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脊柱管狭窄症と心筋症を克服する

一昨年の10月に化膿性骨髄炎で入院する一年前にも腰の痛みが取れず、病院で腰部脊柱管狭窄症と診断されました。『今まで大した病気になった経験が無いのにどうしてこんな事になるのか』と自問自答しました。

脊柱管狭窄症と心筋症

杖をついたりジープを押して足を引きずる私を見て、『大丈夫か?』と友人達が声をかけてくれます。『実は脊柱管狭窄症と診断されてね』と私は笑って答えるのですが、『手術は?』『治るのか?』『ひょっとして車椅子生活になるのでは?』と、これは彼らの表情から私が読み取ったものも含まれています。

脊柱管狭窄症というのは何らかの原因により、脊柱管の一部が狭くなったもので、これが脊髄の神経に触ると腰に激痛が走ります。最終的には手術で骨を削って脊柱管を広げる治療方があるとの事でした。私の場合は遺伝による要因が多いみたいです。

整体や脊柱へのボックス注射による治療を数回試みましたが一向によくならない為、『手術してもらう』と決心し、病院の予約を入れました。全身麻酔で、腹ばいになって4時間ほど掛かる大手術と告げられました。万が一失敗すれば、後の半生が車椅子生活になるであろうとの事でした。

入院予定の前日、出社しようと思い大阪の自宅を出て5歩ほど歩くと、なぜか額に冷や汗が出て少し息苦しかったので、ベッドに戻り一時間程横になりました。それで楽になったので出社しました。次の日に入院して、主治医にその事を言うと、『心電図を取りましょう』となりました。その結果狭心症の疑いありとの事で、そちらを先行して確認しないと手術中に発作が起きた場合、心臓が止まってしまう可能性があると言われました。

入院前の2か月は私の人生観を大きく変えました。『足が不自由になった私は生活弱者であり、これまでのように肩肘張らなくていい』そう考えると気持ちが楽になり、それまでのツッパリ人生がいかに愚かなものであったかを思い知らされました。仕事に於いても対人関係に於いても、無理やり強がっていた自分に気付かされました。

ところが、友人・知人は気の毒がります。同情してくれます。私が笑顔でニコニコすればするほど、それは強がっていると取られていたみたいです。その頃、米国でトランプ政権になってから、イラン向けの取引が本当に難しくなってきました。健康面でも仕事の面でも『逆境』を感じていました。

整形外科専門の病院から心臓外科で有名な病院へ転院して、2週間後にカテーテルによる検査と治療が行われました。左手首からカテーテル管を入れて心臓血管の検査と治療をしてもらうのですが、その様子は手術台に横たわる私にも見る事ができる2台のモニターに映し出されていて『問題の部分はここです』と折れ曲がった心臓動脈血管を示されました。

手術は女性の主治医によるもので、機械を操作する複数の若い男性助手にテキパキと指示が出されている様子から頼りになる方だと安心しました。手首の局部麻酔だけでしたので痛くも痒くもなく、自分の心臓が手術されている様子はまるで別世界に起こっている情景のような印象でした。

不思議な事に手術後、腰の痛みも改善してその事を整形外科の病院の先生に報告すると、『取り敢えず手術はせずに様子をみましょう』という事になりました。心臓と腰は関係ないように思っていましたが、医学では解明できていない事もあるみたいです。

とにかく腰痛のお陰で心臓の欠陥が見つかって簡単な手術によって治療できたのですから幸運という他、ありません。その一年後、以前の記事に書いたように化膿性骨髄炎を患い、救急車で運ばれて6か月間の入院生活を体験しました。この時は腰の痛みのお陰で胆管が悪い事が見つかり、またまた幸運でした。

退院するとコロナの蔓延で、外出もできず出勤は週に2日、あとは京都の自宅で彫刻と『半生記録』執筆生活を送っています。明後日4月6日が退院一年の記念日になります。私にとって、脊柱管狭窄症は逆境の始まりでしたが家族や周りの人達のお陰で今はほぼ健康に充実した生活を送る事ができています。

仕事の方も息子たちと会社に残ってくれたメンバーの皆様のお陰でコロナ禍をうまく捉えて新しいエリアに発展しつつあります。この3年間の逆境は導かれたものであり、自分の未熟な人格部分の成長のトレーニングになりました。この境遇を与えて頂いた事を感謝しています。

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