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『仕事中心で家族を顧みなかったオッサンが 半年の入院で妻と仲良く暮らす輝くジージィになった。』

『仕事中心で家族を顧みなかったオッサンが
半年の入院で妻と仲良く暮らす輝くジージィになった。』ここは京都市の救急病院。窓から比叡山や大文字山が見える景色のいい個室に居る。

私は1952年生まれの68歳。京都の私立大学工学部の1年に在学中希望の職種に進む為、英語会話能力が必要となった。英会話学校の初級に3か月間週に3回通ったが、なかなか上達しない。進級不可となり、別の学校に入学したがそれでも上達しない。米国では子供でもホームレスでも普通に使える言葉が大学生の自分にできないのは何か変だと思い、自分なりに理由を考えてみた。会話学校では教科書の暗記が中心で授業はおもしろくなかった。進級試験も再度不合格となった。

京都のお寺は外人観光客で賑わっている。授業の空き時間に観光寺院で外国人に話しかけてそのお寺の案内を買って出た。これは自分なりの勉強方法であった。この方法は効果が高く、おまけに授業料が不要である。全く会話ができなかった自分がこれを続けた事で、半年ほどで日常会話はできるようになっていた。面白い上に、面識のない人に話しかける能力も身についた。学校の英語教育の方法はは今でも下手だと思っている。

その甲斐あって3年生3学期の就職試験では随分有利であった。1週間毎日面接があって、4月末のゴールデンウィーク前にメーカー系の専門商社に就職が内定した。もともとの希望する職種ではなかったが、その商社に入り、主に中近東向け輸出取引を担当した。

入社から5年ほど経った時、画期的な新商品VHSビデオが発明され、これを中近東地域の業務用に販売する事を担当した。これは教育用に有望かも知れないという事で、TVやカメラなどと組み合わせて教育用に販売すれば世の中の役に立つとの考えを持った。目論見があたり、販売は順調にのびた。

ところが35歳の時に会社が親会社と合併し、メーカー勤務となった。同じ企業グループなのに、この時は商社とメーカーの文化のあまりにもの違いに驚いた。自分達が始めた組み合わせによる販売がやりにくくなった為、40歳の時に独立して小さな商社を始めた。

資本金は1000万円、出資者のひとりの会社のビルに机を置かせてもらった。社員は自分だけ。毎日会社の紹介状を書いていた。そんな会社も、時流に乗っていたのか販売は順調に伸びていった。いつの間にか海外に販売会社を作り、20年経った時には人数も50人近くになった。外人比率が約50%でいつの間にか自分が望んでいた多国籍軍になっていた。

しかし拡大はその辺りまでで、パソコンが映像の記録用として主流になってからは事情が変わってきた。自分の専門知識が通用しない、人脈もない。時流に乗っていないと感じるようになっていった。その頃から、怒りっぽい性格になっていった様に思う。
そんな時、思い返せば昨年(2019年)10月19日(土)の早朝、トイレに行こうと思い寝台から立ち上がると腰砕けとなり、足の自由がきかない。這って携帯電話のある寝台に戻ろうとするが、手にも力が入らない。叫んで妻の助けを求めようと考えたが、別棟に寝ていて声が聞こえるはずはない。仕方なく朝までそこでうずくまっていた。情けない事にその間に小便を漏らしていた。

『どしたん?』と妻の第一声。『見ての通りや、手も足も出ん。身動きがとれん』『救急車呼ぶわ』ということで、10分程で我が家に到着した救急隊員の方が3人掛かりで83Kgの私をストレッチャーに乗せて2Fの寝室から救急車に運んでくれた。その際無線で『意識あり、失禁あり』と大声で報告していたのが、いやに印象に残っている。

この時生まれて初めて救急車の世話になった。考えてみると自分の健康には自信があった。前向きな性格であることも手伝って、大して自分や廻りの人の健康など気にかけず、海外プロジェクトに取り組むことができた。一般の人には味わえない体験ができた。

そうこう考えているうちに10分程で病院の救命センターに到着した。腰が痛いという事でレントゲン、MRI、CTの検査をされた。後で聞いたことであるが、その時診断してくれたのはTVでも報道された事のある名医であった。これがまず自分にとって幸運であった。

