかし、大人になった皆さんは、その10万円や100万円をすでに手にしているはずです。
 どうですか?幸せになりましたか?

 その答えが「イエス」であれば、あなたはすでに幸せな人です。
 幸せを手に入れた成功者であるでしょう。

 答えが「ノー」だった人は、もしかすると、
「10万円や100万円じゃ幸せになれないことがわかった。でも1億円ぐらいあれば幸せになれるはずだ」
と思うかもしれません。
 しかし、一度は「100万円で幸せになれる」と思ったのに意見を覆して「やっぱり足りない」と思った身です。
 1億円を手に入れたとしても、
「たった1億円では何もできない」
と思うに違いありません。
 n=1でもn=2で幸せではなく、n=30でもn=31でも幸せでないならば、どんなnであっても幸せではない、というのが帰納法による証明です。
 小学校の1000円のお小遣いでも中学校の2000円のお小遣いでも不満で、会社員として30万をもらっても翌年昇給して31万をもらっても不満であるならば、社長に出世して1000万円もらっても投資家になって1億円を稼いでも不満である、と証明されてしまうのです。

 逆も証明が成り立ちます。
 n=1でもn=2でも満足で、n=30でもn=31でも満足ならば、どんなnでも満足できるということです。

 さて、どうやら答えが出たようです。
 「お金があれば幸せになれる」は完璧に反証されました。
 幸せな人は、お金があっても無くても幸せですし、不幸な人はお金があっても無くても不幸だということです。

 この証明を裏付ける調査結果も出ています。
 ここ50年で、日本人の平均所得は10倍になりましたが、幸福度はほぼ変わらない結果が出ているそうです。
 理論、実測ともに、お金と幸せはほぼほぼ無関係だと言えるのです。


裕福な生活をすれば幸せなのか

 美味しいものを食べれば幸せなのか。
 美味い酒が飲めれば幸せなのか。
 良い家に住めば幸せなのか。
 多くのものごとを知れば幸せなのか。
 楽しい遊びができれば幸せなのか。

 幸せとは何なのかと考えると、そのようなことが思い浮かびます。
 と、すれば、現代人は、全員が幸せであるはずです。

 現代日本人は、ほぼ全員が、徳川家康よりも美味い酒を飲んで、美味しい食事をしています。
 聖徳太子よりも良い家に住み、夏は冷房で涼み、冬は暖房で快適に過ごしています。
 諸葛亮孔明よりも多くの情報を歩きながらスマホで素早く手に入れることができます。
 ナポレオンよりも多くの遊びを知り、映画館に行きカラオケで歌い、無料アプリを楽しみます。
 歴史上のどんな偉人たちよりも裕福な生活をしている我々が、なのにどうして、歴史上最高に幸せだと言えないのでしょうか。

 答えは明白です。
 裕福な生活というものが、そもそも幸せとはあまり関係がなかったからです。というよりも、「裕福」もまた、絶対的なものではなかったから、ということになるでしょう。
 道路が整備され、交通はとても便利になりましたが、それで幸せだとは現代人は思いませんし、今さらそれを「裕福」だとも思いません。
 線路が敷かれ、空路が開通しても、それで幸せだとも裕福だとも思いません。
 無料でテレビが見られたとしても、それを喜ばないどころか、「面白い番組がない」と不満に思う人のほうが多いでしょう。
 インターネットが行き渡り、5G通信が可能になった今、一瞬だけ喜んでいるかもしれませんが、数年後には道路やテレビと同じ扱いになります。

 裕福で幸せな世界を作ろうと科学は日々進歩していますが、残酷な話ですが、実際には科学の進歩で幸せになる要素は大変少ないのです。
 なぜならば、人間の欲望の増大速度のほうが、科学の進歩やAIの進化などよりも、圧倒的に速いからです。
 欲望のほうが先行してしまい、欲望を満たせない環境に対して不満を覚えてしまうのです。


学問的な答え

 実は、どうすれば幸せになれるのか、学問的な答えはすでに出ています。
 人が幸せでいられる大きな要因は、「感謝をする」「許す」「気付く」「夢を持つ」だそうです。

感謝をする
 素晴らしい人には感謝をする。
 善い行いには感謝する。
 恵まれた状況にいることに感謝する。
 そういう心持ちでいることが、幸せでいられる大きな要因であるそうです。
 「ありがとう」と1日に何回言っているか、と言い換えることもできるでしょう。
 毎日、神に感謝の祈りを捧げることで幸福になれると信じる宗教は、科学的な側面から見ても間違ってはいないということになるでしょう。

許す
 「迫害する者のために祈れ」と言ったのはイエス・キリストです。
 僕はキリスト教徒ではありませんし、おそらく読者の皆さまもキリスト教徒ではないでしょうから、ここを掘り下げる意味はないと思いますが、つまりは復讐心や憎しみを抱えていては幸せではいられない、ということです。
 誰しも、過去に嫌なことはたくさんあったでしょう。
 しかし、それをいつまでも根に持って恨み言を言っても、それで幸せにはなれません。
 そういう腹立たしい事柄や、嫌なトラブルを許容することでこそ、ネガティブな過去に囚われない幸せな生き方ができる、ということです。
 迫害する者のために祈ることは、迫害する者のためではありません。自分が幸せでいられるために祈るのです。日本風に言えば、情けは人の為ならず、なのです。

