私の芸術運動174なぜ覚えている?

思いつきで行った岩手県の一人旅から帰って来てから、心が落ち着かないでいる。それはゴールデンウイークがそろそろ終わってしまうからなのか、仕事が始まるからなのか、5月いっぱいで今の職場を辞めるからなのか、他にも考えられる要因はいくらでもあった。

私は盛岡から電車を乗り継ぎその足で千葉の実家へと帰った、いつもいきなり来るからみんな驚く事はない、お爺ちゃんお婆ちゃんも向かいの家に住んでいる、私は家族の事は好きだけど、中でもお爺ちゃんから知らず知らずのうちに大きな影響を受けたらしい、感性が似ているのかな?話しているとどんどん浪漫が溢れてくる、この日も3時間くらいは話していたと思う。きっかけは私の旅の土産話から始まって気づけばお爺ちゃんの若い頃の横須賀基地での訓練を経てそこで会った仲間たちとの別れと赴任先への移動の機関車の中での事、そして辿り着いた東北のアカシヤの木が並ぶ港の話し。

お爺ちゃんは上官に言われ港で待つ間アカシヤの木をなんとなく眺めていたらしい、その風になびく木が今でもなぜか強烈に記憶に残っていると言う。

「不思議なもので、記憶の本筋に関わりのない様な何気ないワンシーンがなぜか心に残っている」

私はその言葉を聞いて心の底が熱くなるのを感じた、出自のわからない感動が湧き起こってくる、私はその時代にその場所にいなかったのに、映画のワンシーンの様に風になびくアカシアが目に浮かぶ、その隙間から日差しがチラチラと揺れて輝いている、お爺ちゃんはその木を見て感動したわけでもなくただぼんやり眺めていただけなのに不思議だなぁ。と言った。

私はその感覚に覚えがある。

それはまさに私が絵を描く時と同じ感覚で、旅の本来の目的地とは、関係のない何気ない風景が強烈に自分の中に焼き付いて離れないことがある、今回私が行った岩手の旅でも、田んぼに囲まれた小さな祠の神社や、その周りを流れる小さな川や、田んぼの中にポツンと建った納屋、多分私はその景色をまたどとかでふと思い出すことになるだろうと。

ごくごく普通のたわいも無いありふれた事が強烈に私に語りかけてくる。

いつか行った海沿いの道を夏の日差しの下歩き森に入る、しばらく歩くと森を抜けてそこには灯台があった。どこかは覚えていないけど日差しを浴びて青白く眩しいくらいに輝いた灯台を忘れないでいる。

そういう感覚が私の中にずっとあって、それを私は言葉を選ばず言えば素晴らしい才能の原石の様なものと思う、私はそういうものに敏感であり、好きなんだ。

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