私の芸術運動176アメニモマケズ

実は最近心がグズグスしているんです。

脆いというほどでも無いけれど。

本当に地に足つかぬ天狗の子みたい。だけど定まらぬ今を楽しむ心も持ち合わせているから爪先でツンツン地面を突きながらフヨフヨと浮かんでる、最近はとことん自分が在って無い様な気がする、自分の存在の軽さに耐えかねて全身がビリビリする、だけどそれもまた面白かったりする、というより気が楽だったりするわけです。

私はこんなに周りの人に恵まれて、こんな人間でもこうしてここまで生きてこられた、なのに半透明な自分がいる、上手い表現が見つからないのだけど、生きていて自分にとても力を感じるけれど、同時にとても無力に感じる。

私の絵も同じでとてもエネルギーを感じると同時にフワッと消えてしまいそうな気がする、絵を目の前にしてそこから色んなインスピレーションが発生するけれど、少し経つと何かの拍子にそれは失われる、今朝見た夢を思い出せない感覚と似てる。

それほど曖昧なもの。

理想は日常の仕事が自分の生活に根ざしていて、それをただ生きるために続けていくうちに体が勝手に動き出す様になるまで時間がかかる、何気ないいつもの事と言える様になってやっとそこから始まる、習慣というとなんか違うんだよなー、刺激を求める自分も大事ではあるけれど、何も持っていなくても幸福度は変わらない、そんな感性を持っていたい。

私は自分や何かのために行動するけれど、それによって自分が得をする事を念頭には置いていない、自分が他に何かを発してもその反応が想像より下に感じるもので在っても私はそれに感謝できる様な人間でいたい。

何かに優っていたいと思うこともあるけれど、優っていなければダメだと思う様には生きたくない、他人からすごいと思われたいと思うけど思われないと嫌だとは思いたくない。

そんな事で自分の幸福を感じる心が削り取られるのはごめんだ!!

自分は幸福を感じているのをわかっているのに、それが誰かより劣っていると感じると自分の幸福感が劣等感になる、私はそういう風に感じて生きたくはない!!

同じ様なことを色んな言い回しで書いてますけど、言いたいことは一つです。

私は私として自分の幸福を自分で感じていたい、世界の平和について考えることがよくあるけど、これが平和というものだ!!という決まりは無い、ただ、平和を乱す原因は欲とか執着が始まりにあると思う。

承認欲求を満たされることが幸福とも言い切れない、承認欲求からは劣等感を感じるから。

私は思う、宮沢賢治の雨ニモマケズという詩こそまさに幸福というものなんじゃ無いだろうか?と。

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