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Random Access Notebooks


10月10日このnoteを今仕上げている。
今日はデジタルの日である。

2021年2月22日
Daft Punkが解散した。

ドラムマシンのシーケンシャルなデジタルなサウンドから始まり、最後はブラックミュージックの生音バンド編成のアルバムで彼らの活動は終了した


8月21日
東京が息苦しく逃げ出した僕は、静岡の西部山奥の日帰り温泉のサウナに入っている。外の露天は開けていて、家族連れがいたり、常連の方々がスタッフと会話していたり、優しい空気が流れている。

テレビでは甲子園が流れている
僕から見たらサウナの中の12分間の暇つぶしだが、彼らにはとても大切な7回の裏だ
選手達は自分は同じくらい汗をかいているななんて思いながらサウナを出た

今日の朝は静かだった
実家のリビングで仕事をしていた
外は雨があがり、木々が揺れ、鳥が鳴いていた
仕事が捗る心地の良い朝だ。

9月17日
時間が高速で過ぎて行く、時間が過ぎているのか自分がぼーっとしてるのか、必死に生きてるからなのか
段々と薄れてきた記憶だが書いてあると鮮明に思い出すことができる、そんなnoteを少し前に書いた

Twitterを見ていたら切り抜きで
カニエがこんなことを言っていた

「僕らは歴史を学び過度に伝統的になる」
そして続けて
「時には恐れを知らずに行動しなければならない、その考えをぶっ壊す為に」

歴史を学び、過去から未来を想定することで
より良く生きれると思っていたが確かにそれは
物事を保守的に動かすことも増えるのかもしれない
過去以上のものを作るに必要なものは、もっと豊かな想像力、イマジネーションが必要なのだ
シンニホンの安宅和人氏は、日本の漫画SF文化が若者の想像力を豊かにしたと冗談半分に言っていたことを思い出した

未来を想像するにあたって、僕は何を考えるか
正直自分にもわかっていない
未来ってなんだ、


蝕む未来のイメージ

例えば、1971年のクラフトワークの1stアルバムからは明らかに未来の音がする。これが1971年の未来である。
僕が大好きな1985年の未来世紀ブラジルでは既に今に通ずるディストピア的な未来が描かれているわけだが

テクノロジーの進化が僕らの未来ではないし
何となく過去にある未来に縋り付いて、本当の未来について考えたことがないのかもしれないと思った

つまり、未来では電気自動車が走って移動が楽になったり、コンビニが無人化したりで少し便利になる、いや段々と変わってきてもいる。コンビニの物は前から取れ、消費期限が近いものは50円引き、SDGsが未来のアイコンで、それが僕らの未来?

いや社会の未来ではあるが
僕らの未来もあるはずだ

そう思った。


生活のランダムアクセス性

そこで、僕の未来とは何かを考えていた

明日、来月、来年、5年後、10年後
時が流れてゆき、僕らがたどり着くどこかの世界

そこで最近感じていることがある。

Netflixは24時間どのコンテンツにもアクセスが可能である。
いつでも1話から物語が見れていつやめても良い
テレビドラマはそうではなかった、毎週月曜9時にならないと月9は見れない。
続きが気になっても、1週間待たないといけないし
1週間ワクワク待つことができるとも言える。

それは、教育も仕事も食事もすべてに該当する

ウーバーイーツやZOOM、コンビニ、Amazon
そういうものが、物理的な距離を壊し、それらを可能にしている

つまり、今の僕らは一つのタイムライン上に生きていない
目の前の欲や、生活のポップアップ広告のような物に左右されて生きるのに必要なコンテンツを選択している。
いつどのコンテンツにもアクセス可能であるということだ

つまり「今」明日にも明後日にも来月にもアクセスすることができる。
今と未来が直接的に接続されている感覚が最近の僕の中には存在する。

もちろん昔からある話ではある
電気の発明が人間を24時間活動可能にしたわけで

しかしながら、記録メディアがテープからSSDに変わったように
僕らの生活も一つのタイムラインではなく
総合的な質量によって表されることもあるのではないだろうか、つまり
バラバラになったシーケンスをそれをそのまま汲み取って生きていくことは出来ないのだろうか

