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メモ_φ(・_・

ただの独り言です。

『分析美学入門』で見た、ベリス・ゴートの束概念の話が気に入って、なんでも束概念で考えている今日この頃です。と言ってもその理論を、正しく理解していないどころか、かなりの曲解をしていますが(研究者ではなく作家だか許して)、とりあえずシンプルに、物事は要素の束でできているという程度の理解です。

例えば、そのモノが一目で現代美術作品と判別されるのは、作品を構成する各要素が、現代美術という上位概念に束ねられている状態ではないかということです。その一つ一つの要素は抽象度が高くても、集まると現代美術作品になる感じ。まあ、編集されているとも言えますが。

青という要素があればイヴ・クラインの文脈が発生かも知れません。あら便利。抽象という要素があれば、列挙しがたいほどの文脈がありますし、そこに何かしら日本という要素がくれば、尾形光琳とかが関係するかも知れない。自由自在だ。想像しているだけで楽しい作業です。つまり、この世界には絶対的な美の基準があるはずだ、という本質主義に対して「そんなことないよッ!」という立場ですね。

ただし、心地よい要素だけを集めていると、既存のパターンに陥りやすいとも言えます。それが現代美術作品と一目で判別されるということは、要素の選択にバイアスがかかっていて、限りなく、これを入れなきゃ現代美術じゃないでしょ?というモノだけで束になっている可能性もあります。それはもう思考停止状態でしょう。

しかし、まったく現代美術と無関係な要素だけの束でも、それをホワイトキューブに置けば、優劣はともかく、現代美術作品と見られるわけで、ホワイトキューブはips細胞級の最強の要素ですね。元々は挑戦だったはずなのに、ん?ホワイトキューブは要素ではなく、強力な意味の場かな。

僕は自作を、何でもモノクロームで描けば自分の作品になるんじゃないかと思い始めているのですが、それは各作品の束の中に、要素としてのモノクロームが共通して入っているというより、モノクローム自体で作品の要素をガチッと束ねている感覚なんです。でもその上位概念に現代美術があるので、正確に表現すれば、束ねられているのは要素ではなく、無数の要素の束かも知れない。つまり、束を束ねている感じ。極論すれば束の最小単位は量子まで行ってしまうので、もはや何を何で縛っているのやら。そこは最終的に意図で串刺しにしてまとめるのでしょうか。

しかしながら、この束概念はそもそも作品をカテゴリーやクラスに分けるための理論だし、もう少しざっくりとして、汎用の効くものです。まあ、作家が使うものじゃないですよね…。

#アートの思考過程

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