私の芸術運動192なんの話だろう?

昨日の記事でも触れましたけども、絵を描いていると段々と惨めな気分になる時があります。

目の前の塗りつぶされたキャンバスを見ても、過去の自分の絵を眺めていても、画集を眺めていても、どうしようもない虚しさ、惨めさ、を痛感るすんです。

この心の底で疼くものの正体がなんなのか?私には皆目見当もつきませんが、もしかしたら人間生きていれば誰でも感じるものなんでしょうか?

絵を描くという事は自分の心と向き合う事になりますが、それが形となって絵画へとなってゆく印象が私にはありますが、私の描き上げた絵画達にも私の中のこの疼くものが投影されていてそれを改めて私が眺める事によってそれをまざまざと視認させられる様な構図になっているのかもしれないなと思ったりします。

なんと無く生きていて調子の良い時というのは、あまり細かい事は気にならず気も大きくなっていて、悪く言えば大雑把に生きている時と言えます、しかもそれで何故か上手い事行ってしまう時というものが確かにあります。そういう時自分の過去の絵画を見ると不思議と良いもの描いてるなーと思う時もあるのです。

つまり心が繊細な時程その裏にある何かを感じ取る力があるという事だと私は思います。

私はこの繊細な時の自分が感じ取るこの感覚が大げさとは言え火のないところに煙は立たぬと言う様に、何かしらの因子があるのだろうと思うのです。

その因子が何なのか?

もしかしたらそれこそが私なのかもしれない。

私の絵画は正直根っから明るくて幸せをお裾分けする様な絵画じゃないのは確かです。
絵に用いるモチーフは暗いものじゃないはずなのですが画面を覆う雰囲気というものはどこか虚しいものがあると私は自分で思いますし、私自身今まで生きて来て人生とはどこか虚しくて惨めなものだなと思う事がありました、しかしそれを皮肉に笑い飛ばす力が私にはあるのを私は知っています。

画面いっぱいに広がる幸せオーラ、ありえない程の幸福感が満ちている人の絵を見ると「嘘つけぇ」と心の中で呟いてしまいます。

それは私がいじけた捻くれ者だからというのもあるとは思いますが、今まで色々あった人生を私は笑顔で生きて来たという一つの自負みたいなものがあるからです。

私には幸せをお裾分けする様な絵は描けないだろうなと思う反面、ある意味でこの時代を生きるリアルな想いを絵に乗せていると思っています、私はそういうものにこそ本当の力が宿ると思っています。

虚しい惨めな時こそ自分が試されるわけです。
何も無い自分でも平気で生きて行く、平気な面をして生きて行く事です。

SNSを見ていると沢山の人が自分の日常がいかに素晴らしいか?を投稿しますが、それを見て自分なんて!と落ち込む必要はないわけです、友達が居ない環境で一人で生きていたとしても、ずーっといじけて生きていく必要は無いです。

心はズキズキ痛む事もあるかとは思いますが、案外全ての事は簡単にひっくり返ったりします。

幸せのお裾分けの様なものを見ても、それに比べて自分はダメだなんていちいち比べて生きていては永遠にお裾分けをもらい惨めな想いをし続ける事になるかもしれません。

それに対してイライラしたり、落ち込んだりするのは構いません、が、自分の心をそれによって左右される必要はありません、惨めな想いを感じてもそれの上を平気で跨って前に進んで行ける人間になれば大丈夫ですし、それは誰にでもできる事です。

むしろそういう惨めさや、虚しさを感じて、自分はどうするのか?というところが人生の実の部分に思います。

そういう時に、ふと、自分と同じ様な気持ちで苦しんでいる人が居るかも?と思えたなら、そういう人が居た時は励ましてあげたら良いと思います。

しかも、案外着飾ったり、幸せお裾分けする人の方が苦しんでいたりします、それはざまぁ見ろではなくて、一緒になって励ましてあげるくらいの性格の悪さというか図太さが必要かなと私は思います。笑

ただ、あくまでも生きている限り、一番大切なのは自分の心です。

自分のことだけを考えろという意味では無いですが、自分の心を守る事は最大事、しかも最低限では無くてしっかり自分の心を強く育てていく必要があります。

物語や小説の様に起承転結がはっきりあるわけじゃありませんから、スッキリしないことや、バッドエンドと思われる事もあるでしょうけどそれでも自分のペースで歩いていく強さが私は大切と思っております。

何の話?ですかこれ。

すみませんでした。

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