僕らの生活は映画では無い、どんどんと溜まっていく写真フォルダの如く積み重なっていく。
しかし、自動的に顔認証されたフォルダや自分で作ったフォルダには時間は関係なく、すぐにその瞬間を思い出すことが出来る。
そんな感覚だ。
だから、未来と言われてもピンとこない。

過去と今だけで充分とも思えた。


それでも未来を考える。

7月28日

新宿の新南口の前の道
駅に向かう為歩いていると、広い通路の道側に1人離れて佇む、ヨーロッパ系の女性がいた。
彼女は誰かを探す様にあたりを見渡していた。
すると
遠くから車道を走る1人のヨーロッパ系の男性がやってきた、彼は彼女を見つけると嬉しそうな顔をして、ガードレールを飛び越え、颯爽と彼女の腰を抱き寄せキスをした。

10月10日

なかなか秋がやってこない。
夕方は涼しくなったが、日中はまだTシャツで過ごせる気候だ。
友人と道を歩いていると、道にガラクタの詰まった箱が落ちていた
すると友人があれは、俺が捨てたゴミだと言った
確かにゴミ置き場に置いてあるのは間違いない
しかし、回収は明日である。中身は漫画と六法全書らしい。六法全書で1番イリーガルな用途は鈍器として使うことと本人は言っていた。

今日はデジタルの日である。

彼の家にはまだ旧式のipodを差し込むタイプの音楽プレイヤーがあった、未だに使えるのだが
そいつにはWi-FiもBluetoothも接続されていない
不思議な気分だ。独立してデジタルの音楽を再生している。なんて中途半端な機械なんだろう。
そして、そこからビートクルセイダーズが流れていた、なんてノスタルジックなんだ

彼のデスクには最新のノートパソコンが置いてある。しかし、その奥には2012年型の使い物にならないimacが鎮座している。今やただの鉄屑だ。

買った時は最先端かもしれないけど、10年経ったらもう使い物にならないのは機械だけではないはずだ

しかし、Dockコネクタでしか接続できない音楽プレイヤーも何か愛嬌があって憎めないし
そこから流れる音楽は心地よい閉鎖感があった。


未来を考えようとしても、未来なんて想像できない。社会も変わればテクノロジーも思想も変化していく、それをすべて追いかけることが出来る大学教授、有識者ならば話は別だが

僕は映像ディレクターの端くれなので
動画の切り口で今を考えることが大切であり
それぞれの分野で想像力を働かせ
誰も思い付いていない、想像もしていなかった、未来の種を作ることが今できることな気はしている。

映画の死

ランダムアクセスの話からすると
映画は苦境に立っていると思う。

映画というのは時間芸術であり、必ずある一定の時間を拘束する。
絵や造形は見たい時間見れるが、映画はそうは行かない

例えば、YouTubeでさえ初めの数秒でつまらないと感じたら、閉じるか飛ばすか、冒頭の視聴者率から数秒で1%台になることはざらにある。
だから、Netflixも冒頭には何倍ものお金をかけて作ったり、山場を冒頭に持ってきたりするわけだ

映画館では飛ばすこともスマホを見ることも出来ないが、家ならそうではないし、まず見たことのない2時間の映画をチャレンジするなら、いつも見ている評判の良い韓国ドラマを選択するわけだ

韓国ドラマは一度身始めれば、何のハードルもなく永遠に見てられる。20話20時間拘束できるわけだ、もちろんそれも良い。ヴィンツェンツォも愛の不時着も面白いが、それだけでは味気がない、


何か分からないけど、この作品に2時間預けてみるかというスリルや、映画中盤のつまらない時間だったり、月9を待つ日曜の夜のような時間や、夜中に牛丼を食べに行く散歩道や、友達と無駄話をするファミレス、自転車で横並びになる帰り道とか、そんな不必要で必要な時間を愛してゆきたい

映画は、今のファストフード的なコンテンツ業界とは逆行しているけど

そこにこそ、僕らが失ってはいけない未来への種がある気がしている。


さいごに

今回のnoteは脈絡もなく展開してきた
しかし、脳内はこんな風にごちゃごちゃしながら
答えを導き出していく
過去の記憶だって、一直線になっているわけではない


Daft Punkの最後のアルバムタイトルは
Random Access Memoriesである
シーケンシャルな打ち込みから、ランダムアクセスに変わっている。
それはどんな意味を持っているのだろうか、

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