誰が為

絵に関しての心のモヤモヤは晴れつつあるけれど、どこか陰鬱な雲がまだ頭上には立ち込めているよです、いろんな事がモヤモヤしていて鬱陶しく感じています、僕はせっかちだし我慢強い方ではないから問題点を見つけて早く排除したいのですが今回はそんな単純な話でもないようです。

先程自分の事を我慢強くないと言いましたがなんだかんだでこんな状態がそろそろ2年経とうとしています、この2年間、本当にいろんな事がジャブのように飛んできて僕は僕なりに必死に対応してきました、2年間打たれ続けています、しかし、それが本当に辛い試練のようなものだったのか?本当の苦労と呼べるのか?と聞かれるとそうではないのです、うまく言えませんが、ジャブが飛んできていない間にもいつ来るんだ?どこから来るんだ?と怯えながら過ごした2年間だったのです、全ては幻のように実際はそこには何もなかったかのようにすら感じます、自分を苦しめていると思われるものの正体が何も無いのです、言ってしまえば自分の内側から溢れ出した負の感情によって僕自身が苦しめられていたという感じです。

なんか息苦しい、そんな思いが2年間僕を圧迫して来ました、実際は呼吸も苦しくはないのですがなぜが僕は苦しいのです

自分がやって来たことが自分に跳ね返って来ているというか、どんどん悪い立ち位置に追いやられて来たという感じ、なぜか苦しいというのが本音です。

膝下、スネくらいの水深の川を歩くことはそんなに苦にはならないでしょう、しかし、それが何年も続くとどうでしょうか?ジワジワと自分の中に何かが蓄積されていてそれが自分を知らず知らずのうちに追い込んでいたというのが僕の今の考えです、ストレスももちろん、疲労感ももちろん、気力も奪われています、僕は今ストレスをぶちまけてどこかに発散したいのです、しかし、そういう相手もいません、なぜかわかりますか?

僕は自分で選んでこの川を歩んでいるからです、中にはもっと急流の川で必死に進んでいく人もいます、水深が深く泳いでいる人もいます、舗装された道路を歩んでいる人も出すし、森の中を進んで行く人もいます、みんなそれぞれが選んで歩んでいるのです、自分の歩む道について愚痴をこぼしたり文句をつけるという事がどういうことか?それに、陸を行く人などにその文句を言ってもじゃー上がってくればいいのにと言われてしまうのがオチなのです、急流のを行く人はなぜか文句もたれずただ一心に進んでいます、こんな浅い川で僕が人にぶちまけることほど情けないことはないのです、自分で選んで歩いているのですから。

とは言えですよ?テレビでは芸能人の訃報や、薬に逃げる人、僕の周りでもいます、病院に通ったり、施設に入ったり、まさに神経症の時代なのかもしれませんね、隣の芝が青く見えて仕方ないというか、劣等感や焦燥感、不安に知らず知らずのうちに覆われている人が多いと思うのです、自分のことは意外と分からなかったりするらしいです、僕は薬や死にとりつかれることのない性格だと自負しておりますが、それでもやはり最近は気分よく生きて行けるような雰囲気でもないのです、コロナの影響もあるでしょう、物理的なソーシャルディスタンスもありますが、心の距離まで伸びてしまったように錯覚したりします、そんな中でもご飯に誘ってもらったり、遊びに連れ出してくれる人や、僕から声をかけてそれに当たり前のように乗っかってくれる人たちがいます、僕はそれに随分救われているのだろうと思います。

本業は油絵画家です、孤独な戦いというか、それをするためには自ら孤独を選んで行かねばならないという定めがあります、しかもそれによってもたらされる芸術に対しての愛情が僕を生かしていると言っても過言ではないのです

孤独に芸術ありきです、しかし芸術は万人のためにあるのです

芸術は僕を社会的にはなかなか生かせてくれないけれど、芸術が無いと生きていけないように思います、普通に考えれば絵なんて無くてもこの世界は回るのです、しかし本当に機械的に回るだけです、それほど虚しいことはありません、人間として生きているのだから心に喜怒哀楽が無ければ何が人間、と思うのです、機械的に生きることもできますし、機械的な生活の中に愛を持っている人もいます。