気付く
 「幸福とは空気のようなもの」とは誰の言葉だったでしょうか。
 失う前に、その存在のありがたみに気付くのは難しいことなのだそうです。
 多くの人が、いま幸せでいることに気付かないからです。
「幸せとは、美味しい食事をすることだ」
と口では言いながら、毎日の食事に幸せを感じていない人もいることでしょう。
 近年、マインドフルネスが流行っているのも、そのためです。
 幸せな環境はすでに整っていて、あとはそれに「気付く」だけなのです。
 マインドフルネスによって幸せになるのではなく、もともと幸せだったことをマインドフルネスで強く認識する、というわけです。

夢を持つ
 心理学による答えとしては、「夢を叶えたから幸せ」なのではなく、「達成しようと努力する過程が幸せ」だと言われています。
 「頑張っている自分が好き」というのと似たような心理状況だと言えるかもしれません。
 しかし、そう考えれば、それは当然ですよね。
 「頑張っている自分」と「頑張っていない自分」と、どちらが好きかと問われれば、誰でも前者を選ぶことでしょう。
 「自分に恥じない生き方をしているか」という考え方とも通ずるものがあるでしょう。
 別に、誰に言う必要もありません。
 しかし、自分の心は真実を知っています。
 夢を持ち、それを追う間は、幸せであるのです。


幸せになれない考え方

 ここまでで、幸せになるための答えはすでに出ていることと思います。
 ですから、わざわざ言うことではないのですが、今までのことを踏まえた上で、幸せになれない考え方の例を挙げてみようと思います。
 ここに該当しないようにしていただければ、と思います。

「もっとお金があれば幸せになれるのに」
 確かに、年収400万円と年収800万円では、多少幸福度が違うという結果は出ているようです。
 しかし、800万円以上では頭打ちとなっていて、1億も100億も同じだと言われています。
 また、そもそもお金への執着が強いことが、幸福度を下げる要因であることも、明らかとなっているようです。
 つまり、お金がないから不幸なのではなく、「もっとお金があれば幸せになれるのに」という思考回路だから不幸、と言えるでしょう。
 同じお金を追い求めるにしても、
「今の世の中には足りないものを作って社会に提供しよう!そうすればお金を稼げるに違いない!」
と、夢を持って現実的に努力してこそ、幸せが訪れるのです。
 そして実際にお金がやって来るのかどうかは、結果論です。やってみなければわからないことです。

「経験や体験など、形の無いものにお金を使うのはもったいない」
 調査の結果によると、同じ金額を使うにしても、物質を買うよりも、旅行で知らない場所に行ってみたり、パラグライダーで空を飛んでみたり、というような体験に使ったほうが、長く幸福でいられるのだそうです。
 なのに、それを「もったいない」と拒んでいては、幸せから遠ざかることにもなるでしょう。
 これは、エンゲル係数の考え方と似ていると言えます。
 食費の割合が多いということは、娯楽費の割合が少ないということであり、だから生活水準が低いという目安になります。
 物質としての形のない体験というのは、最たる娯楽ですから、その比率が高いことは、すなわち生活水準の高さを証明することだと言えます。
 「貧しいのに無理をして娯楽費を捻出する」というのはどうかと思いますが、選択の余地があるならば、形のない体験などに使うほうが、幸せを感じやすいということになるようです。
 僕はマジシャンですから、「マジシャンは幸せを売る商売だ」と言ったりもするわけですが、それは科学的にも偽りなしだということになります。
 マジックを見るためにお金を使う、という体験は、やはり幸せになれる行いだと言えるようです。

「他人にプレゼントをするぐらいなら、自分に使いたい」
 これも調査によると、自分のために使うよりも、他人のためにお金を使うほうが幸福になれるという結果が出ているそうです。
 それなのに、自分のためだけに使ったり貯め込んだりしていては、幸せから遠ざかることにもなるでしょう。
 ここまで読んできた読者の方には、想像通りの結果だったのではないでしょうか。

 考えれば考えるほど、お金と幸せは結び付かないことに気付くでしょう。
 お金が欲しいと思う心持ちであると幸せから遠ざかり、自分が持つお金を他人のために使うことで幸せになれるのです。イソップ寓話『太陽と北風』のような話です。
 お金は「持つ」ことではなく「使う」ことでこそ幸せになれるというのは、幸せになれると信じてお金を求める人たちにとっては、なんとも皮肉な結果だと言えるかもしれません。

 参考までに、僕は先日、ヒーローウッドエンタ-テイメント1分動画グランプリというTwitter動画企画を開催しました(動画は今でも見られます)。
 それで、Twitterでたくさん反響を呼んだ投稿者に賞金を出しました。
 世の中を盛り上げるためのお金の使い方だったと自分でも思っていますが、とにかく、開催中は忙しくも幸せでした。
 調査結果の信ぴょう性は、確かであるように思います。


 いかがだったでしょうか。
 皆さまが幸せであるために、参考になれば幸いです。



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