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永井均著『マンガは哲学する』

永井均著『マンガは哲学する』(岩波現代文庫2009年刊)を読みました。マルクス・ガブリエル入門の打ち上げで哲学界の方々から勧められた本です。内容は著者が好きなマンガを取り上げて、哲学的な視点から解説しているものです。著者はあとがきで、マンガを例に挙げることでしか説明できない哲学的問題を扱ったと告白しています。

その内容が衝撃的な面白さで、しかも僕のいま抱えている問題を解決するヒントになるようなタイムリーな話が書かれていました。その最も重要なキーワードは哲学的感度です。著者はマンガの中でも哲学的感度を持ったものと、そうでないものがあると言い、その優れた例として『感染るんです』を挙げています。哲学的感度を言葉で説明するのは難しいのですが、僕が今一番知りたい芸術と哲学の程よい距離感を絶妙に説明していると思いました。

著者はマンガを芸術と定義しています。では同じ芸術のカテゴリーに属する現代美術にそれを当てはめるとどうなるのか。ひとつ言えることは、マンガは本来、哲学的な表現を意図したものではありません。だから、そこに哲学的感度の高い作品があったとしても、それは偶然そうなったに過ぎないということです。

ですが、現代美術は芸術の価値基準として、美的価値より概念を上位に置いているので、そもそも成立条件に哲学が含まれていると言えます。つまり、マンガの場合の哲学的感度は偶然実装されたものですが、現代美術はそれが必然ということです。

ただ、その実装のされ方と見え方が難しい。著者が例に挙げている、良い例が『感染るんです』で、マンガとして悪いわけではないが哲学的感度が低いと言われたのが、もう一つの方です。確かに全然違うというのはわかります。哲学的感度を支える表現の質も関係がありそう。まあ、それは当たり前か。

あとがきで『ゴーマニズム宣言』に、なぜ哲学的感度がないのかを説明した部分。これも一つの答えですね。

「世の中にすでに公認されている問題において一方の側に立ってしまいがちな人は、それがどのような問題で、どちら側に立つのであれ、哲学をすることはまず不可能である。哲学は、他に誰もその存在を感知しない新たな問題をひとりで感知し、だれも知らない対立の一方の側に立ってひとりで闘うことだからである(この闘いの過程や結果は世の中の多くの人々からは世の中ですでに存在している問題に対する答えの一種と誤解されてしまうのであるが)」

#アートの思考過程

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