僕はいつか行った美術館で芸術に触れ、涙を拭った日がありました、人間の生命の維持に一見係わりのなさそうなものが人間の生命を表現していたのです、それを見た僕の心は息を吹き返したように生き生きとエンジンのようなものがかかり突き動かされたのです、生命の維持などと必要最低限な肉体的なことではなく、心の永遠性についての大切な学びだったと思いました、芸術は万人のために、時代を超えて半永久的に生き続けるものであり、まさに今を生きている生命の総意のように感じたりしました、生きてこそ!!と思わせてくれたのです、もともと死ぬつもりなんてこれっぽっちもありませんが死なない事が生きているということでは無いように感じたのです、生きるとは死なない事では無いんですよ。

思えば僕がガキの頃に死んでしまったお父さんの愛情があって今もこうして僕は生きているのです、ならば最近の僕がなぜこうもモヤモヤと生きているのか?その原因はここにあるのです。

僕はたくさんの人の愛の中で生きています、しかし僕のところで愛が途絶えているように感じているのです、僕が誰かに何かしてあげられているのか?その答えが出ないのです、僕の芸術ですら全く鳴かず飛ばず、しまいにはゴミなどと言わしめてしまうほどの出来栄えらしいのです、芸術に理解のあったと思われる前にお付き合いしていた女の子にすら僕は裏切りという仕打ちで持って関係を終わらせてしまっています、仕事だって自分の生活のためであり歯車としては一つの役割があるにしろ、自分の本当の存在意義というものはなかなか見出せないままでいます、人を幸せにする事が僕にはまだできていません、しかし、それでも僕は愛を享受して生きています、もうただ貪っているだけなのでは?と思ってしまうほどにです

誰かのためになりたいという思いの根幹に、自分がいるから僕は余計に自己嫌悪に陥ってしまいます、誰かのために何かをしようとしている自分が偽善者に感じます、回り回ってそれは自分の心を満足させるためにやろうとしている事だからです🌀

無条件で誰かのために?僕には到底できそうもありません、果たしてこれで生きていると言えますでしょうか?与えられたものを受け取っているだけなのです、しかも好きなものが芸術とはもう本当に僕は自分の為にという事になるのでは?と思っています、僕の芸術が誰かのためになるのならいいのです、しかしそれはエゴですよね、結局は自分の心のためにやっているのです、これは本当に苦しいのです、酸素は吸えても息苦しいのですよ。

だったらば、世のためどこかの歯車の一つにでもなり、死ぬまで歯車を回す事に尽くせば今の僕よりはもっと真っ当に世間の役に立てるのでは無いか?と思おますが

それもできません、いつも画集を見ながら、僕もこんな風な絵が描けたらなと思い絵を描くのです、これまで僕の家系の先祖様方達が僕にまで必死に何世代も何世代もバトンをなんとか繋いできてくれたのだと思うのですが、僕の代でせき止めてしまうのでは無いか?という強烈な責任感も感じております、もちろん感謝の気持ちも感じていますが、今の自分を見ていると感謝よりも自分の面目なさに腹が立ってしまいます🙇‍♂️

ここ2年くらい、僕は自分の心を見直してきました、もっと良き人間になりたいのです、誰かのためになるような人間になりたいのです、いっつもいっつも誰かに助けられている、こんな自分がこの先も続いていくとは思えません、今のうちに少しでも恩返しができればと思います、こんなブログでも誰かの役に立てたりするのでしょうか?

みんなそれぞれが大なり小なり何か後ろ暗いものを感じているのだろうとは思います、これからも誰かに助けられて生きるのなら、それ以上に恩返しをして生きていける強い人間になりたいと思うのです、それが僕の芸術で叶うのならこれ以上の人生はないでしょう、僕の芸術でかなわぬのならそれはもう仕方ない、そんな思いを抱えながら生きて行くしか無いです、どうぞこれからもよろしくお願いいたします。👨‍🎨🤦‍♂️🌀

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?