禅の修行における幸せ
私達の寿命は長くなりました。昔は50年と言われていたものが、今や事故や病気にさえならなければ100年になる勢いです。それではこの長くなった命をどう生きればいいのか、お坊さんに教えてもらった事の一部をまとめてみました。
布施行
一般のサラリーマンの人が定年を迎える60歳を過ぎる頃から残った人生をどう生きるか、実はこれからが人生の本番が始まります。『残されているのは余生だけだ』という人々がいますが、とんでもない話です。もしもそれを余生と言うなら、その余生こそ真に価値あるものにしなければいけません。
それでは何をすべきなのでしょう。それはこれまで自分を育ててくれた社会に対しての布施行、すなわち『施し』をすることです。恩返しをする事です。お布施というと多くの人はお金や品物を僧侶やお寺に施すというふうに考えがちです。誰かに施しをするのは、金品を与える事だと。これは仏教では財施といいます。
しかし仏教でいうところの施しはそれだけではありません。形あるものを施す事だけでなく仏教には財が無くてもあるいは悟りの境地になくても誰もが出来る布施があります。それらは無財の七施と言い、『七施をさせて頂く』と言います。
1. 眼施(げんせ)後輩や若い人に対して優しい眼差しを向ける
2. 和顔施(わがんせ)いつもにこやかに人と接する
3. 言辞施(ごんじせ)やさしく温かい言葉で話す
4. 身施(しんせ)出来る限りの奉仕をする
5. 心施(しんせ)他人の為に心を配る
6. 床座施(しょうざせ)席や場所を他人に譲る
7. 房舎施(ぼうしゃせ)家や自分の場所を誰かに提供する
これら無財の七施は自分の精神を高め、自分がこの世で役に立っている事を実感させてくれます。そういう気持ちがあるからこそ『させて頂く』という発想になります。そして『させて頂く』という発想が出来た時、不思議と気持ちが柔らかくなります。そんな生き方に変わった時から本当の充実した人生がはじまります。『一隅を照らす』存在に近づけます。
『やらねばならない』と思ったり、『誰かの為にやってあげている』と思ってしまうと、その行為はたちまち苦になってしまいます。
完全はありません
私達が生きている人間である限り常に自分を高めていこうという気持ちを持つ事は大事です。知識を蓄えたり、どんどん新しい経験をするという事だけではありません。今日の自分よりも明日の自分の方が少しでも熟練した心が持てるように。そういう気持ちを持ちながら生きていくことです。それが禅でいう所の修行であり、修行には終わりがありません。
禅の世界では『完全なるもの』を拒否します。完全であるという事は即ちそこで終わりだという事です。それ以上にはならないという事を意味します。限りなく先があるというのが禅の考え方ですから、『完全』にたどり着いてはいけません。もしもたどり着きそうになった時は一度それを破壊して『不完全』なものにしてしまいます。
その不完全は完全の手前にある不完全ではなく完全を超えた不完全という意味です。人生にも完全というものはなく、たどり着いたと思っても、そこは決して終着駅ではありません。終着駅があるとすれば、それは死という事になります。『死』という終着駅に着くまでは私達は旅を続けなくてはいけません。たくさんの駅で途中下車をしながら、『円熟』という旅の土産を手にしていく事です。
感動する力をつけましょう
身体が硬くなると運動能力が低下するように、心が硬くなると感動する能力が低下してきます。このように心が硬くなり、柔軟さを失う事は身体の場合よりある意味はるかに深刻な事態です。では心の柔軟さを保ち、衰えさせない為にはどうすればいいのでしょう。
その為にまず心掛けるべきことは些細な事でも感動する事です。道端に花が咲いているのを見て『ああ、なんて綺麗なんだろう』とつぶやく。お茶を淹れて茶柱が立ったら『今日も運がいいかも』と期待する。タクシーに乗って信号に引っかからなかったら『よし、ラッキーだ』と膝を叩く。
『綺麗だなあ』『ああ、よかった』『ラッキーだ』と独り言でもいいから声に出してみれば、一層効果は大きくなります。そんなくだらない事に、いちいち感動なんかしていられるか等と思ってはいけません。体を常に動かし、負荷を掛けていれば、衰えないように心もその時々に動かしていないとやがて錆びついてしまいます。
『男たるもの寡黙であるべし。少々の事に動じるものでは無い』これもまた変化に対応できない武家社会から続いてきた馬鹿げた教えです。こんな拘束は捨てて、感動したことは出来るだけ口に出す。ちょっとでもいいなと感じたら言葉にして表現する。口先だけでも声に出す。深く考えずに言葉にする。一見些細な事ですが、これこそ廃用性委縮を防ぐ特効薬になります。