検査の結果骨には大きな異常は見られないが、胆管の辺りにうっすら影があるという事であった。血液検査の結果から背骨の内部に炎症があるとの事。また胆管の影は胆石かポリープか、癌の可能性もありということで、開腹手術する事になった。それまでは取りあえず腰痛の主たる原因と思われる化膿性骨髄炎の治療をすることになった。

とは言っても毎日寝台で寝ながらTVを見て、一日に2回抗生剤の点滴をするだけであった。この病は骨に抗生物質が届きにくいので治療には時間が掛かると言われた。特に辛かったのは、大便を出すときに腰の患部が痛くなる為、排便が思うように出来ず便秘になる事だ。1週間もすると食欲がなくなる。下剤を飲んでから浣腸してもらい、それでもまだ排便できず看護婦さんに摘便してもらう事も度々あった。

12月17日に全身麻酔による外科手術が行われた。臍の上を開腹して、病状が確認された。第1ステージの胆管癌であった。この癌は普通早期発見が難しく腰が痛くなったのは大変幸運であったとの事。肝臓三分の一と胆嚢を切除された。この時切り取った部位は見舞いに来ていた次男が確認してくれた。この病の早期発見は珍しいケースであり大学との共同研究のサンプルにさせてほしいとの事であったので、承認した。余談ですが、私の場合は不思議な事に手術中痛みはなかったが、意識はあり続けた。後日胃や腸の内視鏡検査をしてもらったが転移はなく、肝細胞は自己増殖するのでこれで根治ができたとの事。


2020年の元旦。年末までには退院したいと思っていたが、それは叶わなかった。移動は車
いすを使うがその度に小便の袋とその管、腹と鼻から出ている胆汁の管とその袋を移動する必要がある。時々、管が絡んでいやになった。それでも寝台に寝たきりよりは気分が晴れるのでできるだけ車いすで移動した。車いすを腕の力だけで動かすのは意外と重労働。

一年の計は元旦にありと言うが、今年はずっとこうなのかとふと考えてしまう。寝返りの時を除いて、腰は痛くなくなったが小便は尿瓶、大便はおむつの中、食事は座れないので誰かに食べさせてもらう。集中力が低下していて本も読めない。これではいかんと思っても、思考がなかなか前向きにならない。ほんとに楽しくない。

入院中の看護婦さんの献身的な看護は本当に有難かった。心から感謝の気持ちをもった。また妻が隔日に見舞いにきてくれて好物を運んでくれたのも助かった。子供たちや親戚、昔務めていた会社の同期の友人、会社の人、取引先の人など多くの人たちが見舞ってくれて自分はなんて幸せな人間だとつくづく感じた。

皆様のお蔭で、徐々に前向きな気持ちになってきた。妻や娘の助言もあり、退院したらお金中心の今までの価値基準を捨てて、人々に好かれるような一段上の生き方をしようと決めた。4月6日にやっと退院できた。体重は67Kgになっていた。16Kgの減量であった。世間に出てくるとそこはコロナウィルスが蔓延していて、外出規制の真っただ中。長期間の抗生剤使用の為、私の免疫は極端に低下しているはず。今コロナに罹ったら確実に死ぬ。日本中の人がステイホームしていてこれは私にとってはむしろ好都合であった。

昨年10月に倒れるまで、週日は大阪のマンションに寝泊まりして通勤していた。休みの日だけ妻のいる修学院で寝ていた。これがもし大阪で倒れて同じ状態になっていたら、命を落としていたかも知れない。あとで考えるとこれもラッキーであった。

聞くところによると、肝臓が悪くなる主原因は精神的ストレスと怒りっぽい性格との事。半年に亘る闘病生活での反省を生かし、平和で幸せな生活を味わいたいと思った。これからは笑顔を絶やさず、好物を持って病院に通ってくれた人生の伴侶である妻と生まれ育った修学院で仲良く暮らしていく事にしよう。一隅を照らす存在になりたい。

今までの半生、多くの人に支えられて様々な海外プロジェクトを納入してきた。その体験を通して他の人には味わえないような経験を積むことができた。振り返ってみると充実した幸せな半生であった。病室で寝ているとそれらが走馬灯のように脳裏に浮かんできた。娘のアドバイスもあり、この記憶を文字にしておくことにした。


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