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『崇高』シリーズ

11月になりましたね。個展まで1ヶ月を切ったので、そわそわしています。でも、始まったら、アッという間に終わってしまうんですけどね。

10月は『崇高』のシリーズを描き始めました。F6号のキャンバスに5点描いたのですが、1枚目は不採用にして、実質いま4点です。作品の特徴を要約すると、崇高という概念がもっている両義性を表現しています。具体的には、顔だけを切り取った表現は、ある種のデザイン的なPOPさをイメージします。ですが、日本文化の文脈から見れば、これはどう見ても晒し首ですよね。その両極を合せ持つ作品です。……と書くと、理論から生まれた表現ということになりますが、実は以前から晒し首を描けないかなぁと考えており、でも晒し首の絵が部屋に並ぶ光景はどうなんだろうと思って自制していました。それが『崇高』を使えばグロにならずに描けるのではないかと考えたわけです(まあ、江戸時代までは、日常の光景でしたが)。

ただし、『崇高』の条件には、大きいというのがあります。その条件に当てはまらないので、今回は習作と言えます。この作品を全部、500号ぐらいのキャンバスに描いて、ズラーッと並べたいのですが、どこかに「YOUやっちゃいなヨ、制作費、NO PROBLEMだヨ!」と言ってくれるパトロン様が現れないと無理っスよね……。

さて、僕は自分の中に、作品制作を制限する、ある感覚があって、それが一つの基準になっています。それは、

「これは、僕がやらなくても、誰かがやるだろうからいいや」という感覚です。

オリジナリティ願望を持っているけれど、誰もやったことのない表現など、もはや無いという状況下で、あえてそんなことを考えるのはナンセンスなので、ある意味それを、言い換えているのかもしれません。このご時世、唯一無二の作品を作ろうなんて、どうかしてますよね。でも、心の奥底では、その思いがフツフツと煮えたぎっているので、それをカジュアルに言い換えたのが「それ、僕がやらなくても、世界中のどこかの誰かがやるでしょ」という言葉です。この消去法的な態度は、僕の作品のコンセプト「西洋と日本の間(あいだ)の現代美術」にも反映してますよね、たぶん。

そして、あと課題は、これをどうSNSを使って、しかるべきコミュニティの人たちに届けるか、なんですよねぇ……。

ちなみに個展は、
2018年12月1日(土)〜15日(土)
14時〜19時(期間中無休)
会場はキャズ(CAS)
の予定です。

#アートの思考過程


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